中禅寺司郎・滝喜世美

中禅寺司郎・滝喜世美

司郎(右)・喜世美

若き日の司郎

 人 物

 中禅寺ちゅうぜんじ 司郎しろう
 ・本 名 小和田 利信
 ・生没年 1910年8月17日~1977年以降
 ・出身地 東京

 たき 喜世美きよみ
 ・本 名 小和田 カネ子
 ・生没年 1921年7月10日~??
 ・出身地 東京

 来 歴

 生前付き合いのあった清水一朗氏によると、「栃木生まれだという事を本人から伺いましたが」との事であるが、どうも東京生まれのようである。

 芸人になる以前は高等小学校に進学した後、堅気の商売をやっていたらしく、『都新聞』(1938年1月21日号)に、

中禅寺司郎、満里子のコンビは今日が初放送、司郎さんは新人で陸軍御用商人から転向、漫才を始めて三年位になる、単独ヂヤズといつてインテリ向きの賑やかなお笑ひが得意

 とある。

通っていた学校は下谷高等小学校だったそうで、『読売新聞』(1938年8月19日号)に、

「中禅寺司郎は下谷高等小学校卒業後皮革業をしてゐたが皮革統制を見越してか一昨年春漫才に転向し浅草の鈴屋興行部の専属となつた」

 なる記載がある。

 1935年頃、漫才師となり、静家興行と専属を結ぶ。その頃は都路繁子とコンビを組んでいた。後に松竹演芸部と契約を結び、松竹系の劇場に進出するようになった。

 この頃、ミッキー満里子とコンビを変えたようであるが、謎が残る。

 一方の滝喜世美は元々ダンサー出身。波多野栄一は『寄席と色物』の中で、「馬鹿囃子のマネが巧く女房はダンサー上がりで売れたが……その後は不明」と記している。また、『芸能画報』(1959年4月号)によると、

喜世美 ①小和田加根子②大正10年7月10日③東京④昭和16年8月浅草静家興業社に入る後松竹演芸部を経て同29年芸術協会に入る

 戦時中、二人は出逢い結婚。司郎が婿養子に入った。1943年、帝都漫才協会発足に伴い、第七部に所属した。

 戦後一時期、漫才から距離を置いたものの、1953年頃に復帰。

 松浦善三郎『関東漫才切捨御免』(『アサヒ芸能新聞』1954年4月3週号)に、

滝喜世美・中禅寺司郎

戦後ながらく舞台を休んでいたが昨年あたりからカムバックして活躍をはじめた立体。司郎は都路重子でちょっとふれたようにアプレではなく、戦後もっと早く立ちあがっていれば、いまごろは相当放送でも耳なじみになっているはず目下さかんに定席をかせいでいる 亡くなった大辻司郎氏と同型に髪を刈っている。二月から帝国演芸社長の中島氏にマネージャーを任したそうで、関係方面に挨拶状をくばっていたから、中島氏の力腕とあいまって本年からの活躍が期待される。

 と、当時の事情が記されている。

 1954年2月上席より、日本芸術協会に所属し、寄席にも出演するようになった。

 1955年には漫才研究会設立に関与し、初期メンバーの一人として名を連ねている。

 以来、寄席を中心に活躍、「ジャズ漫才」と称した珍芸風のネタを得意とした。真山恵介『寄席がき話』に、その芸風を記したものが掲載されているので、引用する。

 故大辻司郎バリの、前髪を刈りそろえたおカッパ頭の司郎(芸名のイワレ)と長身サッソウたる喜世美のコンビで、トリネタは鼻と口と指の活用によるジャズで、ピアノ、トロンボーン、サキソフォン、ドラム等々、実ににぎやか千万な大メロディーが出現する。
 それにからんで、名舞踊家喜世美がダンスの妙をご覧に入れるという。いつまでもお若いご両人の楽しそうな高座は、思わずお客の爆笑を誘う。

 ただし、安藤鶴夫は某エッセイの中で「素人のような芸だ……」と酷評している。

 1962年7月限りで芸術協会を退会。その後も暫く漫才をやっていたようで、『著作権台帳1963年度』辺りまで名前が見えるが、それ以降から消息がつかめなくなる。

 日本東八拳技睦會々長の菊廼家和楽氏から伺った話によると、1977年頃、幇間の悠玄亭玉介の関係者であったお囃子の師匠から、馬鹿囃子や祭囃子の仕事を貰いに来ていたという。それ以降の消息は完全に不明。

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