浮世亭出羽三・銀猫

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浮世亭出羽三・銀猫

 人物

浮世亭うきよてい 出羽三でわぞう

 ・本 名 ??
 ・生没年 ??~??
 ・出身地 ??

浮世亭うきよてい 銀猫ぎんねこ

 ・本 名 肥後 盛勝
 ・生没年 明治38年/1905年?~昭和56年/1981年以前
 ・出身地 ??

 来歴

 銀猫は漫才師の功績というよりも、戦後直後の動乱や生活苦に耐え切れず、ふとしたことから罪を犯し、犯罪者として記録が残ってしまったという、ある意味では時代の波に翻弄された哀れな漫才師である。

 新聞に出ただけあってか、本名などは判明したのはいいものの、漫才師としての活躍を示してくれるような資料が殆どないのが現状である。事件簿から来歴を割り出した自体、少々後味の悪いものがある。しかし、書かないわけにもいかないので、個人攻撃にならぬよう気をつけながら、筆を進めていくことにする。

 ・漫才以前

 二人の前歴は殆ど明らかになっていない。が、浮世亭と名乗っている所を見ると、間違いなく関西からやってきた一組であろう。出羽三という名前からして多分、大正から昭和にかけて上方漫才の売れっ子として活躍した浮世亭出羽助の門下ではないかと推測される。

 ・浮世亭出羽助のこと

 確定事項ではないが、二人の師匠と思しき漫才師、浮世亭出羽助の事を少し述べておこう。

 浮世亭出羽助は明治34年(1901)5月5日、和歌山県生まれ。本名・中尾幸一郎。出生年は昭和38年度の「出演者名鑑」から割り出した。

 大正9年、浮世亭夢丸の門下に入り、漫才師となる。夢丸は元々、砂川菊丸という砂川捨丸系統の漫才師であった。

 出羽助は旧来の和服と鼓というスタイルを捨て、洋服にバイオリンで舞台に立つという新しいスタイルの漫才を生み出し、瞬く間に注目の的となった。この当時、バイオリン自体が珍しい存在であったのは言うまでもなく、ハイカラの象徴をするような楽器であった。漫才でバイオリンを持ってきたのはこの出羽助が初めではないだろうか。(確認されている東京の漫才では、喜代駒が最初かと思われる。)

 桂喜代楽によると、『出羽助は当時砂川捨次、河内家鶴春とならんで三羽鴉と呼ばれた人気者』(「大衆芸能資料集成」)だったそうで、昭和3年には吉本の看板として活躍していたというのだから、キャリアも長い。

 出羽助は、房の家愛之助、河内家一春、荒川歌江などともコンビを組んだが、文献でよく見かけるのは、浮世亭出羽助・八丈竹幸名義であろう。竹幸は琵琶師の出身であったという。人気を反映するように、戦前はレコード吹込みも盛んに行っており、歌江、一春、竹幸の三組で、50枚近く吹き込んだというのだから大したものである。

 戦後も活動を続けていたが、旧来のバイオリン漫才はもはや過去のものとなっており、また相方の八丈竹幸も失い、戦前以上の活躍には恵まれなかった。しかし、自暴自棄になることなく、青柳かつ子とコンビを組み直し、淡々と舞台を務めていた。

 また、出羽助は大阪のてんのじ村に住んでいた事も有名で、その様子はNHKの「新日本紀行」や辻脇保夫氏の写真集「てんのじ村の芸人さん」などで偲ぶことが出来る。その中に、晩年得意としていた三曲萬歳における胡弓の演奏やバイオリンを弾く様子などが出て居り、晩年の動向を知る上で貴重なものである。

 晩年は時折テレビなどに請われて「三曲萬歳」や古い芸などを演じ、古老として活動していたが、一方で公害病である気管支疾患に悩まされたという。

 昭和55年3月24日、病をこじらせた出羽助は、誰にも看取られることなく孤独死している所を相方に発見された、と「芸能人事典」にある。享年78歳。昔、一世を風靡した漫才師の呆気ない最期は、言い尽くせない悲壮感と公害の恐ろしさを物語っている。公害が遠因となって死んだこともあってか、その死は新聞の訃報欄にも取り上げられた。

 ・上京。戦後。銀猫の逮捕。

 長い余談が入ってしまった。何かしらの理由で漫才師になり、コンビを組んだ二人は、最初こそ大阪を中心にやっていたであろうが、やはり何かしらの理由で上京して、東京の漫才師の一員に数えられるようになった。1935年頃には東京漫才の一組として活躍している。

 しかし、当時の動向を示したものはあまりに少なく、何とも言えない。わずかに、昭和13年に出された「漫才家懇談會」に出席していること、昭和16年12月4日に一ツ橋の共立講堂で行われた「戦時貯蓄増強の夕」と称した大会に、

