奈美乃一郎(声帯模写)

奈美乃一郎(声帯模写)

 人 物

奈美乃なみの 一郎いちろう
 ・本 名 市川 栄蔵
 ・生没年 1908年8月~1955年8月29日
 ・出身地 東京 本郷

 来 歴

 奈美乃一郎は戦前戦後活躍した声帯模写の芸人。元々は活動弁士であったが、弁士衰退に伴い声帯模写と漫談に転向。単純な物真似に留まらず、ドラマチックな構成を持つ声帯模写を完成させた。高い人気を誇ったが50目前で夭折した。

 経歴は『アサヒグラフ』(1950年7月5日号)の「声帯模写ベテラン掲示板」に詳しい。

声帯模写 奈美乃一郎氏(41) 本名市川栄藏 東京は本郷の生れ 法政を中退当時花やかなりし活弁の世界にとびこみ 新宿松竹の主任弁士で”天国に結ぶ恋”などで女の子どもを感激させたのがそもそも二十四 五歳の道楽の果とある トーキーの出現にそなえ牛乳配達をしながら一年間苦慮して選んだ道が声色漫談でNHKの新人放送 今日ならノド自慢の三つの鐘で合格 先輩格の夢声氏に「二年間声色を封じられ」創作話の勉強に追いたてられなどしたのが今では大へんなクスリになった 「映画にも出たけどネエ それがマーおくらが多くて」 物にはならなかつたという 人にきかれて 「左まきに思われる」のがつらさに練習はもつばら電車の中で夜道 ときにはねどこでフトンをひつかぶってもやる お得意は「なんといつてもエノケンのリンゴ売りだ」そうだ

 また、『人事興信録 第15版』の中に、生年の記載がある。

奈美乃一郎 声帯模写(本名市川栄蔵)東京出身 明治四十一年八月杉並区栄太郎の長男に生まれた法大予科に学び映画説明者徳川夢声門下として漫談家となり大泉撮影所三枚目俳優を経て声帯模写を研究し今日に至る

なお、活動弁士の師匠は大辻司郎や徳川夢声であったらしく『読売新聞』(1933年3月5日号)に「大辻氏に師事し、新宿松竹館に居たことがあるが、映画説明者としては、奈美の一郎といつた」とある。

 当時としては底抜けのインテリで、語学などもイケた。震災後に活動弁士になり、昭和初頭はそこそこ人気があったらしい。新宿電気館に長らく所属していた。

 1929年4月、長女・小枝子誕生。

 1930年代に入り、トーキーの出現で活動弁士需要が激減。活動弁士の解雇を巡る争議では結構派手にやったらしいが最終的に失職の憂き目に遭遇する。この争議中、先輩の大辻司郎や徳川夢声が漫談で売り出したのを機に、牛乳配達をしながら芸を磨いた。

 1933年1月、次女・栄美子誕生。

 1933年3月5日、JOAKの『新人の午後』に勝ち抜き、「漫談物真似 朝から夜中まで」を披露している。街の風俗を軽妙な話術で描きながら、動物や乗り物の真似をするという手法を確立した。

 さらにこうした手法を展開して、従来の「○○を演じます」というスタイルを廃し、「時に長谷川君(阪東妻三郎の声色で)」「なんですか、阪妻さん(長谷川一夫の声色で)」というような掛合方式の声帯模写を完成させている。

 1934年頃、活動弁士を廃業。廃業直前に出された『キネマ週報196号』(1934年4月号)の中で「追ひつめられた人生」なるエッセイを見ると――「いくらトーキー反対と叫んでも無駄だ」「すでに世の中はトーキー一色だ」「おベン(弁士のこと)はドレイも同然なのだ」と非常に絶望的な言葉が並べられている。

