天兵トリオ(春風天兵・島暁美・星柄北男)

天兵トリオ
(春風天兵・島暁美・星柄北男)

左から暁美・天兵星柄

人物

 人 物

 春風はるかぜ 天兵てんぺい
 ・本 名 実川 之典
 ・生没年 1934年6月16日~?
 ・出身地 東京 向島

 しま 暁美あけみ
 ・本 名 実川 暁美
 ・生没年 1922年10月11日~没
 ・出身地 東京 小石川

 星柄ほしから 北男きたお
 ・本 名 近藤 康男
 ・生没年 1937年2月10日~2020年12月24日?
 ・出身地 横浜

 来 歴

 天兵トリオ(春風天兵・島暁美・星柄北男)は、戦後活躍したコントグループ。エノケンの弟子の天兵、官僚の娘の暁美、自衛隊出身の北男という異色の取り合わせで人気を集めた。コントトリオとしての経歴は古く、てんぷくトリオやナンセンストリオなどよりも古い。

 三人の経歴は、『文化人名録第10版』や『大衆人事録』より割り出した。

天兵の経歴

 天兵は人気があった割には謎が結構残る存在である。

 山下武『大正テレビ寄席の芸人たち』によると、向島のおもちゃ屋の倅であったという。

 若い頃は秀才だったそうで、法政大学にまで進学している。1950年代にここまで進んだ芸人はそうあるものではない。

「天兵師匠は大学時代か何かに演劇にハマって、この世界に入った」と今は亡き春風こうた氏が語っていた事があったが、詳細は不明。ただ、名門大学出身の学歴を蹴って芸人となったのは事実。

 大学卒業後の1956年頃、喜劇王・エノケンが設立した「榎本健一映画演劇研究所」に合格して、エノケンの弟子となる。

『週刊文春』(1983年2月24日号)のコラム「ぴーぷる」によると

「僕はもともとエノケン先生の弟子で軽演劇が志望だったんです。自分の一座も持ちましたが、まるで食えない。しようがなくて内職に『天兵トリオ』を作ってキャバレーでコントをなったんです。役者がそんなことをと悪口もいわれたけど、僕らが大当りしたら、みんなトリオを組んじゃった」

 研究所卒業後はエノケン一座やシミキン一座を経て、「喜劇天国」を主宰して見たり、コメディ一座に入っては脱退する放浪的な日々を送っていた。

 1960年代初頭には、池袋フランス座のコメディアン・鶴見博が中心となって結成された「喜劇の王様」という一座にいた事もある。ここでは既に暁美と行動していた模様。

 余談であるがこの一座には、後に人気を競い合うナンセンストリオの岸野柳助(岸野猛)と前田隣もいた。

 長らく暁美と行動を続け、結婚。しかし、喜劇役者としてうだつが上がらないのに嫌気がさし、キャバレーや芸能社へコントを売りに行く日々が続いた。

 その中で、星柄来男と出会い、トリオを結成。当時は「天兵ショウ」と名乗っていた。

 1962年4月には、既に「天兵ショウ」として浅草松竹演芸場4月下席に出演している様子が確認できる。

暁美の経歴

 暁美は浜口雄幸の秘書官で、衆議院議員や官僚をつとめた中島弥団次の次女である。浜口の金融政策を支持し、しつこいマスコミ陣を威嚇するために鉄砲を鳴らしたところから「ピストル弥団次」のあだ名を取った。

 母は中島ふくといい、こちらも石材社の令嬢であった。芸人にしては余りにも破格の生まれといえるだろう。

 兄弟は上から、泰斗(1915年)、香澄(1917年)、静思(1919年)の順。

「1929年10月11日生れ」を公言していたが、戦前の「大衆人事録」を見ると、「大正11年生れ」とある。

 当時、やり手の官僚としてバリバリであった中島家は裕福で、本郷に立派な邸宅を構えていた。

 弥団次は芸術への理解があったそうで、長男を日大芸術学部に行かせたほか、香澄や暁美にもバレエや音楽の稽古を許した。当時の歌姫として知られた三浦環とも面識があるなど、お嬢様としても知られた。

 戦時中、東京府立第二高等女学校を卒業。長い間、年齢をごまかすためか、「竹早高校卒業」と書いていた。

 1945年4月、学習院・東京帝国大学を出たエリート・伊藤雪臣と結婚している。この頃はまだ芸人ではなく、普通の家庭の妻としておさまっていた。

 戦時中は夫とともに疎開していた。戦後は父が公職追放されるなど、政治家の娘として辛いものを味わったようである。

 1947年頃、長男の伊藤美臣誕生。この人は放送界へ入り、演芸放送やバラエティー番組の担当をしていた――と柳家小袁治氏曰く。

 1949年10月、母のふくが死去している。最期は末期がんであった。

 1951年頃に雪臣と死別。その年の『大衆人事録』などに「暁美は伊藤雪臣と結婚したが死別」と書かれている。

 夫の死と共に歌手や芸人への夢を持つようになり始め、間もなく歌手として日本劇場でデビュー。さらに、当時設立されたばかりの浅草・東洋興業へスカウトされ、女優として舞台に立つようになった。

