春日淳子・照代

春日淳子・照代

淳子・照代(右)

舞台での二人

舞台での二人

右から淳子、照代、大朝家美代子、三枡静代

 人 物

 春日かすが 淳子じゅんこ 
 ・本 名 松尾 初子

 ・生没年 1934年10月5日~ご健在?
 ・出身地 大阪府 大阪

 春日かすが 照代てるよ 
 ・本 名 松尾 せつ子(後年、近馬)

 ・生没年 1935年12月8日~1987年4月1日
 ・出身地 大阪府 大阪

 来 歴

 春日照代は、1970年代から80年代にかけて「地下鉄漫才」で人気を集めた「春日三球・照代」の片割れとして有名であるが、元は姉妹漫才の出身。

 二人の両親は、相撲漫才で人気を集めていた太刀村一雄・太刀村筆勇。叔父に春日章がいる。

 然し、一部文献(日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」)や漫才協会のホームページでは、「春日目玉・玉吉」が両親とあるが、これのソースはどこからきているのだろう。

 目玉という漫才師は、東京に中村目玉、大阪に河内家目玉という人がいたが、「目玉・玉吉」などというコンビの名前を見たことがない。「目玉・玉千代」ならまだ妥協できなくもないが、このへんてこりんな漫才師の名前をどこから持ってきたのか聞きたい。太刀村一雄・筆勇の前名であるとするならば、それは大発見である。

 大体、漫才協会はこの体たらくでいいのか。顕彰をするのに与太を書くサイトがどこにあるのだ、と言いたくもなる。

 両親は元々大阪の漫才師だったこともあり、出身は大阪。然し、両親は帝都漫才協会に所属し、田原町に居を構えていたはずなので、幼いころは行き来していた模様か。

 芸人の娘とだけあって、早くから芸を仕込まれ、楽器や話術を取得。

 1945年――終戦の年に淳子は11歳、照代は10歳で初舞台を踏む。『芸能画報』(1959年1月号)掲載のプロフィールには、

 照代 ①松尾節子②昭和10年12月8日③大阪市④姉と同じく演劇を志したが昭和20年漫才界に入る。

 淳子 ①松尾初子②昭和9年10月5日③大阪市④大阪にて演劇を志したが後漫才に転向、後同20年に初舞台を踏む。

 とある。演劇を志すというのが、引っかかるが、志しただけで役者にはならなかったようである。

 その頃は、淳子がアコーディオン、照代がギターを持った漫才だったそうで、『週刊平凡』(1978年4月13日号)掲載の春日照代のインタビュー『奥さんこんにちは』の中に、

 その後、淳子さんがアコーディオンを持ち、せつ子(照代)さんがギターを持つ歌謡漫才に変わった。このときお父さんはしまいにこう忠告したそうだ。
「これからの漫才は、歌でもなんでもいい。いいかげんにやってたらダメだ。歌をやるならちゃんと譜面から勉強しなさい」
 いまにして思えば、お父さんは先が見える人だったという。

 と、父・一雄の逸話付きで紹介されている。

 しばらくの間は関西の劇場や演芸会への出演や父母について巡業などをしていたようであるが、1949年頃、一家で上京し、西巣鴨に居を構える。真山恵介『寄席がき話』にも、

この漫才一家、西巣鴨に一つ住居していて、それぞれに稼ぎ高を競い合っているとあるが、こりゃあ税金屋さんの掛り。

 と、ある。

 源氏太郎氏によると興行師の内田寛が展開していた「マーガレットシスターズ」という女性バンドグループに出入りするようになり、淳子はアコーディオン、照代は歌手を担当していたという。同グループの一員に不二幸江がおり、講師役は都路繁子の夫、杉田ノボルだった。

 1955年2月、漫才研究会設立に伴い、入会。初期メンバーに名を連ねる。主に栗友亭や松竹演芸場などといった寄席や劇場に出演。

 1957年3月、第1回NHK漫才コンクールに出場。『初恋物語』を披露している。この時は入賞を逃した。1958年3月、第3回NHK漫才コンクールで第3位。これをキッカケに若手の花形として注目されるようになる。ヌーボーとした淳子と、美人の照代の取り合わせも人気のタネであったという。

 1961年2月、松竹演芸場が主宰した秋田実原作・演出の喜劇「漫才横丁」のレギュラーとして、大空平路・橘凡路新山ノリロー・トリローと共に出演。紅一点コンビとして、実力を発揮。

