大空ヒット・三空ますみ

大空ヒット・三空ますみ

1955年頃

漫才を熱演する二人

舞台での二人

最晩年、放送に出た時のカット写真

人物

  人 物

 大空おおぞら ヒット

 ・本 名 小深田 一生 

 ・生没年 1913年9月1日~1990年10月17日
 ・出身地 大分県 竹田市

 三空みそら ますみ

 ・本 名 小深田 マサ子 
 ・生没年 1928年1月11日~没?
 ・出身地 長崎県

  来 歴

 昭和を代表する漫才師の一組。時事漫才を得意とし、「大空」を一代で漫才の名門へと育て上げた。ヒットは戦前以来の古株の一人であるが、戦後に一番活躍したので、戦後の区分に居れている。ご留意戴きたい。

 ヒットは元来筆が立ち、筆まめだった所から漫才師には珍しく自伝『漫才七転び八起き』を残している。これが非常に役に立つ。詳しく知りたい場合は、この本を一見する価値は大いにある。

ヒットの前歴

 出身は大分県竹田市。小深田家は庄屋の家柄で苗字帯刀を許された程。祖父の代までは財力も権力もあったそうだが、後年没落している。

 地元の小学校に入学、この頃から講談本や小説を読み漁るようになり、落語や講談の真似事をして村の人気者となった。

 この道楽ぶりに後見人であった叔父夫妻の機嫌を損ね、親戚のいる台湾基隆市へと送られる羽目になってしまった。

 台湾到着後は親戚の家に寝泊まりしなから、昼は店番、夜は夜間中学という規律正しい生活を余儀なくされる。学業成績もよくなったが、その年の夏、ホームシックにかかってしまい、友人たちの手助けを得て、帰国している。

 僅かの滞在であったものの、統治下時代の台湾の実情や日本人の横暴さを目の当たりにしたのは大きな収穫だったと見えて、「このことが私の人間成長への大きな役割を果たすことになったのである」と回顧している。後年、左派的な活動に走るのはこの時の怒りや経験が元になっているともいう。

 芸人の志止みがたく、17歳で芸能界入り。猛反対する親戚一同に対し、ヒットの母親が頭を下げてまで説得した末の芸能界入りだったという。

 1929年8月に地方回りの時代劇一座に入団し、旅回りの役者となる。ここでは多く得るものがあったというが、まもなく脱退。

 同年12月、名古屋から来ていた女優の徳川琴子一座に入団、琴子の書生となって身の回りの世話をする傍ら、芸を磨いた。この一座の時分に漫才という芸に初めて接している。

 1930年頃、琴子一座も脱退し、山口県岩国へ旅立つ。脱退の背景は琴子の我儘や暴力、自らの粗相などがあったという。

 挫折と放浪の末、広島で上方漫才の永田キング・ミスエロ子、島陽之助の一座と接し、レビュー調の漫才に感動。キング一座に入ったという。

 また、自身もナンセンス・レヴューなるものを拵えて巡業に出るようになる。広島と九州を回り、相応に受けたものの、疑問を感じるようになる。

 1932年、一念発起をして漫才界へと参入。大分に来た五条家弁慶の一座に入り、初めて漫才コンビを組む。弁慶から可愛がられ、後継にしたいという話も出たという。

 この事から一部漫才系図では弁慶の弟子として線が引かれている事がある。

 1933年に兵隊検査の為に一座を離脱し、帰郷。当地で検査を受けるが第二乙種合格に終わる。それを機に大阪へ行く覚悟をつけて、上阪。

 いざ到着したものの、なかなか馴染めずに悩んでいる時に五条家若二・スミ子という漫才一座と知り合い、入団。スミ子は永田キングの姉だった。

 この一座で谷川末広という青年と会い、コンビ結成。インテリ風の漫才をやり、たちまち自信をつけた。息のあった相手だったものの、間もなく末広は家庭の事情で脱退し、ショックを受けたヒットも離脱。

 大阪へ戻り、勉強している時に若二の師匠筋にあたる五条家牛若の世話になり、ついて歩くようになった。

 この頃、谷川末広が戻り、「青空クリーン・ヒット」と言う芸名を名づけ、コンビを再結成。だが、三ヶ月後に末広の兄が急死し、解散。末広は紙芝居屋へと転向した。

 解散後、漫才の在り方に疑問を覚え、神戸にいた末広を頼って紙芝居屋になる。その傍ら、神戸YMCAの音楽部の夜学に通い、声楽を会得した。

 1年程して牛若の元へ戻るが不入りが続き、上京を志すようになる。その頃、都上英二と出会い、親交を持つようになった。

 1934年頃、都上英二と「青空クリーン・ヒット」を結成し、箱末某が経営する一座に入るが間もなく解散。それと入れ違うように公演を頼まれ、22歳の若さで座長となる。

 伊勢路を巡業したが太夫元に飼い殺される事を危惧し、英二とドロン。夜行列車に乗って横浜へと行く。

 そこで正司利光一座を紹介され、入団。ここで東若丸・君子、東茶目子時分の喜美江、かしまし娘の三人と出会っている。

 半年ばかり地方を巡っていたが、上京の志止みがたく、太夫元を説得して上京。この時にクリーンに頼まれて、「都上英二」とつけた、とヒットは自伝の中に書いているが、疑問が残る所である。

