吾妻家美佐尾・政之助

吾妻家美佐尾・政之助

 人 物

 吾妻家あづまや 美佐尾みさお
 ・本 名 谷田 サワ子
 ・生没年 ??~1970年以降
 ・出身地 北国?

 吾妻家あづまや 政之助まさのすけ
 ・本 名 谷田 ?
 ・生没年 ??~??
 ・出身地 北国?

 来 歴

 吾妻家美佐尾・政之助は東京漫才黎明期に活躍した漫才師。男性のような名前であるがれっきとした女性である。元々は安来節をやっており、声よし顔よし度胸よしの三拍子そろった姉妹漫才で人気を博したという。

 くわしい経歴に謎が残るものの、大正時代には既に芸人をやっていた。

 大正時代の安来節ブームに便乗して安来節姉妹「吾妻家政之助・美佐尾」としてデビュー。政之助が姉、美佐尾が妹である。

 少しだけ東京へいたこともあるが、既に東京では大和家八千代三姉妹や大和家かほる、大津検花奴などが全盛を築いていた関係からか、主に全国を巡業して歩いていたという。

 長らく樺太や北海道にもいたそうで、当地ではなかなか人気があったという。

 1926年頃に入門したのが、喜楽家富士子という後のチンドン屋の名人。この辺りの事は大場ひろみ『チンドン繁盛記』に詳しい。

富士子 近所の女の人が三味線弾いてたの。ちょうど安来節が流行ってた時分で、私は三味線の音が大好きで外から覗いてた。「こんにちは」って挨拶したら、「唄ってみな、オレ三味線弾くから」って言うから、安来節を唄ったらピッタリ合って、すばらしいってわけだ。その人に「踊り子も、唄う人も今いないから、あんた行かないか。 座長に話するから」と言われて、私もきらいじゃないから「行ってみましょう」と。
――で、座長の所へ。
富士子 楽屋で唄わされて、座長に「ウーン、大したもんだ」って言われた。ほいで、座長は私を芸人にすることにしたの。でも父親は「芸人は乞食と同じだよ、ひとつ道を間違えばメチャクチャに なっちゃうよ。お前が好きならしょうがないけども、それを承知で行くなら行け」って。
――そして、座員になった。
富士子 安来節の、ミサオマサノスケの一座 。 マサノスケは姉様、ミサオは妹、二人で漫才やってた。 幕開けには、一番下手な人間に唄わせるわけ。オレが幕開けで、浪花節入れて「牡丹の花』唄ったの。そしたら、「幕開けにこんな上手いのが」って、お客が大変な騒ぎ。おひねりがボンボンボンボンと舞台の上に飛んで山となるんだよ。それで、二番目に唄わしてもらうようになったら、今度は兄弟子たちがやきもち焼いて。

 ただ一座の内部は最悪だったそうで、太夫元は吾妻家姉妹しか見ておらず、祝儀や木戸銭を全て着服するような横暴な男であり、先輩や同僚はいたずらや妨害ばかりして来たそうである。最終的に富士子は怒って一座を飛び出してしまった。無理もない。

 安来節の人気低迷に従い、漫才に転向。自慢の喉を生かした浪曲や民謡を主体とした音曲漫才で人気を集めるようになった。

 1932年4月1日、浅草三友館に出演。『都新聞』(3月31日号)の広告に、

▲三友館 一日より
大阪女優松島家玉子、尾上多賀女、松島家玉枝、玉奴、玉次、光枝、弘子、つな子、小文に六年振りで上京の萬歳吾妻家美佐男、政之助外に安来節大和家八千代一行出演

 という記載がある。以来、三友館を中心に漫才師として定期的に出演するようになる。

 この頃、『読売新聞』(1932年6月9日号)に、「浪曲万歳で客を呼ぶ浅草の唄ひ女が楽屋で読む雑誌はと見れば何とまア英文雑誌」という形で紹介されている。

 ナンセンス「可愛いあなた」七景――と銘打つた舞台で唄ふ「銀座の柳」の合唱が、「三友館さん江ひゐきより」の幕に隠されると、エイラムネ、エイ、チョコレートにキャラメル、玉子に牛乳の叫びが朦朦と立ち込めたバットの煙の中を隅から隅まで掻き立てる
 夜の浅草の光りと闇の狂躁の中に悠々と唄つてゐる電気館の真打の風車が、暑い暑い三友館の警官席の背後の真っ黒な窓懸けに明るい影を写してゐる
 紫と緑の桐の数が大きく浮かんだ左右へ「吾妻家さん江」の白羽二重の卓掛が波打つてゐる――
「待つてやした」
「出臍イヨウ御苦労」
「ヨウそつくり、玉の井に」
 世呼んで之を浅草の大衆的観客と云ふ、緑地に牡丹の模様を浮き出したのが姉の政之助さん、紫地に道成寺の白拍子っ花子の裾模様が妹の美佐尾さん、浪曲万歳の看板で人気を浚つてゐる二人だ
「サア行きませう」
「威勢よく

