春日章・チエミ

春日章・チエミ

在りし日の春日章・チエミ

 人 物

 春日かすが あきら
 ・本 名 根来 金次郎
 ・生没年 1923年5月2日~2000年以降
 ・出身地 大阪府 大阪市

 春日かすが チエミ
 ・本 名 根来 豊子
 ・生没年 1930年4月21日~没?
 ・出身地 大阪府 大阪市

 来 歴

 春日章は、太刀村筆勇の弟で、春日淳子・照代の叔父にあたる。『寄席がき話』に、

 例の相撲漫才の名手太刀村勇の末弟章

 という記載がある。歳の差はどんなものだったのだろうか。

 姉に感化されたのか、早くから芸能界に出入りしていたようである。その経歴は『芸能画報』(1959年2月号)と『寄席がき話』に詳しい。

①根来金次郎②大正12年5月2日③大阪市④昭和21年大阪の桜山源丸に入門同27年上京、現在に至る

  真山恵介『寄席がき話』によると、

章も大阪生れで、福商を出て大阪音楽学校のギター科に学んだサムライ。

 だったそうである。若い頃は謎が残る。

 師匠の桜山源丸は上方漫才の大御所で、元々は江州音頭の音頭取り。戦前は小夜子とのコンビで人気があった。古い人である。何故、この人に入門したのか、不明。ギター科を出ただけあってか、その実力は漫才界でも指折りのものだったという。

 1952年、上京し、姉の太刀村筆勇の住む巣鴨の家に身を寄せていた。

 一方、チエミは大阪の株屋の娘。株屋とだけあってか、家は裕福だったという。その経歴は真山恵介『寄席がき話』に詳しい。

町の名はのネタで人気モリモリの春日章の相方チェミが、あのカレンさで昭和五年四月の生れ。大阪の玉川高女を出て、志賀廼家淡海の一座に飛び込んだ変り種。しかも父は北浜一流の株屋さんなのに。
「あのネ、ネ、水谷八重子に似てるんですってネ。でネ、学校でみんなが女優になれ、なれっていうんでネ、それでネ」と、ネ沢山の口調もなかなか可愛い。しかし、そのいうところは堂々たるもの。

 また、生年や本名は『芸能画報』(1959年1月号)に出ていた。以下はそのプロフィール。

①根来豊子②昭和5年4月21日③大阪市④昭和21年志賀廼家淡海一座に入り同30年漫才界に入る

 1955年、妻と夫婦コンビを結成し、「春日章」と名乗る。それ以前から「春日章・ウララ」というコンビを見つける事が出来るが、これはチエミの前名だろうか。

 同年発足した漫才研究会に入会し、栗友亭などに出演するようになった。1957年3月に行われた第1回NHK漫才コンクールに出場し、『国電口説』なる演目を披露している。

 章がギターを器用に弾きこなす音曲漫才を中心に活躍。滅茶苦茶な進行と、チエミが熱唱する「のど自慢風景」が十八番だったという。

 新山ノリロー氏によると、「ギターはうまかった。悦朗親父みたいな、あんなセコいもっているだけのギターじゃなくて、ちゃんと弾きこなすんだから。のど自慢は面白かった。『一番!○○!』っていうと、すぐ横で『カーン!』。不合格の鐘 (笑) 」

 私生活では大のプラモデル好きであったそうで、暇さえあればプラモデルを作っていたという。柳貴家正楽氏のブログにも、

「地下鉄漫才」で一世風靡した、春日三球・照代さんのおばさまに、春日チエミ師匠がいた。
春日あきら・チエミの夫婦漫才で、わが家出入りの芸人さんだった。
当時、わが家に宿泊してのお仕事も頻繁だったので、随分と可愛がっていただいた。
あきら師匠は、プラモデル製作が趣味で、いろいろ作っては、わたしにおいていってくれた。
ツーパターンの漫才の組み立てがあり、どちらも大うけであった。
とある上品な奥様方のお集りで、控えめな雰囲気のなか、汗びっしょりで熱演する師匠の、「苦闘」の舞台が印象的だった。
とてもきれいな漫才で、大好きなお二人であった。

『yanagiyasoukeのブログ』

 とある。他の芸人さんからもプラモデルにまつわる話を聞いた。

 1970年代初頭に漫才協団を退会。理由は不明。その後は、松竹演芸場を根城に活躍。年に半分近くをこの劇場で過ごしたというのだからすごい。

 1983年、同劇場が閉鎖されるまで消息が追えるが、それ以降は引退した模様か。

 2000年頃の電話帳まで、その存在を確認する事が出来る。

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