 上京後間もなく、英二が書き置きを残して正司一座へと戻ってしまった為、コンビ解消。ただ都上英二の語る証言とは食い違いがある。

ヒット、上京す

 相方に去られたヒットは相方を何人も変え、東京の寄席を転々としている時、浅草の小梅興行社から夫の出兵で相方不在になっていた漫才師の大和家かほるを紹介され、コンビ結成。

 ヒットのハーモニカとかほるの三味線と歌を武器に浅草の劇場で活躍。人気も収入も鰻上りになり、人気漫才師として数えられるようになった矢先、貞夫が復員して来た為、解散。

 貞夫からは人気がある以上、コンビで居るように勧められたがヒットはこれを辞退。半年のコンビであった。

 この後、自伝では東駒千代と組んだ、という記載になるが、『都新聞』(1937年5月20日号)を見ると、「ヒット・静」というコンビになっている。駒千代と組むまで若干のスパンがあった模様か。

 かほるとのコンビ解散直後、東喜代駒と面識を得、東一門へと入門。喜代駒の元相方である駒千代とコンビを結成し、「大空ヒット・東駒千代」。喜代駒の応援で多くの仕事や宣伝を融通してもらい、腕を磨いた。

 間もなく松竹興行と契約を結び、松竹の専属となる。以来、金龍館を拠点に活躍する人気コンビとなった。

 当時は音曲漫才がベースで、ヒットがハーモニカを曲弾きするネタを演じていた、という。

 1938年、当時流行していた上原敏の『上海便り』を元に、『弟の便り』というネタを完成させる。このネタは大当たりをとり、戦後も長く演じていた。

 当時はそこそこ人気があったと見えて、『都新聞』などのゴシップに出てくる。

ハーモニカ漫才の大空ヒットは双葉山と同県人でしかも年も同じ二十九歳だが、このヒットが此間双葉山の座敷に呼ばれ、帰りに双葉山と連れ立つて外へ出たが、片方は堂々たる天下の横綱、片方は細くて小粒、これをうしろから見た東駒千代が、同じ年におなじ土地で産湯を使ひながらどうして斯うも出来が違ふのかしら……

『都新聞』(1941年3月11日号)

 後年、駒千代の結婚と松竹の契約期間満了に伴い、コンビを解消。師匠の東喜代駒に習って「大空ヒットと漫劇集団」なる一座を結成。各地を巡演している内に吉本興業から声がかかり、契約を結ぶ。

 花月系の劇場に進出し、またしても人気を集めるが、体調不良や吉本興業の待遇への不満などの事情が重なり、1943年頃、喧嘩別れする形で退社。

 林常務が言う。 「君、やめるんやて。そんな事してつい、東京に働けんようにしたるわ。東宝かて、うちの資本が入ってる。吉本はそう甘くはないで」
 これでは初めから喧嘩だ。話にも何にもなりはしない。私も若かった。林さんに食ってかかった。
「へえ、吉本興行って、やくざの集団みたいなですか。あなたは常務で、東京の責任者でしょう。こっちの話も聞かないで、何です、その言い草は。」
「生意気言うな、黙って働いてればいいのや辞めるちゅうようなこと許さん」
 この林常務という人は、吉本本社(大阪)女社長の甥に当る人だと聞いている。
 とりまきの社員が、
「あんた、常務に対して何て口をきくんだね、少し口をつつしんだらどうだ!」
「うるさいな、君達と話をしてんじゃない、休常務と話してんだ。それに辞めれば常務も私も 一対一の人間じゃないか」
「いよいよ生意気な奴や」
 そこへ小山さんという営業部長が割って入ってで、
「まあまあ、ここは私にまかせていきい。大空さんも気をしずめて、常務さんの話も聞いて」
 「話は聞いてます。これは常務が一方的に私をわかしてるんでしょう。大体、吉本興行の、セイ社長さんは、芸人を大切にせにあかん、そう言ってると聞いてます。今の常務さんの言い方は、本社の社長さんの言葉と大分違うんじゃありませんか」
 とたんにシーンとなった。これは痛いところを突かれた結果だろう。と、常務が、
「ま、ええわい。君もなかなか骨のある力や、よし分かった。このまま働いていたまえ」
「お給金はどうなるんです」
「そんなもの、僕が知るか。それは、部長連中と話し会わんかい」
「それは今まで何度も話し合って来ました。その結果が今日になったんです。永い事お世話になりました。失礼します!」
 私はあきれて、あきらめて、外へ出た。その日が池袋化月の楽日、これを最後に吉本を去る決心をして、池袋の夜の舞台に急いだ。

