大倉寿賀若・西宮奈美江
人 物
大倉 寿賀若
・本 名 一菊 丸二
・生没年 1900年9月17日?~??
・出身地 関西?
西宮 奈美江
・本 名 西宮 もと
・生没年 1906年5月17日?~??
・出身地 ??
来 歴
大倉寿賀若・西宮奈美江は戦前戦後活躍した漫才師。大倉寿賀若は江州音頭の家元・大倉寿賀芳の高弟で、昭和のはじめから既に一枚看板として活躍していた古株の漫才師であった。寿賀若は十返舎亀造・菊次の十返舎菊次と結婚していた事がある。
本名と生年月日は「陸恤庶發第四八五號 船舶乗船ニ関スル件申請」(1940年6月11日)より割り出した。以下はその書類の引用。
陸軍恤兵部主催北支方面皇軍慰問團人名表(八名)
音樂 サキソホン演奏 工藤義彦 工藤義彦 明治丗一年十月廿七日
舞踊と音樂 工藤正子 工藤君江 大正十四年五月六日
〃 工藤清子 工藤梅子 大正十一年八月廿八日
漫 才 大倉須賀若 一菊丸二 明治丗三年九月十七日
〃 西宮奈美江 西宮もと 明治丗九年五月十七日
落 語 三升家勝太郎 田崎操 明治丗八年二月廿五日
浪 曲 京山敷島 平澤武雄 明治廿九年二月十一日
三 味 線 東家鶴城 坂上豊吉 明治廿六年三月二十日
ただ、他の名簿を見ると奈美江の方が年上だったり、生年に齟齬があったり――と実際の生年はよくわかっていない。
寿賀若の師匠は大倉寿賀芳。この寿賀芳は江州音頭出身の萬歳師で、砂川捨丸や荒川浅丸と人気を競い合った――というのだから古い。ちなみに寿賀芳は戦後まで健在であった。
寿賀若の経歴は定かではないものの、壽賀芳に入門し、元々は音頭取りをやっていたらしい。そして、音頭ともに漫才を覚えた模様か。
関西で漫才師をやっていたのは確かなようで、月亭春松『落語系図』掲載の『昭和三年三月より昭和四年一月十日迄で 花月派吉本興行部専属萬歳連名』の中に「荒川壽賀若・芳一」とあるのが確認できる。
この頃から上京してくるようになり、1928年から盛んに出演するようになる。
『都新聞』(1929年1月3日号)の広告に、「遊楽館 荒川芳一大倉壽賀若 帝京座 大和家春雄かほる」とあるのを見ると、この頃にはもう一人前の漫才師として扱われていた模様。
以来、浅草を拠点に活躍。東京吉本の第一期生的な存在だったようで、当時吉本が持っていた東京の劇場・万成座を拠点に出勤している様子が確認できる。
1930年代に入り、東京漫才が盛んになり始めるや、荒川芳一とのコンビを解消し、西宮もととコンビを組むようになった。
西宮もとの前歴は不明。女芸人だったのは間違いないが、何をやっていてどういう経歴の持ち主なのかまではわからない。
1940年代に入り、戦雲が立ち込めるようになると、軍事慰問にも参加。
1940年3月、南京を中心とした演芸慰問に参加。参加者は歌手の佐々木章、菊池章子、菅沼ゆき子。アコーディオンの岡本勝久、漫談の吉井俊郎、舞踊の三田耕子――それに寿賀若・奈美江。
1940年6月にも、塘沽を中心とした演芸慰問に出ている。上の名簿がその写しである。
1941年4月、今度は上海を中心とした演芸慰問へ出発。参加者は夫婦漫才の土佐南海男・香取せん子、歌謡曲の小柳はるみ、草香稲子。浪曲の東海吟月。
1943年、大日本漫才協会が設立された際には入会し、第五区に振り分けられている様子が確認できる。
戦争末期頃に奈美江とコンビ解消。離婚したか死別したかどうかまではわからない。
十返舎菊次(当時は山路はるみ)と出会い結婚。その関係から菊次は一時期「一菊富美江」と名乗っていた。
戦時中の一時期、二人でコンビを組んでいたことがある。
しかし、その結婚も長くは続かず離婚。戦後は浪速マンマルとコンビを組み、「マンマル・須賀若」として活躍していた。
1945年9月、東宝笑和会下席の広告に――
とあるのが確認できる。漫才師をたくさん知っていた波多野栄一は自著『寄席と色物』の中で、
大倉須賀若・波江 この人もハルミと一緒になったら死んだ波江は前の合棒
と記している。一方、大倉寿賀芳の弟子と面識のあった天中軒新月氏によると――
「僕が桜川唯丸さんの唯丸会結成記念の盆踊り大会(1984年か?)に出た際にですねえ、唯丸さんが『大倉寿賀芳の流れをくむ音頭取りはおらんか』っていうので色々探したところ、大倉寿賀若って人が生きていたんですねえ。その寿賀若さんに『出てくれないか』とオファーかけたんですが、老齢やら何やら断られましてね、そうしたら唯丸さんに『寿賀芳さんの奥さんだった桜川小春さんの弟子は天光軒新月いうて浪曲師やっておりますで』って声をかけた人がいたんですな。それで唯丸さんから『悪いがでてもらえるか』というので出た記憶がありますよ」
とのこと。ここでの「寿賀若」が、漫才の寿賀若と同一人物とするならば昭和末まで健在だったという事となる。