 東洋興業はストリップや軽演劇を売りにしていた関係から、家族や親類から猛反対を受けたらしい。それが元で中島家と疎遠になった模様か。

 1953年12月には長男・泰斗が夭折している。

 その後、コメディアンに転身し、「喜劇の王様」などに所属。ここで春風天兵と知り合い、結婚している。

 1962年12月、暁美の父・弥団次が死去。一周忌の際に「中嶋弥団次」という本が刊行されたのだが、暁美は写真と年表で紹介されるばかりで、結婚の顛末はおろか、他の兄姉が行っている寄稿、活躍はほとんど記されていない。それでも抹殺はされてないので、一応の家族扱いはされていたのだろう。遺産相続も回って来たという。

 その中で暁美は天兵と行動を共にし、コントスターの地位を築き上げていく。

星柄北男の前歴

 星柄北男は横浜の出身。港町で育ったため、幼い頃から海や船などに親しみを持って育ったという。

 詳しい経歴等は不明であるが、芸名の由来のみ判然としている。

 小学校の学芸会で当時の人気漫画の「星から来た男」をやった。この時の経験が忘れられなかったようで、後年の芸名とした――との由。

 高校卒業後、海上自衛隊を志し、当時返還されたばかりの江田島航海学校(海上自衛隊術科学校)に入学。教育を受けた後、海上自衛隊(海上保安庁という資料もある)として4年間勤務していたという変わり種であった。

 4年の任期を経て、退職。幼い頃から興味のあった演劇に志を向けるようになり、東洋劇場の文芸部へ入社。コント台本を書いたり舞台進行をしている内にコメディアンを志すようになり、そのままなし崩し的に春風天兵のコントグループに出入りするようになった。

夜の王者

 当初は売れないコメディアン三人で組んで、キャバレー周りをしていたというが、オリンピック前後の好景気やキャバレー人気も相まって、徐々にお呼ばれを受けるようになる。

 二枚目半を自称する天兵が台本執筆と演出を行い、ソプラノ声でキンキンとギャグをふりまく暁美、大口出っ歯の星柄という役回りで高い人気を集めた。

 一時の人気はすさまじく「夜の王者」と称するほどの忙しい売れっ子ぶりを見せた。天兵当人曰く「家三軒は立てられる程」の売り上げを数年で稼ぎあげたという。

 トリオ・ザ・パンチと共に、脱線トリオ以来下火になっていたトリオ芸に喝を入れ、トリオブームを引き起こしたのは大きい。

 太田プロダクションに所属し、ぴんぼけトリオ等と共にトリオ芸人の大看板であった。当時のテレビ演芸ブームも相まって、多くの番組を掛け持ちしている様子が確認できる。

 天兵は執筆の才能があり、コントの出来はずば抜けてよかったというが、一方でキャバレー周りで芸を磨いた事もあってか、他のコントグループのような当たりネタがなく、ギャグというギャグを持たなかったのが失速の原因となった。

