東ヤジロー・キタハチ

 東ヤジロー・キタハチ

右・ヤジロー 左・キタハチ

(引用 國學院大學 招魂と慰霊の系譜に関する基礎的研究

 ヤジロー・キタハチ(二代目)

人 物

 人 物

  あずま ヤジロー  
 ・本 名 鈴木 誠之  
 ・生没年 1901年5月~1959年以降
 ・出身地 東京都

  あずま キタハチ (初代)
 ・本 名 本田 浩一
 ・生没年 1906年~1949年
 ・出身地 長野県

  あずま キタハチ (二代目)
 ・本 名 小林 宗太郎
 ・生没年 1909年7月~1960年以降
 ・出身地 東京都

 来 歴

 リーガル千太・万吉内海突破・一路、波多野栄一・マンマルと共に「東京漫才四天王」として数えられ、戦前における東京漫才のリーダー的存在だったにもかかわらず、その素性がよく分かっていないコンビである。

 戦後の演芸ブームに乗れるだけの実力や人気がありながら、戦争という惨酷な運命に翻弄され、遂にその力を発揮しきれなかった。ある意味では悲劇的な漫才師だったのかもしれない。

漫才以前

 結論から言うとこの二人の前歴はよく分かっていない。千太や波多野栄一の如く、自伝を書いたわけでもなく(千太は聞書きであるが)、内海突破、並木一路の両名のように映画俳優としても活躍し、俳優名鑑に記録を残したわけでもないので、圧倒的情報不足の状況である。

 生年は『時事年鑑 昭和17年版』より割り出した。「東ヤジロー 鈴木誠之 三四・五 東キタハチ 本多浩一 四二・七」とある。

 その中で、玉川一郎の連載「よみうり演芸館」(「読売新聞 夕刊」1960年2月12日号)と、アサヒグラフに掲載された「漫才師告知板」の中には、僅かではあるが、その貴重な前歴が記されている。特に「よみうり演芸館」の方は、よく素性のわかっていない初代キタハチの事が記されていて、良い。

 ヤジロー・キタハチコンビは、吉本の専属時代、ゴールデン・バットのコンビで売っていたが、松竹のさん下にはせ参じた際、ヤジロー・キタハチと改名して声を高からしめたのであった。ヤジローは信州上田の劇場の電気部につとめていた男で、キタハチは同じく信州茅野(ちの)の料理屋のセガレ、この二人のイキのよさは、当時では群を抜いていた。

  一方、「アサヒグラフ」(1948年8月11日号 「漫才師告知板」)の方には、二代目キタハチの事が記されている。二代目キタハチとコンビを組み直すのは、戦時中の事であるので、時系列ではないが、いちいちバラバラにするのも何なので、ここにまとめて記録しておこう。

東ヤジローさん(48)
東キタハチさん(39)

本名鈴木誠之(ヤジロー)小林宗太郎(キタハチ)御両人とも東京の生れ ヤジローさんは電氣学校を卒業して信州の発電所に勤務中たまたま芝居がかゝり照明の手傳を頼まれたのが機縁で喜劇役者に転向 昭和十年漫才に再転向 インテリ向漫才として賣り出した 趣味はヴァイオリンと物理学の勉強という変り種「目下スランプ中だが」今後は従来の型から抜け出して「科學精神を鼓吹していきたい」と大抱負 キタハチさんは四才で舞台を踏み少年曲藝をやつたが 中途でやめ中學校に入り四年中退後は「堅氣になろうとアレコレ商賣を変えてみたが」結局ものにならず二十三才でもとの舞台に戻り 漫才に転向したのが二十九才の時 以前からヤジローさんとコンビの初代キタハチ本田浩一氏出征後昭和十八年以来キタハチを名乗る

 また、『都新聞』によると、鉄道省の役人だったそうで、『都新聞』(1939年4月17日号)の中で、

キタハチ君「實をいへや、僕は鉄道省のお役人を七八年やつてゐたんですが、いや魔がさしましてね、将来の伊井蓉峰を目指して、とある劇團にとび込んだのです」

 と語っている。元々秋葉原の駅員であったが、芸人を志し、東喜代駒に入門を申し出る。

 しかし、喜代駒から「芸人は大変だから、駅員に戻りなさい」と諭され、体よく断られてしまった。それを遺恨に思ったヤジローは「なにくそ。喜代駒が何だ、見返してやる」と、駅員をやめてしまった――という。

