大空せんり・まんり

大空せんり・まんり

大空せんり(ネット・ワーク時代)

 人 物

 大空おおぞら せんり
 ・本 名 竹之内 幸二
 ・生没年 1950年7月6日~ご健在?
 ・出身地 鹿児島県 鹿児島市

 大空おおぞら まんり
 ・本 名 小深田 修
 ・生没年 1946年頃~ご健在?
 ・出身地 東京

 来 歴

 大空せんり・まんりは戦後活躍した漫才師。エノケンの末弟子と大空ヒットの息子という毛並みの良さで売出したが、長続きはしなかった。せんりは後に兄弟弟子と「大空ネット・ワーク」を結成し、2000年代まで長い息を保つ事となる。

 せんりは2000年代まで漫才界にいた事もあってか、ある程度の経歴を辿ることができる。

 出身は鹿児島市。同地で生まれ育ち、高校を卒業後、コメディアンを目指して上京。1968年に榎本健一の弟子になり、その付き人となった。

 晩年、体調不良続きでほとんど弟子を取らなかったエノケンが珍しく弟子を取ったという事で、せんりは「エノケン最後の弟子」と自称する事もあった。

 しかし、頼みのエノケンは1970年1月に急逝し、師弟関係は1年半で終ってしまった。

 その後、コメディアンとして活動していたが、限界を悟りコメディアンを廃業。1972年、大空ヒットに入門し、漫才師となる。

 まず、兄弟子とコンビを組まされ、「大空やっさ・もっさ」。しかしこのコンビは長くは続かず、解散。小深田修とコンビを結成するように勧められ、1974年夏、コンビを組んだ。その名も「大空せんり・まんり」。

 相方の大空まんりはヒットの長男。ヒットと小深田和子の息子である。

 生年はハッキリしないが、ヒットが戦後「混線四重奏」をやっていた時に出来た子供だというので、戦後直後という計算が立つ。

 1948年にヒットが離婚した際、「誕生日を過ぎて半年も過ぎている」とある所から、1946年頃の生まれではなかろうか。

 ヒットが巡業している際に、和子が男性問題を起こしたため(とヒットは主張している)、喧嘩をして離婚。修はヒットに育てられる事となる。

 その後、父は三空ますみと再婚。ヒット・ますみコンビの子供となった。ちなみに異母弟として「小深田誠」という人物もいた。

 普通に学校を卒業し、しばらく働いていたらしいが(大空かんだ談)、20代で大空ヒット門下に入り、父のカバン持ちのような事をやっていたという。

 1970年に父がますみと離婚したのを機に、一時期父とコンビを組んでいた事もある。ただ、これは試験的なコンビだったらしく長続きはしなかった。

 その後、兄弟弟子とコンビを転々とした後、1974年夏にコンビ結成。1976年3月に行われた第24回NHK漫才コンクールのパンフレットに「結成以来1年7ヶ月コンビの仲では喧嘩らしいケンカもせず」とある所から大体逆算できる。

 1975年3月1日、第23回NHK漫才コンクールに出場し、「借りたワイシャツ」を披露。

 1976年3月6日、第24回NHK漫才コンクールに出場し、「ブルースリーの伝説」を披露。

 その後、どういうわけか「大空ネット・ワーク」と改名。竹之内がネット、小深田がワークである。

 余談であるが、せんりは鹿児島男児らしくお酒が強く、斗酒を辞さない酒豪。一方のまんりは囲碁が強く、初段の腕前をしていたという。

 1978年、コンビ解消。まんりは引退し、普通の仕事についたという話だが――?

 せんりは漫才協団に残留し、弟弟子の大空ゆたかを誘って「大空ネット・ワーク」を再結成。2000年代まで活躍を続けた。

 このコンビに関してはまた別項を立てたいと思う。

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