 この事は丸目狂之介が『キネマ旬報453号』(1967年11月)の中の「テレビ寄席のスターたち」の中で、その立ち位置を批評している。

 トリオの先駆者というおおげさな言い方をすればこれが”天兵トリオ”だということになる。天兵をかこむ、星柄の大口出歯と、ソプラノ奇声(本格的)実川暁美との作り出す芸風は、確かにトリオの芸のサンプルとも言うべきもので あったと思う。
 一時は“夜の王者”と偽称するキャバレーの寵児でもあった。だが、その後輩出した幾多のトリオにもまれて、やや影を薄めた観がある。
 そこで、ワザワザ、この欄の俎上にのせ、彼らを筆述してみることにする。
 いいも悪いも先端を行った天兵トリオはその見本となる傾向があるのだ。
 ややマンネリの、ネタの上演回数は漸次、その面白味を消失するし、慌てて力みかえして新ネタをふれば、植えつけたイメージに押しかえされて
「面白くない」
 と、ケラれる。 そこで、迷って、
「どういう風にやるべきか……なやんでるンです」 と言う言葉になってくるわけである。
 つまり、これは天兵トリオばか りのなやみではなく、この種のタレントが誰も持っている迷いでもある。
 軽演劇出身のトリオの連中が、演芸もののタレントの持つ、喋りの”間”の芸より離れてセリフのやりとりのうまさを、テンポの早さにのせて売り出した形がトリオの芸である。ダカラ、演芸タレントとしては、トリオの芸は、芸ではないという酷評も生れることになる。
 テンポの早さとリラックスしたセリフのからみの面白さ……これで売ってるだけに、その味に見馴れてしまうと観客は無責任にアキてくる。
 落語家や漫才の、
「誰々の何々」
 という定評のあるネタにくらべてトリオの持つ芸の定着は、どっちかというと、
「下らない面白さ」
 と一語に評価される結果になるのだ。
 天兵トリオは、折角自分たちが先鞭つけたこのジャンルに、もう 一度確固たる地歩をかためるため に、一刻も早く、トリオの面白さと同時に、三人漫才の面白さを加味して貰いたい。テンポがあるトリオの特色に勇気をもって漫才の芸をとり入れ芸風を組めということだ。
「でも……うけない」
 とか、
「でも……こわい」
 とか言って……いまのままで進 んでも、結局は先が見えている。
 ただ、今はいいし、また、実際もう少しは続くだろう。 しかし結局は、日の目を見ない日がおいおいに重なって、逐次、その日差も薄くなり、やがては、 いくら力んでも忘れられて行く存在になってゆくのだ。
 第一、年齢という、どうしようもない欠陥が、ドンドン彼らをおそって来る。
 殊に実川暁美という女性を加えているからには、このことの早さ を痛切に計算の中に入れなくていけない。
 テンポを必要とするトリオの芸だけに、年齢のニオウ、いや年齢のおいつけないムードを舞台に出しては致命傷である。
 しかし漫才のならば、それは枯れた面白味となっていつまでも使えるのだ。 筆者はそこに眼をつけるやり方こそ、事業家が、資本を投資するにも似たあり方だと思う。
 即ち、
「いい、悪い」
 とか、
「うける、うけない」
 とか、
「儲かる、儲からない」
 とかよりもだ。 ”やらねばならない”し、”やるべき時に来ている”ということを自覚してほしい。
 そして一日も早く着手する芸の工事が、将来の確固たる定住のマイホーム作りになることを考えてほしい。

 とにかく今、その時にきているンだ。分ってもムズカシイとなげかないでほしいタレントだ。

 一方で、仕事も豊富だったうえに、妻の暁美が蓄財家の中島弥団次の娘だった事もあり(弥団次は相当なやりくり上手で、戦時中も家宝や財産を疎開させ、戦後もそれで生き延びる事ができた)、春風夫妻の生活が潤沢だった事も「仕事、仕事、人気、人気」という芸人のハングリー精神を欠けさせる結果になったともいう。

 彼らをよく使っていた山下武は『大正テレビ寄席の芸人たち』の中で――

トリオ物全盛のなかでも、やや二番手の位置につけていたこのトリオの十八番が「カゴ屋さん」。女客とナメてかかったカゴかき人足が凄まれて逆の立場になるというストーリーに、島暁美の妖 艶な姿態がよく生かされていた。が、マゲものを離れると、どうもいけないのである。 現代物のコントでは島ひとりが浮いてしまう。はっきり言って邪魔になるのだ。
 結局、このトリオの弱点がどこにあるかわかっているだけ、天兵夫婦に露骨にそうとも告げられぬまま、黙って、当人たちの自覚に待つしかなかった。何かいえば、事実上の夫婦別れを促すような結果になるからである。しかもこの夫婦、万事、姉さん女房の島暁美が主導権を握り、広大な鎌倉の邸宅も“ピストル弥団次”の遺産を継いだ彼女の持ち物ときては、なおさら。

(中略)

 その間に弥団治が蓄えた資産は莫大で、天兵夫妻の住む鎌倉の居宅は七里ヶ浜を見渡す眺望絶佳の地にあり、数百坪のグリーンの芝生をシェパード、コリーなどが走りまわるという、羨ましき環境に恵まれていた。天兵夫妻には子はなく、養子がいるとのことだったが、そのかわり二人ともに大変な愛犬家で、 当時百万円もするダックスフントが自慢。このワン君、全国コンクールで第二位となった名犬と 世の円満な家庭と見受けた。が、仕事が主にキャバレー、クラブ通りの関係で毎夜宅が丑三つ時ときては大変。 運転手役を務める天兵、以前は肥満体だったそうだが、当時は すっかり痩せてスマートな体型になったのも無理はない。
 鎌倉街道に出て帰るのか、よく深夜ちかくに甲州街道沿いのわが家へ天兵夫妻が現れたが、千歳烏山から鎌倉まで車を運転して帰るだけでもハードな労働だ。加えて夫婦和合のおつとめまで あるのでは、体がもたないと悟ったか、その後バブル期に鎌倉の地を手放して都内のマンション住まいに移ったと聞く。何でも、付近に麻雀荘を開店、学生時代に小説家志望だった天兵は、テレビドラマの台本を書いていたようだが、その後どうしているのだろうか。