 その一座で両者は出逢い、1935年頃、漫才に転向。「ゴールデン・バット」(亭号不明)という名義で漫才師になる。

 当時は、吉本と契約を結び、専属芸人として活動していた模様である。

『都新聞』(1939年4月17日号)曰く、

ヤジローキタハチ両君「そこで僕達はばつたり顔を合せたんです」といふことになつた、この劇團は不幸にして旅廻りばかり、澤正や伊井蓉峰を出るどころか、いやはや散々たる有様で、旅藝人のしがない苦労を味はつた両人は、これではいかんと、こゝで又相談した結果、断然コンビを結成漫才畑にのり出してきたものである
「漫才争奪戦は真只中にありまして、今迄われわれ両名は浅草中心にフリーでぢやがぢやがやつてゐましたが、今回は松竹の手に移りまして、大いにやることゝなりました」

東京漫才の人気者

 後年、東喜代駒の門下に参じ、「東ヤジロー・キタハチ」と改名。松竹芸能へと移籍し、後年、キングレコードの専属にもなった。軽快でテンポのいい掛合を得意とし、「エンタツ・アチャコ」と並べられるほどの活躍ぶりを見せた。

 作家の玉川一郎は『よみうり演芸館』の中で

西にエンタツ・アチャコあり、東にヤジロー・キタハチあり

 とまで、言い切っている。

 1939年4月17日、JOAK「愛宕山さよなら週間」に出演。

 1941年3月、金龍館出演中、喜劇「低俗」という理由で警察にしょっ引かれ、出演禁止の処分を受けた。『朝日新聞夕刊』(1941年3月5日号)の「低俗な喜劇に”斷” 役者に出演禁止処分」に、

昨年二月技藝者に対する許可制度を實施されてから初の出演禁止處分が四日喜劇役者高屋朗、漫才東ヤジロー、キタハチの三名に対し言渡された
高屋朗事高橋宗太郎(三三)、ヤジロー事鈴木誠之(四四)、キタハチ事本多活一(三五)等は浅草公園六区金龍館で漫才芝居に出演中、マゲモノ・ナンセンス『粗忽長屋』『清水次郎長』等で酷く低俗な所作を行つたばかりでなくエロを狙つて台本と相違した台詞を喋つてゐたもので、再三警告を受けたにもかゝはらず改めなかつたゝめこの行政處分となつたもので高屋朗は15日間、東キタハチは七日間、東ヤジローは五日間の出演禁止となつた

 そんな一件を受けてか、1942年2月には本名へと芸名を差し替えている。以下は『読売新聞』(2月8日号)掲載の「藝能界の決戦姿勢 仮名名前排撃」の引用。

大東亜戦争勃發以来米英排撃の聲は藝能界にも直ちに反映、米英を聯想させる仮名名前や英字名の廃棄に火の手をあげてゐる松竹演藝部ではシヨウ、バラエテーなどの西洋文字を一掃して楽劇に、ヤジロー、キタハチが鈴木誠之、本田浩一の本名に

 但し、この改名は短命に終わったようで、間もなく元の名前に戻した模様。

 その後も一枚看板で活躍を続けていたが、戦況悪化に伴い、1943年にはキタハチが出征してしまう。残されたヤジローは、1943年、曲芸師上りの「小林宗太郎」(1909年~? 東京都出身)に二代目キタハチを名乗らせ、コンビ活動を再開。

 一方のキタハチは2年ばかり、激戦地を転々とした挙句、外地で終戦を迎え、ソ連抑留の憂き目にあった。

 極寒の地で3年近く抑留されたものの何とか生き延びて復員。

 1948年に復帰した際、二人キタハチが出来上がることとなったが、小林宗太郎のキタハチが潔く身を引き、名コンビが復活した。同年秋、NHKより『心臓が弱い』を披露して復帰。

