橘家デブ子・花輔

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橘家デブ子・花輔

人物

橘家 たちばなやデブ子  
本 名 ??  
生没年 ??~??  
出身地 ??

橘家 花輔たちばなや はなすけ
本 名 ??  
生没年 ??~??  
出身地 ??


来歴  

 東京漫才の創成期に活躍した清丸、喜代駒、染団治らと肩を並べるほどの最古参にも関わらず、その実態は殆ど明らかになっていない、まことに面妖なコンビである。ここではわずかに遺された資料を基にこのコンビの姿を辿っていく事にする。  

 二人がいつ頃どこでコンビを結成したかはわからない。「大衆日本音曲全集 12」の中に、

 今日では橘圓(原文ママ)の弟子の花輔がデブ子と落語家を脱して漫才になつたり……

(「大衆日本音曲全集 12」より「漫才の歴史」 500頁)

 と、いう記載があるのだが、これがこのコンビ(特に花輔)を知ることのできる僅かな資料と言っても過言ではない。亭号の橘家とある通り、落語と関係を持っていたのは事実のようだ。  

 この記載を本当とするならば、東京漫才の長老、橘エンジロは、彼と兄弟弟子に当たる、ということになる。なお、橘ノ圓の門下からは、橘ノ一円・百円、円十郎など、滑稽掛合や茶番を得意とする芸人が輩出されていることが確認されているので、落語家だった花輔が漫才師になったところで、これという驚きはない。  

 また、昭和2年6月19日に発行された「読売新聞」に、「第一劇場と第二館」という公演案内が掲載されており、その中に、

  
 浅草の第一劇場と第二館とは三十銭の入場料で十八日から同館の共通興行を實施する事になり、第一劇場は従前通り更生歌劇團が出演し第二館は新に陣容を整へ関西萬歳の芦の家雁玉、玉子家政夫、橘家花輔、君子、砂川菊丸、同清、大川若次、デブ、金八……  

(「読売新聞」 第18063号)

 と、橘家花輔の存在を確認できる。 これだけみると、橘家花輔は関西出身のように見えないこともない。(もっとも橘ノ圓が関西で活躍した芸人だと考えると不自然ではないのだが、)この人もまた、林家染団治らと同じように関西から上京してきて、そのまま居ついたというパターンではないか。しかし、この資料だけでは花輔が君子とデブ、どちらと組んでいたのかもわからないし(コンビ順なのか、看板順なのか明らかになっていない)、どういう活動をしていたのか、推測の域を出ることが出来ない。

 また、一頃は浅草の人気者だったようで、当時の人気劇場であった三友館の専属漫才師だったという。当時の東京では吉本も松竹もそこまで勢力がなかった事を考えると、劇場専属とは相当の売れっ子だったのではないだろうか。その証拠として、以下のような記事がある。

浅草太平記「給金は入場券で(3)」

  園劇場が先月の井伊友三郎劇を終演してから、目下の田宮貞楽の喜楽會を開ける迄の五日間を、小屋を空家にして置くことも出来ないので、諸流演藝大會を催した、が成績は失敗だつた、といふのは名のある藝人は數へる位で、あとは名を見るのも始めてのやうな人ばかり中に浅草の万歳界で人気あるデブ子・花輔が、思ひもつかない變名で出演してゐたが、なぜ二人はデブ子・花輔で出なかつたかしらといふと両人は
 友館の専属になってゐる、されば同じ土地の公園劇場に臨時出演をするのにデブ子、花輔の名ではさすがに出られない、それも公園劇場が將来専属にしても三友館以上の高給を拂つてくれるのならば、また考へやうもあるが、たつた五日間だけ出て三友館の方を馘(註・クビ)になつたら、あすが日から早速生活に差閊えると斯くは名を憚つて出た譯で、かういふ風の變名、假名での藝人が多かつたゝめに、馴染も呼べずこの演藝會失敗に終つたといふ話。

(「都新聞」昭和8年4月10日号 5頁)

 内容としては、そこまで面白いものではないが、当時の人気ぶりと事情を偲べる数少ない資料として見れば、大変貴重なものではないだろうか。その時、名乗ったという変名は目下調査中である。

 これ以外の記載としては、「大衆芸能資料集成」の中にある松鶴家千代若・千代菊の聞書きの中に、


(東京に初見参した時期は何時頃かと尋ねられ、)
千代若 そう、昭和三、四年ですね。その時はまだ五、六組しかいませんでしたよ。立花家デブ・花助(原文ママ)、小桜金之助・セメンダル、荒川末丸、東喜代駒、林家染団治、荒川清丸位でした。


(「大衆芸能資料集成 7巻」 343頁) 

 と、あるのが、わずかに参考になる程度か。それ以外は小島貞二の本に名前だけ見える程度で、チャップリン・ウグイス、荒川清丸など、古い漫才をよく知っていた波多野栄一でさえ、このコンビの事は明記していない。  

 目下はこれが限界である。何かご存知の方はご教示くだされば幸いなる次第。

芸風  

 どういう形式の漫才をやっていたのか分からない。推測であるが、多分夫婦漫才であったこと、それにデブという芸名の通り、恰幅のいい女だったのだろうと推測する。大正から昭和にかけて、デブ、セメンダル(セメント樽の略)など、恰幅のいい人がそういう芸名を名乗ることも度々あった。東京ではこの人と、桃の家セメンダルが代表的な存在である。

参考資料  

 先述の通り、目下資料の確認が取れてない上にほとんど残されてないので資料と呼べるようなものがない。わずかに小島貞二の著作及び松鶴家千代若・千代菊の聞き書き、「大衆日本音曲全集12」、それに新聞の記事や広告がその役割を補っている程度である。

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