星ススム・東陽子
星ススム・東陽子
リズムボーイズ時代の写真
人 物
星 ススム
・本 名 山田 進
・生没年 1918年10月7日~1970年頃?
・出身地 東京
東 陽子
・本 名 吉田 要子
・生没年 1938年1月1日~1977年2月9日
・出身地 東京 高田馬場
来 歴
戦後活躍した漫才師。男女コンビであるが、夫婦ではない。星ススムは戦前喜劇で活躍した古株でもあった。東陽子は後年の太平洋子。太平洋子・三升小粒の頁を参照にせよ。
星ススムの経歴はやや謎が多いものの、略歴は真山恵介『寄席がき話』にわずかであるが出ており、その芸歴を垣間見ることが出来る。
「曽我廼家五一郎の相手役だった一奴の弟子で一楽といった、喜劇畑の出でベテランクラスの星ススムとコンビにした。」
余談であるが、この一奴は曾我廼家五九郎の弟子で、喜劇春秋座などの芝居を放浪。戦前戦後は五一郎の相手役として活躍した。レコード吹込みも行ったほど人気があったという。香川染團子と組んだ桂染奴の父親、桂一奴とは別人。
『芸能画報』(1959年2月号)に掲載された略歴をみると、
ススム ①山田進②大正7年10月7日③東京④曽我廼家一奴一座に入り後漫才家となる。映画にも多く出演。
1954年前後にはギターを持って歌謡漫談もやっていたそうで、『図説戦争裁判スガモプリズン』に掲載された「外来113 昭和29年7月28日」の演芸大会のチラシに、
一、笑いの音楽シヨウ
(リズム・ボーイズ)
(アコデオン)志田 はぢめ
(ギター)左 五郎
(ギター)星 ススム
という記載がある。
その後、松鶴家千代若の仲介で、1957年4月、東陽子(太平洋子参照)とコンビを結成。
痩せと大柄のコンビで浅草松竹演芸場を中心に出演を続けていたが、これもあまり長くは続かなかった。
然し、その後も洋子との関係は続き、1963年に三升小粒とコンビを組んだ際は、ネタ構成や後見などを務めたという。
『朝日新聞夕刊』(1964年10月18日号)に掲載された『日曜演芸館』に、
「洋子と一時コンビだった星ススムらが助人(すけっと)役で、手ごろな台本を与えたり、小粒に受けこたえのコツまで手ほどきしている。」
という記載がある。
また、自分自身は朝ノボルとコンビを組んでやっていたが、これも長くは続かず。
1967年、洋子が小粒と別れた後、再びコンビを組んで漫才協団に復活した様子が、当時の名簿から伺えるが、1970年に入る前に姿を消す。
姿を消して間もなく、夭折したらしく、1981年に出された『芸能人物故者芳名簿』に名前が出ている。
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