玉松ジロー・大国三歩

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玉松ジロー・大国三歩

大国三歩・玉松ジロー(右)

 人 物

 玉松たままつ ジロー

 ・本 名 高橋 恒夫
 ・生没年 1916年~??
 ・出身地 関西?

 大国おおくに 三歩さんぽ

 ・本 名 ??
 ・生没年 ??~??
 ・出身地 ??

 来 歴

 玉松ジローは、「玉松」の屋号の通り、伝説の夫婦漫才「玉松一郎・ミスワカナ」の弟子。花月亭九里丸『笑魂系図』をみると、玉松一郎門下となっており、「漫才 玉松次郎 大正五年(現)」の記載有。

 前歴等は一切判らないが、元は大阪吉本の芸人で、何らかの形でミスワカナ・玉松一郎に入門。漫才師となる。師匠同様にアコーディオンを得意にしていたという。

 戦前上京し、「大日本漫才協会」の所属となっている。1944年頃、大空ヒットとコンビを組んだ。その頃の経緯はヒットの自伝『漫才七転び八起き』に詳しいので引用。

さて、その病も良くなり、いえこれは身体が良くなったというのが本当かも。丁度そんなとき、薬屋で、玉松次郎(ジロー)という男に会った。
吉本にいたころ、この人は吉本のサラか二番目位の舞台に出ていた男だが、まだ年も若く、アコーデオンも弾くので、使い道があるかも知れないと思っていた。
「オヤ、良いところで会った。一度話したいことがあるんだが、うちへ来てくれない」
「ハイ、参ります。今からでも」 玉松ジロー君はその名前のように、玉松一郎(ワカナ・一郎で売った人)の弟子。

 1945年8月5日、敗戦直前のNHKラジオに出演している。相方はヒット。この頃は時世を躊躇して「玉松次郎・大空飛人」と名乗っていた。

 戦後は、ヒットの一座に参加をして、漫才を続投。大空ヒット主催の軽音楽グループ「混線四重奏」には参加しなかった模様。

 巡業を経て、東京に戻った後は、寄席・放送などに出演。相応の人気があったと見えて、『NHKラジオ新聞』(1950年12月16日号)の中に、

 漫才は「僕の夢」で、色が黒くて健康なジローの夢。奇想天外な彼の夢物語は、聴く者をして夢ごこちにさそうやも知れず御用心御用心。ちなみに、ギターとハーモニカを鳴らすのが大空ヒット、アコーディオンが玉松ジローであることをおしらせしておこう。

 という広告があるほどである。このコンビは、ヒットが三空ますみと夫婦漫才を結成する1951年頃まで続いた。

 ヒットとのコンビ解消後、やはり一人でぶらついていた漫才師・新山悦朗とコンビを結成。落語協会の興行に色物として出演している様子が、当時の広告やカケブレから伺う事が出来る。ギターとアコーディオンのコンビだったという。悦朗が一人になった理由は、新山悦朗を参考にせよ。

 こちらも悦朗が春木艶子と夫婦漫才を結成するにあたってコンビを解消している。

 1955年頃、大国三歩という芸人とコンビを組み、漫才研究会に参加している。後に栗友亭などの舞台にも上がった。この時にはもう相当な年であったそうで、長年持っていたアコーディオンをやめて立体漫才になった。

 大国三歩はよく判らない点が多い。帝都漫才協会の名簿に名前がないので、別業種の出身か。

 その後は青空うれしと数回舞台に立ったり、司会をやっていたと聞くが、漫才研究会が、漫才協会と名前を変える頃には、消息を絶つ。

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