大朝家五二郎・〆駒

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大朝家五二郎・〆駒

 

  人物

 大朝家 五二郎だいちょうや ごじろう

  ・本 名 富田 エイジロウ
  ・生没年 明治32年/1899年~昭和51年/1976年?
  ・出身地 大阪船場

 大朝家 〆駒だいちょうや しめこま

  ・本 名 富田 ?
  ・生没年 ??~1960年代
  ・出身地 東京?

 来 歴 

 五二郎は1899年(明治32年)大阪船場生れ。元々は脚本畑におり、作家の柳水性の門下で、富田百性と名乗る。小沢昭一の『私のための芸能野史』の聞書きが詳しいので引用する。

大朝家五二郎

明治三十二年生れ、七十三歳。大阪船場の生れ、最初は会社づとめの給仕をやって、あいまに小説ばかり読んでいたが、芝居の脚本が書きたくて、千日前の弥生座の柳水性という作者のところへ弟子入りして、新聞小説の脚色で十五円もらった。会社へつとめても月給十五円、それなら好きなことやろうというわけで作者を志す。以後作者名は富田百性。その後曽我廼家十吾の一座に入ったのがふり出しで、以後は喜劇畑の人となり、脚本も書けば役者もやるという二枚看板だったが、大正十五年、大阪にわかの名手、木村芝鶴の弟子になって、東京へ上って来た。ところがそのうちひどい痔を患って大阪へもどり一時芸界から身を引いていたが、やがてまた大和家宝楽の一座へ入って、でその頃、東京で名を上げた曽我廼家五九郎が巡業で大阪へ来たのでそれに加わり、役者も狂言方も頭取もやった。その後独立して曽我廼家五二郎一座を結成したが昭和七年以後は漫才に転向した。昭和十一年、漫才組合を結成するについてはこの人が中心になった。元来筆の立つ人だから、いま、東京の漫才史を執筆中だそうである。

(小沢昭一『私のための芸能野史』222、3頁)

 上の通り、喜劇に転向し、曾我廼家十吾や五九郎の役者兼作者をやりながら、旅巡業をしていたが、1932年ころ、妻の〆駒とコンビを組み、漫才師となる。〆駒の前歴はよく分かっていない。

 ただ、1932年以前よりナンセンス喜劇を主とした漫才劇のような事をやっていたそうで、漫才との関係はそれよりもう少し前にさかのぼれるかもしれない。

 喜劇的なセンスがモノを言ったのか、時事漫才、ニュース漫才を得意としており、当時は静家興行に所属していた。また、上流階級向けのお座敷漫才を得意とし、エロ噺や余芸などにも達者だったという。

 戦中は帝都漫才協会の会長として東京の漫才師をよくまとめ、漫才師の地位向上に着手した功績も見逃せない。

 1935年、帝都漫才組合創立に関与し、漫才師側の代表者として選出される。その時の会長は林家染団治。代表の仲間には朝日日出丸。玉子家源一、日本チャップリン、都家福丸などが居た。

 1940年、帝都漫才協会発足に際し、副会長に就任。小島貞二『漫才世相史』などでは、帝都漫才協会発足に際し、会長になった、という記載があるが、発足直後にまとめられた『レコード音楽技芸家銘鑑 昭和15年版』の記載では、千代田松緑、大道寺春之助と共に副会長扱いである(会長は同じく染団治)。

 間もなく改選して、会長に就任したと解釈すべきか。1943年の大日本漫才協会では東京支部長兼会長に就任。

 戦後一時期までお座敷漫才をやっていたが、後年、漫才から一線を退き、「東京芸能工社」なる芸能社を立てて、芸人の斡旋をしていた。

 岡本文弥『芸流し浮世流し』に掲載されたエッセイに、〆駒が先に亡くなったような書かれ方をした文章がある。

 〆駒没後は、小沢昭一の取材や東京大空襲の被災経験などに応える一方で、獅子舞などを時折披露していた。

 しかし、その晩年はあまり恵まれなかった模様で、松鶴家千代若は

養女にもらったのが、安孫子の方の大きな地所を全部売っちゃって五二郎さんに何もないようにしちゃった。

(小沢昭一取材「芸双書 ことほぐ」より)

 と回顧している。宮田章司氏も「娘は悪い人でね、五二郎さんの遺品を売り飛ばしたり、漫才についての原稿を全部燃やしちゃった。小島貞二が、それはない、って激怒していましたよ」。

 詳しい没年は不明であるが、宮田章司によると「俺らがコンビを解散した年頃(1975~6年)に亡くなったはず」だそうで、また1976年に高砂にあった極楽寺という寺から出された物故者名簿を見ると、その頃没か。

 〆駒も同じ名簿に出ているが、文化人名録などを見ると、五二郎より先に亡くなった模様である。

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