Wコント(東けんじ・玉川良一)

Wコント(東けんじ・玉川良一)

玉川良一・東けんじ(右)

一服するWコント

 人 物

 あずま けんじ
 ・本 名 大谷 健二
 ・生没年 1923年12月17日~1999年1月7日
 ・出身地 東京 尾久

 玉川たまがわ 良一りょういち
 ・本 名 新井 良雄
 ・生没年 1924年10月15日~1992年10月14日 

 ・出身地 群馬県 前橋市

 来 歴 

 Wコントは戦後活躍した漫才師。ボケ役の東けんじは、宮城けんじとコンビを組んで、「Wけんじ」で一世を風靡。玉川良一はコメディアン、浪曲漫談家として、テレビに映画にラジオに独自の才能を発揮した。

 東けんじの前歴及びWけんじ結成までの流れは、Wけんじを参照にせよ。

 玉川良一の半生は『タマリョウのぶっちゃけ放談』に詳しい。

 生家は前橋にあった「江州屋」という質屋。7人兄弟の末っ子であった故か、幼少時に養子に出され、栃木県宇都宮市で育つ。そんな事情から、長らく「宇都宮出身」を自称した。

 後年、両親や兄弟と再会した際には涙涙で語る事よりも先に、涙の感動の再開であったという。

 宇都宮市立簗瀬小学校、宇都宮一条中学を経て、16歳の時に浪曲の二代目玉川勝太郎に入門。

 玉川良太郎という名前で修行生活に入るが、1943年、腹膜炎にかかり療養生活に入る。「トイレで天保水滸伝を唸り破門された」という伝説がまことしやかに語られているが、実際は不明。

 病気で自分の体力の限界を悟りやめたのが実際の所ではないだろうか。現にガチの破門だとするならば、二代目玉川勝太郎の臨終に妻を派遣し、葬儀に列席させることなど許されないだろう。コメディアンによくある屈折や真実を、道化やおどけで隠してしまう例ではないだろうか。

 ただ、修業時代は中々厳しかったのは事実で、年中花江夫人に怒られていた他、勝太郎の愛娘、尚子が自転車に乗りたいとせがみ、子守を押し付けられ、腹いせに自転車をひっくり返して、ギャーギャー泣かせた、などという逸話も残っている。

 因みにこの尚子が、後年弟子の玉川福太郎と結婚。福太郎は勝太郎を襲名し、三代目勝太郎夫人となった。

 1944年、赤紙が届き、北支派遣軍二等兵として応召され、中国に派遣される。 兵隊時代は浪曲の経験が評価され、演芸慰問班に編入される。

 同班には俳優の山本薩夫も所属していたそうで、山本を班長分にして終戦まで活躍。

 1946年、引揚げ船に乗って復員。幸い、抑留されることもなかった。

 戦後もしばらくは玉川勝太郎について浪曲の修行を続けていたが、間もなく独立。戦後直後の浪曲弾圧や自身の方向性を考え、お笑いへ転向する。

 1948年には「玉川良一とその楽団」を結成。22名の座員を率いて、ドサ回りなども経験する。一座には後年の相方となる東けんじ(ヘンリー東)、鈴木三重子がおり、東けんじとコントや漫才もどきをやった事もあったという。 

 1951年頃、再上京し、大正坊主の倅である東天朗とコンビを組み、漫才もやるようになる。この頃、尾藤イサオの実家に転がり込み、居候をしていた。

 その後は、主に古巣の浪曲漫談と伴淳三郎、泉和助譲りの喜劇を中心に活躍。

 1955年5月、浅香光代一座で三波伸介と出会い意気投合。奥山劇場で「Wコント 玉川良一・三波伸介」という看板まで上げたが、三波伸介が胃痙攣を起こし、幻のコンビとなってしまった。

 この時の三波伸介の苦しみ方は異様で、七転八倒の大騒ぎ、看病しようとした浪曲の東武蔵を蹴倒すほどであったという。以来、三波伸介は「漫才はジンクスがよくない、俺は役者になる」と玉川に告げて、軽演劇の世界に入ってしまったという。この三波の音頭でできたのが「てんぷくトリオ」である。

