てきさすコンビ(三田みつお・まさお)
みつお・まさお(左)
人 物
三田 みつお
・本 名 矢田 鉄男
・生没年 1953年5月12日~1987年12月4日
・出身地 大阪市
三田 まさお
・本 名 矢田 浩二
・生没年 1954年7月11日~ご健在?
・出身地 大阪市
来 歴
てきさすコンビ(三田みつお・まさお)は戦後~漫才ブームに活躍した兄弟コンビ。元々は大阪の三田まさるの門下生であったが、上京して東京の漫才師としてデビュー。珍妙なコミックマジックや独特のコント仕立ての漫才を得意とし、『お笑いスター誕生』などで活躍した。みつおは心臓が悪く夭折を遂げた。
本名は『漫才協団名簿1987年度』より割り出した。生年は1986年のNHK漫才コンクールパンフレットより割り出した。
〈三田みつお〉 アフロ。兄。昭28・5・12、大阪市生れ。
〈三田まさお〉弟。昭29・7・11、大阪市生れ。
師匠は三田まさる(昭和46年11月入門)。コンビ歴6年。 大阪で修業、昭和48年、上京、兄の病気ブランク期を経て、「お笑いスター誕生」(NTV)で売り出し、「ザ・テレビ演芸」(テレビ朝日)で、昭和58年チャンピオン。マジックコントでうけてしまったが、好きな漫才の原点にもどって、コンクール初挑戦。業界でも有名なネクラの弟と明暗合せもつ兄との奇妙なからみで、野性味ある現代漫才を狙う。
みつおは若い頃から心臓が悪かったらしく、たびたび入院した。最終的にこれが死因となったらしいが――。
高校時代から「素人名人会」やアマチュアコンクールなどに出演し、賞金や景品を獲得する――という日々を送っていた。
みつおは18歳の時に、コメディアンの三田まさるに入門。この三田まさるは鳳啓助・京唄子の唄子の三人目の旦那で戦後コメディアンとしてそこそこ人気のあった人物。彼から「三田」の名前を貰った形というわけ。
まさおはみつおのすぐ下の弟で、高校卒業後に兄を慕って入門。兄弟コンビを結成する。
当初は師匠を慕って劇団の下回りやキャバレーや余興で食っていたようであるが、1973年に思い切って上京。兄弟漫才として売り出そう――とした矢先に、みつおは心臓病に倒れ、入院。
手術やリハビリで4年近い歳月を費やしてしまい、漫才ブームに乗り切れなかった。兄の病気中、弟は色々な仕事をやりながら兄の復帰を待っていたと聞くが――詳細不明。
1980年に復帰し、「てきさすコンビ」と名乗るようになる。ただ芸名や何やらには深いこだわりがなかったと見えて、「てきさすコンビ」「てきさすpart2」「三田まさお・てつお」「矢田鉄男・浩二」と芸名をコロコロ変えている。
漫才としてはいささか異色で、コミックマジックやコント風の掛合、時には昭和天皇・皇后の真似をして客の度肝を抜くなど、前衛的なコンビとして知られた。
特にマジックコントは十八番だったと見えて、死ぬ直前までこれを武器にした。風船を割って中からトランプを出したり、ナイフで相方の頭を刺したり、怪しげな催眠術を使ったり――と、いかにも胡散臭いマジックながらも手慣れた姿を見せて、観客を笑わせた。
ファンだった方が『私が惹かれるものたち テキサスコンビ・てきさすpart2(お笑い芸人)』と題して小説家になろうにエッセイを寄稿しているが、これがなかなか貴重である。リンクを貼っておく。
1980年に始まった『お笑いスター誕生』に復帰リハビリがてら出演。ここで5週勝ち抜いて「お笑いの新人」として注目を集めるようになった。
その後は徐々に人気を集め、1982年には「天皇陛下の真似をする漫才師」という形で『週刊朝日』の「野次馬最前線」に取材を受けた。以下は『週刊朝日』(12月17日号)の記事の引用。
恐れ多くも畏くも、密かに天皇 ・皇后両陛下の物真似をギャグにして受けている漫才師がいる、と 聞き、さっそく飛んでいった。
東京・浅草六区の「フランス座」。先月末までストリップ劇場だった所で、現在、寄席に模様替えの最中とかで、そのせいか、二百の座席に客はわずか十二人。
いよいよ、くだんの漫才コンビ 「てきさすパート2」が登場。
「東京のお客はん、アカヌケしてはりまんな。ハイカラですよ」
「なんやかんやいても、品がありまんな」
「天皇陛下が住んではる所やからや。あの人、品のかたまりや」
「わし、東京へ来ていちばん最初に見に行ったんが、天皇陛下やねん。一緒に漫才でけたらなぁ」
「漫才のレベル、あがりまんな。 芸が高級になる。三公社五現業の上に漫才師がきます」
「年金もつくで」
ここで「チャンカ、チャンカ、 チャン」とメロディーを口ずさみつつ、兄弟コンビの兄・矢田鉄男さん(三〇)の「物真似」が始まる。
顔を心もち前方にかしげて、腰をややかがめた歩き方をそっくりに演じ、
「わ~が~こ~く~み~ん……」
と、独特のアクセントで重々しくしゃべるのである。
そして、最後に手をゆっくりと振り、
「一人じゃさびしい。お前も手ェ振れや」
