揚羽家延八(漫芸)

揚羽家延八(漫芸)

 人 物

 揚羽家あげはや 延八えんぱち
 ・本 名 須永 六蔵
 ・生没年 ??~戦後
 ・出身地 ??

 来 歴

 揚羽家延八は戦前戦後活躍した幇間出身の漫芸家・腹話術師。牛込幇間の売れっ子として知られ、声色、舞踊を達者にこなしたほか、大辻司郎や東喜代駒と手を組んで、独自の漫談・話芸の展開を行った。元祖寄席芸人となった幇間の一人である。

「揚羽家」という屋号の通り、元々は幇間。下谷の揚羽家徳二を主とする揚羽家一門の出であったが、後年牛込の花街に移籍。

 本名は『職業別電話名簿 東京・横浜』から割り出した。

 大正年間には既に牛込の名物幇間として知られ、声色・音曲・舞踊・珍芸などで名声を博していた。

 1920年1月、テイチクより「滑稽声色カチウシャ」を吹き込んでいる。

 1920年6月、テイチクより「お座敷声色・落語家声色」を吹き込み。

 とにかく物真似がうまく洒落っ気もあった所から、寄席芸人ともつながりが深く、大辻司郎の漫談に登場するほどの人気があった。

 1928年12月、ヒコーキより大辻司郎と「カフェー漫談・もてない男」を吹き込み。

 1929年1月、ヒコーキより大辻司郎と「小唄漫談・宴会」を吹き込み。

 1931年10月、キングレコードより大辻司郎と「今様浮世風呂」を吹き込み。

 漫談家・漫劇家も兼ねられる貴重な人材であったといえよう。一方、幇間に古くから伝わる声色や舞踊、端唄――「槍さび」「さのさ」「えんかいな」といった音曲も渋く明るい喉でこなした。

 1932年3月、ニットーより「槍さび・縁かいな」を吹き込み。

 1936年、ニットーレコードより「深川・さのさ」を吹き込み。

 1937年頃、ニットーより「しょんがいな」を吹き込み。

 長らく幇間として第一線で立っていたが、日中戦争以降は統制や非常時などにより、幇間の仕事が激減。花街の活動も縮小され、漫談家への転身を考える。

『都新聞』(1941年4月23日号)に「立体漫談のネタ 喜代駒・延八の体験」と題したゴシップが掲載されている。

 〇……お座敷から舞台へ、と近頃二足の草鞋をはく事が幇間世界に流行って来た今日、牛込の延八も漫談業を掛持で開業することとなり夜だとお座敷を陽二にしなければならないからと、五月二日の昼間軍人会館で第一回の発表会をする事になったが
 まともの漫談では楽天、夢声、大辻に迚もかなひッない、と根が悧巧な男だけに立体漫談を思ひついたが、さて肝腎のネタがない
 〇……そこで賛助出演を頼んである東喜代駒の処へ相談に行くと、立体漫談のネタなんて斯うして家の中で膝を突き合はせてゐたって出来るもんぢやないよ、先づ街へ出る事だネ
 とそれから喜代駒、延八つれ立って街へ出て、行った先が亀戸の天神様、太鼓橋の上へ一時間半と立ち尽くしたがいいネタも拾へず
 〇……更に上野へのして西郷さんと小一ッ時睨めッコしてゐたがやっぱり駄目、浅草を一と廻りして甲斐がなくたうとう両人ヘト/\になる、とたんにげっそり空腹を覚えたので、何処かで兵糧を詰込まうとうなぎ屋へ入ったら飯米販売時間外でお生憎様、代用食で我慢しやうと蕎麦屋へ入ると、今日は全部売切れました
 夜は遅いしほかに食ひ物屋はなし、かてて加へて驟雨のお見舞に両人頭から爪先までづぶ濡れ
 〇……延八ベソを掻いて、先生嘘ばっかり街へ出たッて立体漫談のネタなんか拾へなかったぢやありませんか
 と云ふと喜代駒、なに拾へない事があるものか、今日一日の二人がそっくり立体漫談になってゐる

 漫談の先生は喜代駒として立てていたらしく、喜代駒と何度か舞台に出ている。

 ただ、喋りよりも雑芸や珍芸の方に売りがあったらしく、戦時中は腹話術師に転身した。日本人形を改造して、これで腹話術を演じる――という異色な芸風で堅実な活躍を見せた。

『演劇年鑑 昭和22年版』の中に――

腹話術の一人に、牛込延八と云ふ人がある。神樂坂の幇間の上りだが、此の人のは混りつけのない日本の人形で、小父さんなるものも日本の唄を唄ふ。

 とある。

 その跡もしばらく活動していたようであるが、いつの間にか消えてなくなってしまう。

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