 と冷やかし気味に書いている。山下自身も国民的タレント(柳家金語楼)を親に持った人だけに「ガチの上流階級」を知っていた筈だが、その彼にして「羨ましき環境に恵まれていた。」と言わしめるほどなのだから、芸人でもずば抜けた金満家だった事は間違いない。

トリオのその後

 結局、そんな複雑な環境も相まって、彼らはコントブーム低迷と共にすっぱりと演芸界から足を洗う事になった。

『週刊文春』(1983年2月24日号)のコラム「ぴーぷる」曰く、コントから離れた理由は「やめたのは色物と言われるのがいやになったから」「芝居志向と志が違ったから」ともいう。

 その後、天兵は自宅の資金や稼いだギャラを元手にドライブインや雀荘を経営する実業家となった。その傍らで、不動産の勉強もして不動産会社を設立。「宅地建物取引主任者」の試験に合格している。

『週刊文春』(1983年2月24日号)のコラム「ぴーぷる」によると――

「僕はもともとエノケン先生の弟子で軽演劇が志望だったんです。自分の一座も持ちましたが、まるで食えない。しようがなくて内職に『天兵トリオ』を作ってキャバレーでコントをなったんです。役者がそんなことをと悪口もいわれたけど、僕らが大当りしたら、みんなトリオを組んじゃった」
「家三軒分くらいは儲かった」
という春風氏だが、ブームが去るのを見越して転身し、ドライブインや麻雀荘の経営を経て、いまや不動産会社の社長。難関といわれる「宅地建物取引主任者章」の試験にも合格した。

 とある。

 実業家としての側面を見せる傍ら、天兵は戯曲家としてもデビュー。

 書き溜めた二百枚の戯曲を白水社『新劇』に投稿。『新劇』(1977年12月号)に評価が掲載された。この作品は「0を書く男」と名づけられた。内容は――

 実業家・大崎弥一郎が死に、四十九日の夜に大崎一族が集まる。彼の一族は国会議員、学園経営者、会社経営者、人気画家と優れた人々ばかりである。
 彼らは弥一郎の莫大な遺産を狙いながらも、腹の中では国会解散、学園闘争、ストライキ、ゴシップなどを案じている。
 それぞれが上辺だけで会話をしながら、弥一郎の遺産配分を行うが、そこに恐れていた国会解散、闘争とストライキの勃発、ゴシップの流出などが入る。その上、弥一郎は実は長年脱税をしており、数百億の富はほとんど没収される……という悲喜劇である。

 1979年8月16~18日、舞台工房第九回公演『やもめの羆さわぎ歌-山本周五郎平安喜遊集より』に出演。中野文化センターで開場。

 1979年11月、『0を書く男』を上演。

 1980年11月7日より、金土日劇場によって戯曲『写楽』が明石スタジオにて上演された。独特な画風で売れっ子になった写楽と、美人画の大御所の歌麿、「美人画はもう売れない」と写楽を取り立てる蔦屋重三郎の三すくみを描く。

 1981年にはこれらをまとめた『春風天兵戯曲集・0を書く男』を発売。

 1983年2月7日、三百人劇場にて「自殺の美学」が上演された。破産寸前のサラ金経営者3人がより合って「どういう自殺が一番美しく死ねるか」という理想論を語り合い、決行しようとする。その中へサラ金強盗が現れて……というもの。

 1984年11月2日より、原宿のワークショップにて花亮の会の主演で「写楽」が上演された。

 こうした一連の作品がまずまず評価された事もあり、天兵は高座へ復帰。文化放送の「菊正辛口名人会」の司会者として再びメディアに現れるようになる。

 その後も「漠漠」「鳥見の恋を烏が嗤う」といった作品も上演されている。

 1987年8月2日、暁美の長男・義臣が事故死。人気アイドル・石田紀子の『湘南ミュージックスカイウェイ』の収録に参加してヘリコプターにフライト中、ヘリコプターが海上へ墜落。石田と共に事故死を遂げた。この人気アイドルの死は様々な週刊誌や新聞で取り上げられた。息子の夭折を暁美はどう感じた事だろうか。

 昭和末まで第一線で活躍しているが、「菊正辛口名人会」も終わってしまい、いつの間にか表舞台から消える。

 はたけんじ氏の消息では「暁美さんは10年ほど前に亡くなり(90歳くらい)、天兵さんは埼玉へ引っ越してそのまま消息が分からない」との事である。

 トリオ解散後の星柄北男の消息は不明であるが、遺族と思しき人がWikipediaに享年を書いていて驚いた。ただ、その人とコンタクト取れないので「?」と記しておく。

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