音羽シャープ・フラット

音羽シャープ・フラット

 人 物

 音羽おとわ シャープ
 ・本 名 倉藤 庄三郎
 ・生没年 1929年5月4日~没
 ・出身地 千葉県 野田市

 音羽おとわ フラット
 ・本 名 ??
 ・生没年 ??~??
 ・出身地 ??

 来 歴

 音羽シャープ・フラットは戦後活躍した漫才師。シャープは漫才師廃業後、三遊亭円歌(三代目)の門下に入り、「三遊亭歌夫」と改名。易や風水を面白おかしく論じる占い漫談というジャンルをぶらさげて、平成初頭まで活躍した。

 両者の経歴は謎が多いが、『日本演芸家名鑑』によるとシャープは「戦後、古川ロッパの門弟になり、コメディアンから漫才に」とある。もしかしたら古川ロッパ一座の仲間で独立して漫才師になったのかもしれない。

 1953年頃にデビューして、「音羽シャープ・フラット」。松竹演芸場を拠点に、浅草の諸劇場や司会漫才などで活躍していた模様である。漫才研究会などには余り携わらなかった事もあり、謎が多い。

 戦後のアプレゲールを売りにしたしゃべくり漫才が得意だったようで、上の写真などを見ると「婦系図」を散々茶化して演じている。結構明るい芸風だったと予想される。

 1950年代にコンビを解消。フラットは廃業したらしい。シャープは芸人を続投し、司会漫談を演じて細々と活動を続けていた。

 1963年8月、三遊亭歌奴の門下に入り、「暁歌夫」と改名。歌奴事務所の会員となり、司会漫談として働く事となる。『東京新聞』(8月10日号)に、

 ×……もと漫才の音羽シャープは三遊亭歌奴門下として暁歌夫と改名、漫談と司会に専念することになった。

 とある。

 1970年に師匠・歌奴が三代目円歌を襲名したことを受けてか、「三遊亭歌夫」の名前を許された。事務所は「円歌事務所」と名が変わったが、内容は変わらず。

 この頃、東京演芸協会に所属し、協会員となっている。以来、30年以上所属を続けることとなる。

 漫才時代同様、松竹演芸場を拠点とし、飄逸な漫談で舞台を彩っていた。当時の番組表を見ると、毎月のように出演しており、相応の人気がうかがえる。

 また、占い漫談という特殊な芸域もあってか、占い講座や占い論の執筆のことをやっていたようである。当時のスピリチュアル層をうまく取り込み、そこそこうまくやっていた模様。

 1976年5月21日より10日間、浅草松竹演芸場で行われた「ルーキー新一劇団初公演」に出演。玉川良一の音頭で、元人気芸人・ルーキー新一の再起が願われたが、ルーキーは自堕落で身を持ち崩し、玉川良一をしくじっている。

 1980年1月、国立劇場定席公園に出演。以来、代演を含めてちょくちょく国立演芸場の舞台へと出演するようになる。 

 1981年12月、国立演芸場12月定席に出演。

 1982年9月、国立演芸場9月定席に出演。

 1983年6月、アスブックスから「自分の運気をつかみなさい」を発売。以来、占師としても副業を行ったという。

 この頃、拠点の松竹演芸場をなくし、苦労を重ねる事となる。

 1984年5月27日、国立演芸場「演芸を楽しむ会」に出演。

 1986年3月、国立演芸場3月定期公演に出演。

 平成初頭まで活躍が確認できるが、没したか引退したか消息が辿れなくなる。何か知っている人は教えてください。

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