春風亭華扇(踊り)
人 物
春風亭 華扇
・本 名 岡田 徳三
・生没年 1887年12月12日~1920年代後半?
・出身地 ??
来 歴
春風亭華扇は戦前活躍した落語家・舞踊家。春風亭華柳の愛弟子であったが、落語よりも音曲や舞踊を得意とし、色物芸人の色合いが強かったという。睦会の花形であったが夭折をした。
本名は『芸人名簿』より割り出した。「岡田徳三(明治二〇、一二、一二)」とあるのが確認できる。
前歴は不明であるが、『東都噺家系図』によると、20才の時に土橋亭里う馬に入門。
1907年10月、芝・七大黒亭で初高座を踏んだという。しかし、数年で里う馬の門下を離れる事となり、四代目春風亭柳枝の門下に移籍。「枝之助」の名前を貰った。
1917年頃、「春風亭枝雀」を襲名し、事実上の真打となった模様。
落語よりも雑芸や音曲に秀でていたそうで、軽い小噺を演じた後に踊りを踊ったり、音曲を唄ってみたり――と色物芸人の色合いが強かったようである。
1921年3月、師匠の柳枝が「華柳」と改名。師匠の改名に感化されたのか、1921年5月上席、恵智十と人形町末廣で「春風亭枝雀改め華扇」の改名披露を実施している。音曲の富士松ぎん蝶、太神楽になった海老一柳語楼、漫才になった柳亭左喬と同時改名であった。
エラの張った長い顎ととぼけた風貌が売りだったそうで、本名の徳三から「あご徳」とあだ名されたという。
長らく華柳についていたが、後年は袂をわかち、柳亭左楽率いる睦会に所属し、相変わらず古風なおどりを見せていた。
1927年4月に師匠が死んだ際には健在だったらしいが間もなく睦会の顔触れから消える。