 相方に振られた良一はしばらくの間、漫談・司会・節真似と何でもやっていたが、パッとせず、戦後直後から面識のあった東けんじを上京させて、「Wコント」を改めて結成する。東けんじの頁にも記したが、「東」を名乗るに当たって、喜代駒に仁義を通したという。

 コンビ結成後、日芸プロに所属をし、浅草の劇場や松竹演芸場をはじめ、司会漫才としても活躍。

 落語の「長短」をそのまま漫才にしたような掛合と、浪花節とアクロバティックを組み合わせた、見ても聞いても面白い芸で人気者になる。

 玉川良一が、鍛え上げたのどで浪曲を唸ると、東けんじがその文句に合わせて操り人形のようにカクカク踊る姿は、実に傑作であったという。そのほか、兵隊コントや司会漫才もこなし、一時期は森繁久彌ショウや田端義夫ショウの司会を担当していた。

 1956年、松竹ミュージカル『笑う忠臣蔵』『忍術はこれだ』に出演。

 次いで、1957年、市村清や今泉周男の斡旋で国際劇場に出演。

 1958年春には、伴淳三郎の紹介で、ビクターと専属契約を結び、司会漫才として、ラジオ・テレビ・舞台と、相応の活躍を広げていく

 1956年、真木淳が入門。浅草を主軸にしていたが、1956年頃、花登筺や大阪の関係者に呼ばれ、拠点を関西に移す。

 同地の千日劇場で人気を集め、コメディに出演。関東出身の漫才師にも関わらず、同地の俳優に負けない笑いと実力を発揮し、認められた。この頃、大村崑や鳳啓助などと交友を結んでいる。

 1959年頃、大阪劇場へ呼ばれて、大劇コメディを作る。鳳啓助、吾妻ひな子、上方柳次・柳太などが集って、Wコントが座長分であった。しかし、自分たちと馬の合う芸人が少ないことを知ったWコントは、千日劇場の幹部にすがり、旧知の三波伸介を招くように頼んだ。はじめはいい返事はもらえなかったそうであるが、しつこく懇願をつづけ、なんとかOKが出たという。

 一方、三波伸介の息子、二代目伸介は自サイトの中で別の説を挙げている。曰く、三波伸介の大阪行きは、後年の妻となる女を追ってきた――というのである。以下は、『私の喜劇人生~母の話』からの引用。

巷間でいわれている
所謂、「おとぼけガイズ」を結成する為に
玉川良一さんに誘われ大阪に行った事になってますが…
真実は少し違ってます(笑)

親父と母と当事者の一人である
Wけんじの東けんじさんから聞いた話ですから
間違いないと思います(笑)

大阪に行ったのは「先回り」だったのです。
実は母は大阪OS劇場に行って
中田ダイマル・ラケットさんや
芦屋雁之助・小雁さんと
ショーを組む噂が出ていました。

浅草で母と組めないなら
「先に大阪に行って待っていよう」
との考えだと親父は言ってました。

案の定、親父のおとぼけガイズは
大阪で人気者になります。
当然、大阪の大手プロダクションは
親父をスカウトします。

江戸っ子役者である親父が
関西でも愛されたのは
この頃の活躍が大きいと思います。
関西は「一度、応援すると決めたらとことん!」
と言う感じですからね(^-^)

凄いスカウト合戦の中、
親父は首を立てに振りません。
中には驚くばかりの大金を
目の前に積んだ会社も。

だって大阪に来た目的が目的ですからね(笑)
勿論、大阪でも一所懸命にやった結果で人気者になったのですが…。
目的は母を待ち構える事ですから(笑)

目論みは当たり母は大阪に来ました。
もう一度言いますが
二人はまだ付き合っていません(笑)

 それぞれの言い分があるので、これもまた鵜呑みにはできない気がする。良くも悪くも、それぞれの思惑や考えが働いているといえるであろう。

 三波伸介を入れて、トリオ「おとぼけガイズ」を結成し、改めて大阪劇場を本拠に、コントや喜劇の舞台や生中継などで大活躍――をしたが、三波伸介の独立路線や東けんじの借金などの事情が重なり、間もなく解散。「Wコント」自体も自然解散となった。

 弟子の真木淳氏曰く、「三波伸介さんが入ったら駄目になっちゃった」。

 玉川良一によると「東京へ進出しようと、500枚ハガキを刷って関係者に送ったが、東けんじが飲み屋のツケや借金で、大阪から出られず、白川珍児と漫才をやっていた。結局三波と二人だけではどうにもならず、自然解散してしまった」との由。

