大空平路・橘凡路

大空平路・橘凡路

 

大空平路・橘凡路(左)

大空平路・凡路時代

須賀三郎時代

 

 人 物

 大空おおぞら 平路へいじ

 ・本 名 菅田 護
 ・生没年 1927年11月17日~没?

 ・出身地 東京 新宿

 たちばな 凡路ぼんじ

 ・本 名 吉田 小源次
 ・生没年 1931年1月17日~没

 ・出身地 東京 世田谷

 

 

 来 歴

 戦後活躍した漫才師。大空ヒット門弟と、橘エンジロ門弟という他門同士の異色のコンビであった。ヌーボーとした凡路と、チャキチャキした平路の対比で、戦後の東京漫才を牽制したものの、早くに別れた。

 

 ・平路の遍歴

 真山恵介『寄席がき話』によると、平路の実家は都交通局の職員だったという。幼い頃の事は判らない点が多い。

 戦後直後に芸能界入りを果たし、エノケン一座、新風ショー、新宿セントラルのコメディアン、歌謡曲司会者など各種業界を転々とした。

 コメディアン及び司会者時代は須賀三郎と名乗っていた。新宿セントラル時代に、ハウゼ畦元――こと、畦元直彦と出会っている。この人とは長く縁が続き、なにかと組み合わさることが多かった。また、コメディアンの由利徹なども当時の仲間であったと聞く。

 新宿セントラルが火事で焼失した後、司会漫才に転向した模様か。

 この頃、知り合った青空うれし氏によると「平路さんは凡ちゃんよりも器用で司会なんかも卒なくやっていた記憶がある。それに谷井啓って奴とコントもやっていた。ダニー・ケイのもじりだよ」との事である。

 うれし氏旧蔵の名刺を見ると「ジョーク・デュエット 須賀三郎 谷井啓」とある。

 その後、大空ヒットに入門し、大空平路と改名。『東京新聞 ラジオテレビ版』(1959年5月7日号)掲載の「コンビ売出す」によると、

 二年前に大空ヒットの門に入った。その動機は「漫才の方が世の中へ出るのが早いだろう」と考えたためだそうだ。昭和二年生れで、顔がヒットに似ているので兄弟じゃないかといわれる。

 とある。逆算すると1957年入門という推測が立つ。

 

 ・凡路の遍歴

 凡路は世田谷の出身。真山恵介『寄席がき話』によると、父親は金沢美術学校で美術を教える教授だったそうで、本人も日本大学芸術学部へと進学している。

 面識のあったハウゼ畦元氏によると、「父親は吉田源十郎という人で、確か、漆器をやっていて、美大の先生だったんですよ」との事である。

 もし、そうだとするならば、凡路は、日本漆工芸会会長で、金沢美術工芸大学の教授であった吉田源十郎の実の子という事となる。

 戸籍の確認はとれてないので、確証には至ってないものの、源十郎の訃報の中にある住所と『芸能画報』(1959年2月号)の中にある住所が一致している所から、事実の模様か。

 学生時代に、二代目市川猿之助に入門。市川小三太という芸名を貰っているが、どういう経緯で梨園入りを果たしたのかは不明。

『芸能画報』(1959年2月号)には「少年の頃歌舞伎役者の夢を見たが軽演劇に進み漫才に転向」という旨が記載されている。親のコネで入門した模様か。

 子役として出発したものの、間もなく猿之助に破門された。『東京新聞 ラジオテレビ版』(1959年5月7日号)に掲載された「コンビ売出す」によると、

凡路もちょっと変っていて日大で学んだことがあり、戦後猿之助一座に入って市川小三太という名前をもらっていた。東劇の舞台も踏んだことがあるが、二年目にやめた。

旅興行で、湯に入っていた猿之助に、ホースで水をひっかけるというそそうをして、コッピドクしかられたのが原因である。

 という記載がある。しくじりをして役者を辞めた、というのがおかしい。

 日大芸術学部を中退後、橘エンジロに入門。なぜ地味な橘エンジロに入門したのか、その経緯もよく判らない。

 