 1961年、第9回NHK漫才コンクールに出場し、特別賞を授賞。名実共に地位を得、これから売り出そうとした矢先、淳子が結婚。

 コンビで漫才横丁を引退し、淳子は寿引退という形で円満にコンビ解消をした。その後、淳子は市井の人に収まったという。

 残された照代は、1962年8月より、大江笙子とコンビを組み、「笙子・照代」となる。笙子の三味線と照代のギターを合わせた音曲漫才だったと聞く。このコンビは数年続き、落語協会にも所属するようになる。

 1963年5月15日、春日三球と結婚。結婚前後のことを質問した『婦人公論』(1982年7月特大号)の取材に対し、

照代 だから、大恋愛とかいうんじゃないんですよ。将来の約束とか、そういうのも、なーんにも無かった。ほんとに何もない。徹夜で麻雀やって、「じゃあ、明日の朝、私がご飯炊いてあげるわよ」って。それが、マ、きっかけですよね。

三球 どうしても結婚しなきゃあとか、一緒になれなきゃ死んじゃうとかネ、そういうアレじゃないんですよ。不思議なアレですよ。で、周りのほうが心配して、私の兄貴がこの人のほうに話をして、コッチの家から荷物を持って来たんですね。珍しいですヨ、本人が届いた後から荷物が届いちゃった。――でもネ、そういうほうが長続きするのかもしれないですね。ここから何かが始まり、そっから付き合いが始まり、過程が反対だから。――コンビ組んだのは、一緒に暮し始めて、しばらく経ってからですね。あのォ、私の相棒の一休さんが三河島事故で死んじゃいまして。で、このひとはお姉さんがお嫁に行っちゃって。その頃はネ、この人が家に居て、私は歌の司会やってたりしてたからネ、コンビ組むつもりはなかったんですけど、この人がお腹大きくなって、で、流産しちゃったんですよ。それで、家に一人で居ても寂しいし、退屈だからって。

照代 周りがネ、「二人でやんなさいヨ」って。私も根っから好きだったんでしょうね。

 と、自嘲気味に語っているが、行く先々で弁当を持ち歩いて仲良く分け合ったり、共に旅をしたり、と漫才界きってのおしどり夫婦として知られた。また、倹約家で財布のひもが固く、それでいてギャンブル好きという陽気な一面も持っていたという。

 1965年2月11日、春日三球とコンビを結成。当初は「クリトモ三球・春日照代」名義で活動していたが、後年「春日三球・照代」と屋号を統一した。

 当時は照代がギター、三球がウクレレを持った音曲漫才で、「電車は続くよどこまでも」がテーマソングであった。照代が子供の頃から培ってきたギターをかき鳴らして、しゃべくりの合間に歌を歌っていたというが、音楽よりも喋りの掛け合いの方が受けるようになり、しゃべくり漫才へと移行した。

 1968年頃より落語協会系の興行に参加するようになり、間もなく正会員として落語協会に入会。但し照代は大江笙子とコンビを組んでいた事もあり、再入会というべきだろうか。

 周りからの勧めもあり、楽器を捨てて、しゃべくり漫才に移行。

「地下鉄はどこから入るの?」に代表される日常を見事に切り取ったネタを連発する三球のボケをうまく受け流す漫才で人気を集め、「自動券売機をクジにしたらどうか?」「山手線を全てつなげてしまおう」などといった三球のボケに鋭く突っ込むスタイルを確立した。

 寄席を中心に地道な活動が続いたが、その話芸やネタが噂を呼び、徐々に認知されるようになる。

その人気が少し出るにつれ、テレビ・ラジオに出演するようになり、結果として「地下鉄漫才」は全国的なブームを引き起こし、一躍スターダムに上り詰めた。

 詳しい活躍は、「春日三球・照代」を参照にしてください(工事中)。

 漫才ブームの波に見事に乗り、東京漫才のスター株として、テレビに寄席に劇場に、八面六臂の活躍を続け、多くのテレビ番組や雑誌で連日取り上げられる忙しい日々を過ごしていた。

 1987年3月24日11時17分、新宿コメディシアターで収録された『新伍のお待ちどうさま!』に出演中に、くも膜下出血で突如昏倒し、イスから転げ落ちた。倒れる寸前には不気味なほどの汗が出ていたという。

 東京女子医大に運ばれて、緊急手術が行われた。一週間集中治療室で懸命な治療が行われてきたが、意識は回復せず、4月1日、くも膜下出血の為に静かに息を引き取った。

 東京漫才を代表する名コンビにはあまりにも呆気ない幕切れ、あまりにも残酷で、突然の死は世間に衝撃を与えた。

 その葬儀に列席した澤田隆治氏によると、母親の筆勇と淳子は健在だったという。春日淳子は年齢的にまだご健在の可能性があるが、詳細は不明。

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