橘家デブ子・花輔

橘家デブ子・花輔

  人 物

 橘家 たちばなやデブ子  

 ・本 名 ??  

 ・生没年 ??~??  
 ・出身地 ??

 橘家たちばなや 花輔はなすけ
 
・本 名 ??  
 ・生没年 ??~??  
 ・出身地 ??

 来 歴  

 東京漫才の創成期に活躍した清丸、喜代駒、染団治らと肩を並べるほどの最古参にも関わらず、その実態は殆ど明らかになっていない、まことに面妖なコンビである。ここではわずかに遺された資料を基にこのコンビの姿を辿っていく事にする。  

 花輔は名前の通り、噺家の出身。『大衆日本音曲全集 12』の中に、

 今日では橘圓(原文ママ)の弟子の花輔がデブ子と落語家を脱して漫才になつたり……

(「大衆日本音曲全集 12」より「漫才の歴史」 500頁)

 と、いう記載がある。

 この記載を本当とするならば、罹災死した橘ノ円十郎、東京漫才の長老、橘エンジロは、彼と兄弟弟子に当たる、ということになる。

 なお、橘ノ圓の門下からは、橘ノ一円・百円、円十郎など、滑稽掛合や茶番を得意とする芸人が輩出されていることが確認されているので、落語家だった花輔が漫才師になったところで、これという驚きはない。  

当然芸人としてのキャリアは古く、1917年の『九州日報』(11月6日号)の広告に、

◇川丈座(博多) 東京落語春風亭柳窓一行昨日乗込み本日より花々しく開演の筈にて今初日の番組左の如し。
東の旅(橘家圓六)かる口(一二三、五六八)音曲噺(立花家花輔)熊の皮(三遊亭歌之助)素人車手踊(立花家圓三)源平穴探し(春風亭今松)美術紙切り(水量軒アヒル)東京音曲(桂文團次)紺屋高尾(春風亭柳窓)大切出雲土産鰌掬い

 とある。但し、気をつけねばならないのは、明治から大正にかけて、立花家花輔という同姓同名の女流音曲師が存在した点である。記載だけではどちらがどちらなのか判らない事が多い。

 1925年には、東京に進出しており、『都新聞』(7月16日号)に

 ▲御園劇場 安来節従来の一座へ歌道楽花輔加入

 とある。この頃はまだ音曲師だったようだが、色物の傾向を強めていたと見えて、『都新聞』(8月13日号)の広告に、

 ▲御園劇場 安来節一座13日より歌道楽橘の花輔餘興に滑稽一人相撲

 とあるのが目につく。

 漫才になったのは、その翌年の1926年頃で、『都新聞』(1926年12月14日号)の広告に、

 ▲浅草劇場 14日より高級萬歳大倉春子大倉寿賀芳、橘の花香(註・はなか)、橘の花輔加入

 とあるのが確認できる。相方の花香が、後年のデブ子と同一人物かどうかまでは判らない。

 1927年には、橘家花子という相方とコンビを結成していたようで、『都新聞』(9月6日号)の広告に、

 ▲浅草第二館 女道楽奈美江改め濱の家千鳥、万歳花助、花子加入

 とある。

 1927年6月19日に発行された「読売新聞」に、「第一劇場と第二館」という公演案内が掲載されており、その中に、

  
 浅草の第一劇場と第二館とは三十銭の入場料で十八日から同館の共通興行を實施する事になり、第一劇場は従前通り更生歌劇團が出演し第二館は新に陣容を整へ関西萬歳の芦の家雁玉、玉子家政夫、橘家花輔、君子、砂川菊丸、同清、大川若次、デブ、金八……  

(「読売新聞」 第18063号)

 と、橘家花輔の存在を確認できる。ただ、この時、デブ子とコンビ組んでいたか判然としない。

 確実に「デブ子・花輔」となったと確認できるのは、1928年頃で、『都新聞』(3月5日号)に、

 ▲柳櫻會 水天館経営一周年記念として五日夜五時より同館に開催、出演者は、
阪東左門、森野五郎、片岡松燕、中村又五郎、加志田松緑、大辻司郎、三亀松、金語楼、歌澤寅緑、芳村辰三郎社中、新日本舞踊協會歌劇團、高級萬歳花輔、デブ子等

 一頃は浅草の人気者だったようで、当時の人気劇場であった三友館の専属漫才師だったという。当時の東京では吉本も松竹もそこまで勢力がなかった事を考えると、劇場専属とは相当の売れっ子だったのではないだろうか。その証拠として、以下のような記事がある。

浅草太平記「給金は入場券で(3)」

  園劇場が先月の井伊友三郎劇を終演してから、目下の田宮貞楽の喜楽會を開ける迄の五日間を、小屋を空家にして置くことも出来ないので、諸流演藝大會を催した、が成績は失敗だつた、といふのは名のある藝人は數へる位で、あとは名を見るのも始めてのやうな人ばかり中に浅草の万歳界で人気あるデブ子・花輔が、思ひもつかない變名で出演してゐたが、なぜ二人はデブ子・花輔で出なかつたかしらといふと両人は
 友館の専属になってゐる、されば同じ土地の公園劇場に臨時出演をするのにデブ子、花輔の名ではさすがに出られない、それも公園劇場が將来専属にしても三友館以上の高給を拂つてくれるのならば、また考へやうもあるが、たつた五日間だけ出て三友館の方を馘(註・クビ)になつたら、あすが日から早速生活に差閊えると斯くは名を憚つて出た譯で、かういふ風の變名、假名での藝人が多かつたゝめに、馴染も呼べずこの演藝會失敗に終つたといふ話。

(「都新聞」昭和8年4月10日号 5頁)

 内容としては、そこまで面白いものではないが、当時の人気ぶりと事情を偲べる数少ない資料として見れば、大変貴重なものではないだろうか。その時、名乗ったという変名は目下調査中である。

 これ以外の記載としては、「大衆芸能資料集成」の中にある松鶴家千代若・千代菊の聞書きの中に、


(東京に初見参した時期は何時頃かと尋ねられ、)
千代若 そう、昭和三、四年ですね。その時はまだ五、六組しかいませんでしたよ。立花家デブ・花助(原文ママ)、小桜金之助・セメンダル、荒川末丸、東喜代駒、林家染団治、荒川清丸位でした。


(「大衆芸能資料集成 7巻」 343頁) 

 と、あるのが、わずかに参考になる程度か。それ以外は小島貞二の本に名前だけ見える程度で、チャップリン・ウグイス、荒川清丸など、古い漫才をよく知っていた波多野栄一でさえ、このコンビの事は明記していない。  

 1943年の帝都漫才協会には、その名前を確認する事は出来ないので、少なくとも戦前――1940年代には廃業していた模様か。

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