 ブランクを感じさせない芸に前途を期待されたが、間もなく体調を崩し、漫才活動もままならなくなった。最後は放送の仕事だけに絞り、命がけで仕事に取り組んでいた、という。

 その早すぎる訃報は暫く伏せられていたそうで、『ラジオ新聞』(1949年7月7日~13日号)の中に、

味を持つといわれる東ヤジロー、キタハチ・コンビのキタハチがまだ丗台の若さで五月末ポックリ死んでしまった、彼は長い軍隊生活と引きつゞいての抑留生活にすつかり心臓を悪くしてそれが命取りとなつた、昨秋復員するや旧友東ヤジローとのコンビを復活(ヤジローはこの数年間代りのキタハチ=現在のキタハチ=をつくつて舞台に立っていた)まず昨年九月廿三日の秋分の日の放送演藝会に出演、戦時中浅草金龍館で脱線しすぎついに出演停止処分を受けたときをほうふつさせる鮮やかなところをみせてファンを喜ばせたが、このとき演じたのが「心臓が弱い」だつたのはなにか彼の死を暗示していたといえる  と、詳しい顛末が掲載されている。

 残されたヤジローは小林宗太郎を引き戻し、「ヤジキタコンビ」を再結成。

 放送や漫才大会などに出演し、一応人気者としての地位は得ていたが、松浦善三郎「帝劇の関東漫才大會」(「アサヒ芸能新聞」1953年2月3週号)という劇評で、

ヤジロー・キタハチは紺色の上衣がライトの加減で色が冴えずボヤケて見えて非常に損。袖のシワ、ズボンのシミ等衣裳に気に掛る点も二三あり。前の染団治が和服でキリッとした処であった丈に一層サムザムとした感じ。内容も何時もの通りで低調。特に勉強の気配も見えず、この日の最下位点数(十四分)。

 と、指摘されるように、往年の勢いは無くなりはじめており、徐々に萎縮を始めていた。

ヤジローの悲劇

 1953年7月、ヤジローは病に倒れ、コンビ活動を停止。その時の記事(「アサヒ芸能新聞」1953年11月5週号 「笑い飛ばす漫才美談」)が手元にあるので一部を引用しよう。

 東ヤジローは七月(註・1953年)に脳溢血で倒れたが、芸能人国民保険や生活保護による補助では医療費もまかないきれず、二ヵ月後に退院しいま自宅で加療中だが無収入による財政的困窮からさいきんは栄養分の注射も思うにまかせず、夫人と子供三人をかかえて生活苦にあえいでおり、今後最小限三ヶ月の休養も出来かねる状態になった。彼の舞台での相棒、東キダハチが司会などをやって幾分か援助していたがとうてい及びもつかず、同情した他の友人たちとも協力しての今回の救援公演になったのである。

 キタハチが音頭を取り、喜代駒をはじめ多くの出演者が出た。上の記事によると、

当夜は師匠の東喜代駒をはじめ松井翠声、内海突破、春風亭柳橋、並木一路、牧野周一、一龍斎貞丈、山野一郎、前田勝之助、都上英二・喜美江、宮田洋容、隆の家栄龍・ 万龍、林家漫団治、東京リード・フレンドの二十五組に、歌謡曲では楠木繁夫・三原純子夫妻などがいずれ、無報酬で出演、これの取益をそっくり病床にあるヤジローにおくった。

 舞台復帰を目指したが、それもかなわず、そのまま一線を退き、亡くなった模様である。なお、初代のキタハチも復員後間もなく、心臓病で亡くなったという。

 ヤジローが倒れた後、二代目キタハチは漫才こそ一線を退いたが、引退はせず、ヤジローの為にチャリティを行ったり、漫談学校に携わっていたという。

 1959年11月25日、NHKに出演し、漫才を披露している様子が確認できる。ただ、これが従来のヤジキタコンビかといわれると困る。二代目キタハチが別人を立てて出ている可能性も否定できない。

 源氏太郎氏の証言によると、「最後にあったのは昭和35年頃。物真似もやる達者な人だった」との事。

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