弟の浩二さん(二九)がにこやかに微笑みながら並んで手を振ると、
「ハイ、こちら皇后陛下です」
この間の客席の反応は微妙である。閑散としていたせいか、内容が内容だったせいか、最後はドッとわいたが、初めのうちはやや遠慮気味にクスクス忍び笑い。終始、無表情の人も二、三人。その代わり、あとのほうでオハコの手品を使ったマジック・ギャグが始まると、爆笑の連続だった。
この「物真似芸」、初めて見た人はドキリとするらしく、十一月 初旬に東京・浅草演芸場で見た人の話によると、
「観客のほとんどが地方から観光旅行に来たおじいさん、おばあさんでしてね。なんか舞台で非常にヤバイことが行われているんじゃないか、はたして笑っていいものかどうか戸惑っちゃって、客席全体で笑いが凍りついたような雰囲気になりましたね」
という。だが、鉄男さんは、
「そんなことあったかな。むしろビビるのは若い人のほうですよ。こんなことしゃべってええんか、ちゅう顔して、周りが笑っているのを見て、『なんや、ええんか。 そうか、なるほどハハハハ』って なもんで、ワンテンポ遅い。むしろ年寄りのほうがすぐ素直に笑ってくれる。名古屋には常連客のおばあちゃんがいて、他の漫才師が何やっても笑わんのに、ワシらが天皇陛下をやると、ものすごい拍手をしてミカン投げてくれるんです」
矢田兄弟は大阪市出身。高校時代からしろうと寄席コンテストを総なめにし、上京後の五十六年に は、「B&B」や「おぼん・こぼん」を売り出した日本テレビの 「お笑いスター誕生」で五週連続勝ち抜いた実績もある。が、漫才ブームの最盛期に兄の鉄男さんが心臓病で倒れたこともあってスター街道に乗れなかった。
天皇陛下の物真似を始めたのは別に思想上の背景があるわけでもなく、たまたま二年前に渋谷の寄席で、アドリブで、
「東京の客が品のいいのは、天皇陛下がおられるからや」
とやったら、びっくりするほど受けた、というただそれだけの理由からだという。
一度、テレビでこの芸を演じたら、 「時間の都合」とかで、その部分がカットされた、そうだ。
「先輩や師匠から、大丈夫かと忠告を受けるんですが、キャバレーでヤクザの大親分に『おもろいヤッちゃ』といわれたことはあっても客から文句が出たことは一度もないですね。天皇陛下の存在に親しみを感じている人は多いし、関西弁だから許される面もあるんじゃないですか。もし、『やめろ』といわれれば、『えろうすんまへん。そう怒らんといて、ネタ変えるさかい』と言って、またほかの寄席でやればいいでしょう」
と、このへんの臨機応変ぶりはいかにも関西である。(福)
1983年、横山やすし司会の人気番組「ザ・テレビ演芸」に出演し、3週勝ち抜きの上にチャンピオン大会を制覇。1983年のチャンピオンの一組として輝いた。
この時、横山やすしは二人の芸に感心し、いつもは痛烈に罵倒するはずが(ダウンタウンが「チンピラの会話」と罵倒されたのはあまりにも有名)、「面白かった」と褒めた事で評価を高める事となった。
そうしたタレント的人気も手伝って、落語会や演芸大会にも呼ばれるようになり、若手のホープとして認められるようになった。
1985年10月、国立演芸場に出演。『国立劇場演芸場』(1985年10月号)に――
漫才のてきさすコンビはなにわっ子、三田みつお、まさおの兄弟コンビ。三田まさるに入門したのが四十六年。四十八年に上京し、コンビとして活動をはじめましたが、五十一年に兄のみつおが心臓の病気でダウン。四年間のブランクののち、コンビを再結成しました。「さいわい病気が軽かったので手術後の経過もよく、いまではすっかり元気になりました」(みつお)
とある。この年の暮れに漫才協団に入会。
1986年2月22日、第34回NHK漫才コンクールに出場し、「世相ガイダンス」を披露。残念ながら優勝を逃した。そしてこれが最後の漫才コンクールとなってしまった(NHK漫才コンクール廃止)。
その後も漫才協団に所属し、堅実な活躍を見せていた。1987年4月には再び国立演芸場に出演。『国立劇場演芸場』(1987年4月号)に――
てきさすコンビは大阪出身の兄弟コンビ。弟の三田まさおは画家を志したこともあるほど画才にめぐまれていますが、兄のみつおは「どちらかというと動く絵のほうが好きです」という映画ファン。小さいころから二人で「素人寄席」などに出ていましたが、四十六年に三田まさるに入門。四十八年に上京後、兄のみつおが病気入院。四年のブランクののち、五十五年にコンビを再結成しました。
1987年11月21日、浅草公会堂で行われた協団主催の「さがみ三太・良太真打披露・第十八回漫才大会」に出演。第一部の「大激突!パワー漫才」と称した若手の部に出演し、達者な所を見せていた。
しかし、その出演後間もなくみつおは倒れ、入院。漫才大会から2週間足らずで息を引き取った――という。
命日は『新撰芸能人物事典』より割り出した。信憑性は不明。
兄を失ったまさおは漫才界を離れ、引退したという。