 ・平凡コンビ売り出す

 コンビ結成後、栗友亭や漫才大会などで腕を磨き、1959年3月漫才コンクールで優勝を遂げる。以来、東京漫才の中堅として認められ、テレビやラジオ方面にも進出。

 凡路はヌーボーとしたおかしみを持っていたそうで、青空うれし氏曰く「物凄く話芸に優れていたというわけではないけど、凡ちゃんは面白かったよ。『君は、風呂に入る時も眼鏡をかけるそうじゃないか』『目が悪いから、眼鏡かけないとみえないんだ……』『でも、寝る時もかけているっていうじゃないかよ』『そうしないと夢が見られないじゃないか』って、如何にもとぼけた味があってね」。

 1961年2月には、松竹演芸場の舞台を借りて、漫才研究会と秋田実が合同で主催した「漫研ショウ」の喜劇「漫才横丁」のレギュラーに抜擢される。同時に抜擢されたのが、春日淳子・照代と新山ノリロー・トリローであった(後年、淳子が抜け、まゆみ・わかばや大空なんだ・かんだが入団)。

 一座の兄貴分として主要な役を演じた。特に平路は喜劇の出だけあってか、非常に器用な演技を見せたそうで、爆笑をかっさらっていたと聞く。

 長らく松竹演芸場の舞台を中心に活躍していたが、漫才横丁の自然分裂や漫才協団内での分裂騒動などに巻き込まれ、1960年代後半になると人気も失速。なぜか漫才協団の公演などにも出なくなる。

 1968年の漫才協団の名簿まで平路凡路名義で掲載されているが、1970年には、すでにコンビを解散している。

 以後、開店休業が長く続き、解散。1970年頃解散した模様である。

 

 ・コンビ解消後の平路

 解散後、平路は、ハウゼ畦元とコンビを組んで「平路・凡路」のコンビを続投した。ただし、相方の名前は「大空凡路」である。1974年まで漫才協団に所属していたが、それ以降は連名から消える。

この事を相方、畦元氏に伺った所、

「当時、平路さんとは同じ事務所(註・吉本プロ)にいて、仲間でした。当時はキャバレー全盛でしたから、そういう仕事をもらってくる。それで私と平路さんがコンビを組んでやるようになりましたが、コンビを正確に組んで、どうこうしたという程のものではないではありません。半コンビといった所でしょうか」

 とのことであった。その一方で、

「平路さんは恩人ですし、気心が知れた仲間でしたから、その頃の舞台はいいものをやれていた、という気持ちはありますね」。

 このコンビで5年くらいやっていたそうであるが、なし崩し的に解散。

 解散後は芸界から足を洗ったらしい。後年、立川に移住し、ラーメン屋をやっていた――と大空かんだ氏より伺ったが、詳細は不明。それ以上の事は判らない。

 

 ・コンビ解消後の凡路

 平路と別れた凡路は、人気のあったコントグループ「天兵トリオ」に入団。コントの一員となったという。

『文化人名録』(第15版)にも「事務所 現代センター 相方=春風天兵、水品引太(天兵トリオ)」 とある。然し、なぜ、天兵トリオに入団したのかは不明である。

 春風天兵に可愛がられた春風こうた氏も「天兵氏は知っていますが、凡路さんが入っていたとは知りませんねえ……」との事であった。

 1973年頃、葵伸路という人物とコンビを組んで漫才協団に復帰したが、翌年には連名から名前が消えている。この伸路という人物がどんな人物であるかはよく判らない。

 後年、千葉へ移住し、飲食店を経営。この飲食店はバーとも喫茶店ともいう。店主として奮闘する傍ら、趣味で腹話術を会得し、時折演じていた。

 その後も青空うれし、新山ノリローなどの旧知の漫才師たちと交友があったというが、晩年は病気で倒れ、所作や言語が不自由であったらしい。

 リハビリに励みながら、店を続けていたというが、間もなく没したと聞く。詳しい事は相変わらず不明である。

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