「唄はして貰ひませう」
「お三味線をあしらつて頂いて」
―名古屋甚句――
「ヘエ」
「ではお客様のお言葉通り名古屋甚句を」
 舞台横の二階から三味線と太鼓が鳴り出す
―筑波の国からエーあのはるばると、サア父を尋ねて石童丸
「今道心がましまさば」
…先代萩に早変りだ
…千年万年待つたとて
…「昨日もそつたも今道心、をととひそつたも今道心、たゞ道心では相判らぬ俗の名を……」
「ぞくの名は石川五右衛門、鼠小僧…」
 観客がワツとくる
 タタタツタ両人の甚句に合した観客の手拍子が急テンポだ―
「では、相も変はらず何も浪花節の物真似を……」
「友衛」
「ハイ」
「米若」
「雲月」
「では最初友衛から」
 紅い紐のついた黒塗りの卓子で腹をかくして湯を一口――
 なけと云はれて山時鳥、闇夜にうつかり啼かれもせまい、なくなと云はれりやなほせきあげ……友衛だ
「うまい、うまアい」
「出臍からよくまアいゝ声が出るなア」
 場内がワツとざわめく
「臍が声を出すんぢやありませんよ」
 微笑を浮かべて美佐尾さんが舞台から反駁する―浪曲万歳、大衆的浅草―それをくど/\説明するのは無駄な話です
 だが私たちは舞台裏のも一つの美佐尾さんの姿を見なければならないそこには「レデイース・ホーム・ジアナル」いま欧米で最も多くの婦人愛読者を持つてゐると云ふ堂々たる婦人雑誌だ、狭い汚い楽屋で、出臍氏は暇さへあればそれに眼をさらしてゐます、思ひがけない浅草風景の一つです、彼女氏、何を得るや?

 英文雑誌のどこまで理解できたのか判然としないが、女芸人らしからぬインテリさを持っていたのは事実であろう。

 1934年頃にコンビ解消し、美佐尾は楽師上がりの武田三郎と結婚。夫婦漫才となった。政之助は独立した。

 1940年には政之助一座として台湾を巡業している。『台湾芸術新報』(10月号)に当時の公演模様が酷評されて掲載されている。

○栄座の吾妻家政之助一行 女座長といふだけに呼名が良いから観客も相当に無ければならない筈だがどうもモ一ツハッキリしなかつた。総体に漫才が下卑てゐる。都家駒蔵も昨年来台の時と同じネタで、西の宮の飴売なぞはあんまりお古い。どうしてこの御連中は商売に勉強をしないかと情けなくなる。これでは自然、社会から捨てられて、昔日の萬歳と同一の運命を辿る結果になるのではあるまいか。新体制下の今日、芸人も大に奮闘努力、芸術報国に邁進するといふことは、各方面から聴いてゐるが、何時までも旧套を脱せずに、其の日/\を過せば良いといふやうな連中は、宜しく此の際転業すべしである。 
 吾妻家政之助、女であるが私は座長であるといふ権式を見せたいのが精一杯に見へる。芸術を高尚に演るといふことゝ、権式を備へるといふことは別問題である。権式は芸術の力で自然に備はるものである以上、勉強が大切である。 
 然し、この人は既に固つてゐる一つの鋳形に嵌まつてしまつて、もう如何共する事は出来まい。

 1942年には、武田三郎・吾妻美佐子名義で帝都漫才協会に参加。同会の名簿に記載がある。本名はここから割り出した。

 戦後も漫才を続けていたが、漫才研究会などとは距離を置き、巡業や余興を専らにしていた模様である。武田三郎と共に数種類の楽器を操り、合奏する珍芸で人気があったという。

 そのあたりの事は武田三郎・吾妻美佐子の項目で書く事にしよう。

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