 この絶望の通り、無声映画は衰退へと向かっていく。

 1935年10月、長男・栄典が誕生。

 根が活動弁士の売れっ子だけあってか、この声帯模写の成功で芸能界に復帰。その素質を見抜かれる形で、新興演芸部と専属契約を結んだ。

 寄席や劇場に出る傍らで、映画俳優としても活躍。確認できるだけでも、

 1937年2月3日、「初島田」(新興東京)の職人吉公。
 1937年4月1日、「東京おけさ」(新興東京)の勘太。
 1937年4月15日、「浮かれ花嫁」(新興東京)の酒屋。
 1937年5月30日、「風流五家族」(新興東京)の古着屋安川栄造。
 1937年6月17日、 「愛怨峡」(新興大泉)浪曲師天広軒虎松。

現存が確認できるのはこの作品か。ちなみに「愛怨峡」では玉子家源一と並んで漫才指導も行っているという。他にも――

 1937年8月12日、「煙る故郷」(新興東京)の甚作。
 1937年9月16日、「みだれ島田」(新興東京)の松造。
 1937年9月16日、「みだれ島田」(新興東京)の松造。
 1937年11月3日、「男なりゃこそ」(新興東京)の梅野。
 1937年12月24日、「鉄拳涙あり」(新興東京)の丸山。
 1938年1月12日、 「泣くな嘆くな若人よ」(新興東京)の杉浦。
 1938年3月23日、「娘天晴れ」(新興東京)の泥棒。
 1938年4月7日、「トーチカ娘行状記」(新興京都)の職人甚太。
 1939年1月26日、「女難突破」(新興東京)与太者。
 1939年3月25日、「白衣の兵隊」(新興東京)の赤城上等。
 1939年5月1日、「侠艶録」(新興東京)の幇間。
 1939年6月8日、「楽しき我が家」(新興東京)の赤木一等兵。

 となかなかなものである。演技はうまかったらしいが、如何せん戦後に分裂した映画会社というせいもあってか、現存数は少ない。

 1939年頃に演芸界に復帰し、声帯模写や歌謡漫談を演じるようになる。吉本興業に入社して、吉本系の劇場にも出られるようになった。『台湾芸術新報』(1939年10月号)に――

吉本ショウバカボンズ加入 四人組結成 
あきれたぼういずを創つて世に何々ボーイズ誕生の先鞭をつけた吉本興行では東京のミルクブラザーズ、スリーシスターズに拮抗するべく大阪吉本ショウへバカボンズを結成して加入出演さす事になつた。そのスタッフは声帯模写の奈美乃一郎、唄と芸達者な白川夜舟を新加入させ、唄手の御公彰、冬郷英雄の四人であるが、楽器を扱ふに器用なのと唄を唄へる素質が多いので、その出現は又々ボーイズ型の殻を破った異色として期待されてゐる。

 戦時中は司会、声帯模写に加え、歌謡漫談「あぱぱい・あんさんぶる」のリーダーとしても活躍。

 1944年1月、富士音盤(キング)から、「戦力増強 演芸歌謡大会」(と-343~345)を吹きこみ。司会と声帯模写を演じながら、林伊佐緒や三門博を紹介する立ち回りを演じている。

 敗戦直前に応召されるも、何とか帰ってこられた――と『夢声戦争日記』の中にある。

 戦後はラジオ放送と実演を中心に活躍。コメディアンとしてもして活躍。その人気は松井翠声、徳川夢声とともに称される程だった。

 1946年12月31日封切りのコメディ映画「満月城の歌合戦」に出演。

 1948年9月2月~14日、日劇小劇場で開催の「ナヤマシ会」に出演。夢声や大辻司郎と共演。

 1949年3月28日公開の「のど自慢狂時代」にも出演している。

 また、コミックソングを何枚か吹きこんでいる。

 1950年1月には、日劇の公演「ラジオは踊る」に出演。

 しかし、1950年代に入ると喀血、結核と診断される。妻や子供の為、病身に鞭うって仕事を選びながら活動をしていたらしいが、結核は重くなる一方で遂に舞台に出られなくなってしまった。

 これに同情した関係者たちが集って慈善公演を行った程であった。この慈善公演を見に行っていたのが立川談志ではなかったか。

 しかし、その願いもむなしく1955年8月29日、結核のために48歳の若さで亡くなった。

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