戦時貯蓄増強の夕

日時 昭和十六年十二月四日(木)午後六時
會場 神田一ツ橋(市電一ツ橋)共立講堂

一、宮城遥拝
一、國歌斉唱
一、黙  禱 
一、挨  拶 東京市助役 橋 本 祐 幸
一、講  演 大蔵次官  谷 口 恒 二

  一、漫 才 浮世亭銀猫 桂三喜蔵
  一、歌謡曲 ビクター専属 歌上艶子 波岡惣一郎
  一、映 畫 
  「日本ニュース」
  「鐵銅に回収下る」
  「山高帽子」 日活特作

 主催 東京市 

 と、出演していることが確認できるくらいか。

 当時の都新聞などを探れば、また出てくるかもしれないので、「調査中」としておこう。

 昭和20年8月15日、終戦を迎えた後もこのコンビは漫才を続けていたようで、終戦の翌年に行われた「松竹演藝大會」なるイベントの告知を見ると、

定評ある東京名物 松竹演藝大會
一日ヨリ

 漫 才 銀糸・金糸
  〃  千代若・千代栄
  〃  捨奴・市丸
  〃  出羽三・銀猫
 漫 才 染壽・春之助
 キタハチ・ヤジロー
 奇 術 松旭斎良子
 落 語 歌笑(註・三遊亭)

(「読売新聞 朝刊」1946年3月31日号 2頁)

 と、人気者に混じって参加している様子が確認できる。これだけの舞台に出演できたという事を踏まえると、戦前はそこそこ人気のあった漫才師だったのではないかと推測できる。

 しかし、その活動も決して長くはなかったようで、昭和24年ごろ、銀猫は漫才師から足を洗い、堅気になった――が、問題はこの後である。

 舞台から足を洗って四年経ったある日の事、銀猫逮捕のニュースが紙面を賑した。

元漫才師がニセ医
二百人から注射でかせぐ

東京上野署では二十四日朝台東区南稲荷町八九肥後盛勝(四八)を医師法違反の疑いで検挙した。調べによると肥後は二十四年春まで浮世亭銀猫と名乗った漫才師だったが舞台をやめて生活に困り、軍隊時代に習い覚えた医療知識を応用、自宅の二階を診療室に造りあげ薬品、医療器具一式をそろえ、三月はじめ急性肺炎をわずらっていた同区坂本町一の一八自動車運転手淵彌平さん(三八)にストマイ、ペニシリン、カンフルなどを注射、八千五百円の治療費をとったほか患者の一人荒川正一(二八)(二十日検挙)を助手に仕上げ、検挙されるまでに二百名近くの病人にニセ診断を行い、五百万円を搾取していた。

(「読売新聞 夕刊」1953年9月24日号 3頁)

 この時の銀猫の心情は幾許なるものであっただろうか。医師法違反は大変な重罪であり、世間一般では許されない罪であることはいうまでもない。

 しかし、その一方で、戦後直後の動乱や生活水準の悪さを見ると、一概に絶対悪とは言い切れないのであるのも、また事実である。完全に主権が戻るまでの数年間は、日本及び日本人にとって、耐えがたきを耐え、忍び難きを偲んだ時代であり、銀猫に限らず、多くの漫才師が法やモラルすれすれの仕事や苦労を重ねて、その日その日を何とか生き延びようとしたという事を忘れてはならない。

 その後、銀猫に対して、懲役か罰金か、何かしらの罰を課せられたのは間違いないだろうが、それ以上の動向は推測できない。没年は不詳であるが、昭和56年以前に物故した芸人をまとめた極楽寺の名簿にその名前が出ている。昭和56年以前に亡くなったのは間違いないであろう。

  芸風

 波多野栄一「寄席といろもの」によると、古風な音曲漫才をやっていたそうで、栄一曰く、

浮世亭出羽三 銀猫

ヴァイオリンと三味線を引いた古いの漫才だと思う

 と、回顧している。また、その証言を裏付けるものとして、先述した「漫才家懇談會」における銀猫本人の発言を載せておこう。

銀猫 私は喋べることが出来ないから和洋合奏とか流行歌をやりますが、先程お話のやうに題材さへ出して下されば、それを民謡や流行歌などで現はして行くことが出来ると思ひます。大ひに宣傳して貰ひたいといふものがありましたら、吾々はそれを歌にするとか芝居にして現はします。尤も材料がなければ出来ないから……

(「漫才家懇談會」 45頁)

 そう考えてみると、師匠だと思われる浮世亭出羽助の芸を曲がりなりにも受け継いだコンビだったのかもしれない。

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