〆の家〆太(女道楽)

〆の家〆太(女道楽)

 人 物

 しめ しめ
 ・本 名 藤田 ゆき
 ・生没年 1904年~??
 ・出身地 東京

 来 歴

 〆の家〆太は関東大震災から戦前にかけて活躍した女道楽の芸人。「〆の家連」なる女道楽グループを率いて活躍。邦楽や浄瑠璃、ジャズまで加えた派手な音曲で一時代を築いた。元々は芸妓の出身で吉原〆治の弟子。

 経歴は『読売新聞』(1936年9月6日号)のラジオ欄に詳しく出ていた。

〆の家〆太(三二)は神田で生れ浅草小学校を卒業、清元延千八のお弟子から吉原仲の町〆治のところで芸者となつた、十五六年前音曲に転向し浅草で繁昌してゐたが吉本興業部の専属となつて大阪で働いてゐて、今春二月五年ぶりで吉本と手が切れて東京で返り咲いた
〆若(二四)は清元延松のお弟子、俗曲は〆太のお弟子で、八年前から師弟名コンビで興行をつづけてゐる

 師匠の「吉原仲の町〆治」は、芸妓歌手の先駆けとして活躍した「吉原〆治」である。〆治の身内となって「〆太」の芸名を貰ったのだろう。

 師匠譲りの美声と三味線を生かした芸妓として活動していたが、1920年代に入るや寄席芸人に転身した。

 1921年1月1日、「〆の家〆太・〆松」のコンビで東西落語演芸会に所属。『都新聞』(1月1日号)に「新加入〆之家〆太・〆松」とある

 1922年7月、〆代、〆〇、〆蝶、〆松を加えた「〆の家連」を結成。主に浅草江戸館で活躍した。

 1922年8月、睦会へ移籍。震災直前まで同会に所属していた。

 1923年9月の関東大震災に伴い、一本化された落語協会に移籍。焼け残った寄席に出演していた。

 ただ、1925年頃に一度寄席を離脱。しばらくは関西へいた模様か(関西で活躍した七色会〆太と同一人物だろうか)。

 昭和に入り、落語協会へ復帰。

 1927年10月30日、JOAKより「歌づくし」を放送。〆太、〆奴、〆吉、〆松、〆蝶が参加。

 1927年12月16日、JOAKより「和洋合奏唄草紙」を放送。洋楽を得意とする女優の二葉照子、園鶴子、男優の二村定一に音楽家の野村宜直の指揮という顔が並び、そこに純和風の〆の家連が音曲を演奏するスタイルで注目を集めた。楽器の受け持ち担当のは――

清元端唄 〆太
長唄   〆吉
常磐津  〆常盤
三味線  〆奴、〆蝶、〆松
太鼓   〆丸
二調   小圓

 1928年10月24日、JOAKのラジオドラマ『歓楽情緒』に出演。同日の『日刊ラヂオ新聞』に――

「次で寄席でお馴染の〆の家一家、〆太(藤田ゆき)〆蝶(吉川きく)〆奴(高知わさ)〆香(塚本はる)等の吹き寄せ音曲が、五色の球を転がした様に色とり/\の小唄、義太夫、端唄、鴨緑江節等々々に吹き流されて……」

 とある。本名はココから割り出した。

 1931年7月7日、JOAKに出演し「吹き寄せ」を放送。

 この出演後間もなく吉本と契約を結び、吉本興業へ入社。当時、吉本が「放送出演禁止令」を敷いていたこともあり、ラジオと距離を置くこととなった。

 吉本時代は主に浅草帝京座に出演していた。この頃から「〆の家ジャズバンド」を称するようになり、女道楽の中にジャズや洋楽を入れる独特の芸風で人気を獲得した。

 1932年8月21日には、大阪南地花月亭に出演。『上方落語史料集成』によると――

△南地花月 新昇、小雀、源朝、千枝里・染丸、正光、次郎・志乃武、歌江・奴、〆の家ジャズ、ジクスとマギー、エンタツ・アチャコ。余興「喜怒哀楽」「夕立勘五郎」「三枚起請」「靖国神社見世物風景」

 そこから1933年1月まで大阪京都の寄席に出勤を続けていた。その後は主に東京へ進出した吉本のチェーン――神田花月などに出演を続けていた。

 1936年頃に復帰。落語協会に入会することとなった。

 1936年9月6日、JOAK「寄席中継」に出演。久方ぶりのラジオ出演となった。共演は桂文楽「船徳」、〆の家〆太・〆若「吹き寄せ」、春風亭柳好「羽織」。

 1936年11月、ビクターより「お座付三下り・さのさ節」を発売。

 1937年5月、ビクターより「米山・掛合都々逸」を発売。

 1937年8月、スターレコード(ビクターの子会社)より「寄席風景名人大会」を発売。共演は鈴々舎馬風と橘家勝太郎。

このレコード発表前後にどういうわけか落語協会を去り、行方が分からなくなる。五目の師匠にでも転向したのだろうか。〆の家連では唯一〆の家〆蝶のみが残り、寿家岩てことコンビを組んだ。

 

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