春の家金波・銀波

春の家金波・銀波

春の家 銀波

 人 物

  春の家はる や 金波きんぱ
 ・本 名 篠塚 清一
 ・生没年 1907年~1960年代?
 ・出身地 ??

  春の家はる や 銀波ぎんぱ
 ・本 名 篠塚 朝子
 ・生没年 1915年11月15日~1960年代?
 ・出身地 東京

 来 歴

 あした順子氏によると、曲芸漫才を得意としていた漫才師であり、浅草に長らく住んでいたという。

 今でこそ曲芸漫才は殆ど絶えたが、戦前から戦後の一時期まで大津検花奴・菊川時之助、南晴夫・晴美など曲芸を主とする漫才師が居た。見栄えするので人気もあったという。

 経歴を知り得る資料は少ないものの、銀波だけは一応残っている。『芸能画報』(1959年4月号)によると、

朝路 ①篠塚朝子②大正4年11月15日③東京④昭和五年に漫才界に入り、春家金波、銀波の名で曲芸漫才で活躍の後同32年染団治と組む

 また、青空うれし旧蔵の新聞記事(紙面不明)に、

……相方は津村朝路という女性、曲芸師だった春家金波と結婚して万才界に入ったが、五年ほど前亭主が病気で倒れ、そのあと染団治と組んで亭主専一につとめているという美談の持主。

 という記載がある。逆算すると1960年頃の模様。

 戦前は浅草の舞台を中心に出演。1930年に漫才界に飛び込んだとだけあって、顔ぶれに出てくるのも結構早い。

 1943年、帝都漫才協会に所属。それと同時に大日本太神楽曲芸協会にも所属。根が曲芸師だったからだろうか。

 柵木眞『私のネタ帳 パートⅡ』等を覗くと、戦後一時期まで活躍していた様子が伺える。

 1957年頃に金波が倒れ、コンビ解消。銀波は生活のために相方を失った林家染団治とコンビ結成。四、五年コンビは続いたが、間もなく解消。波多野栄一『寄席と色物』の中に、

春の家金波・銀波 曲芸漫才で若く美しくよく売れたが晩年は二人共に哀れの生涯を終えた

 とある。哀れの生涯とはすごい表現である。

 後年、染團治の相方は高山美貴子に変わっている。1960年代には消息を絶つ。

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