青空ヒッチ・ハイク
ヒッチ・ハイク(左)
人 物
青空 ヒッチ
・本 名 青山 則寛
・生没年 1950年6月1日~1990年代?
・出身地 北海道 留萌市
青空 ハイク
・本 名 畠山 博光
・生没年 1951年2月5日~ご健在
・出身地 北海道 留萌市
来 歴
青空ヒッチ・ハイクは戦後~漫才ブーム時代に活躍した漫才師。青空うれしの弟子筋に当たり、フレッシュな掛合と達者な司会漫才で注目を集め、後には漫才コンクールで優勝までもぎ取っているが、師匠よりも先に芸能界を引退してしまった。
経歴は『日本演芸家名鑑』と『第20回NHK漫才コンクールパンフレット』より割り出した。以下はパンフレットの引用。
青空ヒッチ(北海道)
青空ハイク(北海道)お師匠さんは?……
青空うれし・青空たのし
これまでは?…
二人とも北海道留萌高校出身の21才。当時かコントや漫才が好きで文化祭や結婚式の余興で、拍手喝采の波にのって青春の血沸きッぱなしとなり、逢いに卒業後家出をして東京え来ました。キャバレーのボーイで食費を作りタンタンと弟子入り出来る師匠を物色中…見事にうれしたのしを射止めて今日に到ります。昭和44年11月の事であったとか…若手漫才の中でも新鮮サもホヤホヤの御両人である。
これからは?…
「きいて、ためになる文学的漫才をやりたい」
とハイクが言えば、ヒッチもくちをそろえて
「僕も彼の言うようなバカバカしい漫才がやりたい」ですと答えている。どうなってんの⁈これ⁈
二人とも留萌で生まれ育ち、普通に暮らしていたが、学生時代よりお笑いが好きで、留萌高校ではお笑いの実演やコミックバンドのコピーバンドなどをやって、文化祭などの人気者であったという。
また、うれし氏によると「アイツらサッカー部だと聞いたけど」との由。「二人とも球技はそこそこできたし、高校で部活やっていたとは言っていた」との事であるが、一応師匠の弁なので嘘ではなさそうである。
1969年春に高校を卒業し、二人仲よく上京。しばらく土方や店員などをやっていたが、お笑いの夢断ちがたく、青空うれし・たのしに入門。
うれし氏曰く、「駐車場裏に連れて行って、キャッチボールさせたら意外にうまいし、運動の部活もやっていたってから、俺の野球チームに入ることを条件に弟子にした」との事。
師匠の斡旋でコロムビアレコードの前座となり、司会漫才の腕を磨く事となる。当時のヒッピーブームに因んで「青空ヒッチ・ハイク」と命名される。
1972年3月13日、第20回NHK漫才コンクールに初出場。
1974年2月13日、第22回NHK漫才コンクールに出場し、「珍寿司」を披露。
この頃から、大柄で巨漢のヒッチが自らの風貌を生かしたグルメのインチキな講釈を展開し、それにハイクが呆れてツッコむ――というスタイルを確立した。一種の「グルメ漫才」というべきだろうか。
一時はツービートやさがみ三太・良太、星セント・ルイスなどと共に「東京方のホープ」として前途を期待されていた事もある。
1978年3月3日、第26回NHK漫才コンクールに出場し、「野球の詩」を披露。
1979年3月2日、第27回NHK漫才コンクールに出場し、「釣の天才」を披露。
1980年2月29日、第28回NHK漫才コンクールに出場し、「エスカルゴ」を披露。これで優勝を見事に射止めている。
このネタは十八番だったらしく、「エスクァルゴォ」とインチキな発音を連発しながら、インチキグルメ論を話す――というオーソドックスなネタだったという。
同年、フジサンケイグループ放送演芸大賞のホープ賞を受賞。
以来、東京漫才のホープとして売り出し――と思いきや、漫才ブームの下火が見えた上に演芸ブームもなくなってしまい、ヒッチ・ハイクも割を食った。
それでも東京漫才の次期幹部としてみなされ、順当な活躍を続けていたが、1987年頃にコンビを解消。
両人とも漫才協団を離れ、司会者として活躍することとなった。
ただ、ヒッチは長年の不摂生が祟ったとかで平成に入ると体調不良に苦しむようになったという。うれし氏によると「ヒッチはいい奴だったんだけど、晩年が可哀想だった。肝臓だったか、内臓をやられてな、フグみたいな腹になっていたよ、最期は」との由。
曰く、「もう死んで相当経つ、20年以上は経つんじゃないのかね。葬儀にはいったはずだから……」との事なので、平成には確実に亡くなったようである。
一方のハイクは美川憲一の司会者として活躍。コンビ解消から10数年間、美川憲一の下で司会者をやっていたが、21世紀にはいるとこれをやめて北海道に帰ったという。
うれし氏曰く、「ハイクは今(2023年)も健在のはず。死んだって連絡来ないから。ただ北海道にいてもう芸人はやっていないと思う」との由。