 退社後、大阪から来た玉松次郎とコンビを組んで、「大空ヒット・玉松次郎」。この頃、敵性語狩りに遭い、敵性語「ヒット」から「飛人」(とびと)と名を改めている。

 1944年春、杉並区へ転居。幸い、大空襲等には巻き込まれなかった。

 1945年8月5日には玉松とのコンビでラジオに出演、『戦線便り』を披露している。その十日後、終戦。

ヒットの戦後と三空ますみ

 敗戦後間もない1946年、漫才の立体化を目指すというテーマを元に「混戦四重奏」なるカルテットを結成。仲間を集めて一座を作った。

 この一座は、あきれたぼういず風に、音楽やギャグが次から次へと飛び出す演出で人気を集めた。この時、スカウトされてグループに入ったのが後年、ボーイズ界の大御所となった小島宏之である。

 この頃に長男修を授かっている。修は後年に父の門下に入り、大空せんり、と名乗った。詳しくは「大空せんり・まんり」(工事中)を参照にせよ。

 九州巡演中に、小倉の太陽劇場で三空ますみと出逢い、一座にスカウトをしている。

三空ますみは佐世保の出身で、戦後、女優を目指し、1946年に九州の太陽劇場にスカウトされる。そこでヒットと出会った。ヒットと比べて謎の多い女性である。

 九州巡業中、弟子の大空マナブから仕事を紹介してもらい、大分県に錦を飾って帰郷公演を果たしたのが1948年12月。

 その直後、家庭の事情により、妻と離婚。一座どころの話ではなくなってしまった。グループ解散後、昔の相方である大和かほる、次いで玉松次郎と再結成し、漫才を続けた。

 1950年頃より、マサ子と同棲するようになり、間もなく次男を授かっている。1952年頃、かほるとのコンビ解消。この解散には相当揉めたそうで、『アサヒ芸能新聞』(1954年2月1週号)の『関東漫才切捨御免』にも、

大和かおるが大空ヒットと組んでいた舞台も良かった。なんでわかれたのか其の理由を知らないが別れてもう二年近くなるが

 とある。相当こじれていた模様。

 1952年、妻マサ子とコンビを組んで、「大空ヒット・三空ますみ」。1954年頃までヒットがギターとハーモニカを持ち、ますみがバンジョーを持つ音曲漫才であった。

 後に楽器を捨て、しゃべくりを活かした時事漫才を展開。トップ・ライトとはまた違うとぼけた時事漫才で人気を集め、漫才界の大御所として君臨した。

 漫才研究会設立に奔走し、発足と同時に理事に選出される。都上英二が会長に選出された際は理事長となった。

 ここで政治的手腕も発揮し、漫才研究会内の統一や若手の勉強会の開催などに尽力したが、反骨精神も旺盛で都上英二やコロムビアトップと喧嘩をして、青空一門と大空一門内のゴタゴタを勃発させた事もあるという。

 長らく漫才界の人気者として、大空一門の総帥として奮闘を続けてきたが、1970年に三空ますみと離婚、夫婦漫才も解散した。

 離婚の背景には家庭の事情があったというが、詳しい事は判らない。ますみとの離婚後、新しい相手と再婚をしたが、これもうまく行かず、数年で離婚している。

ヒットの晩年

 コンビ解消後、暫くは一人で活動をしていたり、数人の相方をとっかえひっかえしたという。一時は息子の修――大空まんりの名前で、大空せんりとコンビを組んでいた事もあった。

 1975年頃より弟子の大空かんだと組み、「大空ヒット・かんだ」と再スタートを切る。両人共に人気芸人だった事もあり、幹部待遇を受け、相応の人気を得たが、1982年頃に解散してしまった。

 かんだとのコンビ解散後間もなく、長年勤めていた漫才協団も離脱し、フリーとなった。

 1984年頃、三空ますみとのコンビを復活させ、NHKや国立演芸場などに出演。国立演芸場には、1984年の漫才秋まつりと1985年3月定席公演に出演している。詳しくは国立演芸場のサイトを参照にせよ。

 1984年の物は録音が残っていて、『弟の便り』をたっぷり演じている。相応の評価を受けたが、これも長続きはせずに名コンビ復活とまではならなかった。

 この頃から病気に悩まされるようになり、病の床へ伏せるようになる。病身を抱えながら、老いた母親の介護を続け、その傍らで自伝『漫才七転び八起き』の作成と推敲を続けていた。

 1983年に母親が亡くなった。

 1984年から1年間、共産党発行の雑誌『あすの農村』に「大空ヒットの話し方教室」を連載。

 1985年2月、『月刊民商』(2月号)の中に、対談『笑う日のために――』を掲載。聞き手は小池潔。

 この母の死を機に、自伝『漫才七転び八起き』の完成を急ぐようになったという。

 1989年3月、日本共産党中央委員会の発行する雑誌『あすの農村』に「近づいた夜明け前」を寄稿。これが事実上の遺作である。

 1989年9月に悲願の自伝『漫才七転び八起き』を出版。再起をかけた矢先、病に倒れた。 

 なお、自伝の最後に「今は亡き母の霊をとむらうために、ふるさとへ帰った。」と書いてあるせいか、大分で死んだような表記のなされる資料もあるが、大空かんだ氏や遊平氏によると、東京で亡くなったとの事である。

 ますみは、後年堅気となったというが、詳しいことは不明。

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