 それでも自伝『おとぼけ一代』の中では、コンビを「五年四か月」続けたというような事を記している。

 残された東けんじは玉川良一の協力で何とか借金を清算し、東京へ戻ってきたものの、「おとぼけガイド」は解散してしまっており、「Wコント」を一応復活させたものの、玉川もまた役者を志すようになり、東けんじとのコンビを解消。

 残された東けんじは、司会者をしていた宮城けんじとコンビを組む事となった。もっとも円満解散だったらしく、三人の交友は晩年まで続いた。

 独り立ち後は、主に喜劇やコメディを主軸に置き、テレビ番組やコマーシャルなどにも積極的に出演。仕出しの頃は、悲惨でやっと射止めたレギュラーの役が「崖から落ちて死ぬ役」に変えられたり、端役でこき使われたり、と中年で辛酸をなめる事となる。

 その中で、独特のとぼけた味がだんだん評価されるようになり、伴淳三郎や森繁久彌の引き立てもあって、人気俳優へと昇格していく。

 1961年には、NHK『夢で逢いましょう』のサブレギュラーとして抜擢され、たびたび出演するようになる。

 独特の声質が、一部の層から高い評価を受け、声優としても活躍するようになった。『キャベジン』のCMや『ドルーピー』の吹替などは出世作であろう。ドルーピーではとぼけた味を見せ、お茶の間の人気者になった。

 世志凡太氏曰く、「キャベジンのCMに出ていたころ、ピアノを弾いて広告をやる……っていうアイディアを提供した事があって、それが3本目だったか、4本目だったか、採用されたことがあります」。

 他にも「お茶漬けおにぎり玉川」の経営(これは売れる前からの副業でもあった)、作詞(二葉百合子「母のなみだ」、藤圭子「生きてるだけの女」など)やエッセイなどでも技量を見せ、マルチタレントの一人として活躍した。

 その一方で古巣の浪曲やコントにも精通し、機会があれば往年の芸を披露するだけの実力もあった。

 1979年12月2日放映の、『花王名人劇場 一芸名人集』に出演。久方ぶりに本式の浪曲を披露――と思いきや、浪曲をやっている最中に弟子が机やらテーブルかけを片付けてしまう、ドタバタの「笑劇浪曲」を披露。この時の模様は映像に記録されている。

 1980年7月、東宝名人会に出演。「水沢とめ殺人事件」なるコントを発表し、久方ぶりの漫才仕立ての舞台を披露。喝采を得たという。

 その好評が買われる形で、同年9月8日、最初で最後の国立演芸場に出演。 『国立劇場演芸場』(1980年9・10月号)の解説に、

 玉川良一と南道郎は「コント」を演じる。二人は別にコンビではないが、かつて玉川は東けんじと組んでいたし、南は国友昭二と組んでやっていたので、漫才の実績にはこと欠かない。
 先日(七月中席)の東宝演芸場で、二人が爆笑実験劇場と題し 「水沢とめ殺人事件」というコントを演じたのを見た。とてもこの日のためのコンビとは思えない見事な呼吸であった。南のツッコミに玉川のボケがあざやかだ。
 コントの間(ま)は、漫才の間とはまた一と味違うところにも見どころがある。ともかく漫才のレギュラーコンビに、インスタントコンビがどこまで喰いつくか。興味がある。

 晩年は喜劇や映画、ドラマなどに主軸に置き、飄々として味のある役者として活躍をしていた。

 中でも「どっきりカメラ」で、クマの着ぐるみを着こんで、ドッキリを仕掛けるはずが――逆に猟友会に追っかけまわされるドッキリを仕掛けられ、逃亡劇の末に着ぐるみを脱ぎ、「俺だよ、玉川だよ」と叫ぶのは伝説のシーンとなっている。

 1992年10月3日公開の、若松孝二監督の『寝盗られ宗介』では、疎遠になった息子のために死んだふりをする老父の演技で好評を得たが、皮肉なことに玉川自身も大腸癌に蝕まれており、事実上の遺作となった。 

 1992年9月19日、東京女子医科大学に検査入院。10月1日には手術を行ったが復帰する事なく、急逝心不全の為に亡くなった。

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