高井カクテル(カクテルショウ)

高井カクテル(カクテルショウ)

カクテル夫妻(メガネがカクテル。左が妻)

 人 物

 高井たかい カクテル
 ・本 名 石井 ?
 ・生没年 ??~戦後?
 ・出身地 ??

 来 歴

 石井カクテルは戦前の籠寅演芸部を中心に活躍した漫才師。元々は剣劇役者であったが、剣劇の衰退に伴い漫才師に転向。

「石井ジン・カクテル」のコンビになったが、ジンの出征に伴い、コンビを解消。妻や仲間たちを集って、「カクテルショー」を結成し、籠寅演芸部の舞台で活躍した。

 東京漫才か、上方漫才かで悩んだが、後述の番組に「関東方」として組み込まれていることを根拠に、東京漫才にカテゴライズした。

 その経歴は『都新聞』(1938年11月28日号)の「こんなのどうでショウ?小劇場のショウを覗く」に詳しい。一部を引用する。

 彼の本来の持藝といふのは、このショウ舞踊のほかにあるのである、既にこのカクテール君は漫才からの出だと言つたが、そのまた前身は、決してこの名が示すように、洋酒スタンドで混合酒の塩梅を見てゐた訳ではなくこれは一寸また意外の剣劇の出で彼はあの一頃浅草を剣で風靡した明石潮一座にあつて、松島隆弥といふチョイとした二枚目型の名で颯爽と剣を翳して、たゞし座長明石潮の役に斬ってかゝる方の役で活躍してゐたものなのです、それがその剣劇も、今や全盛の女剣劇に、聊か押され気味の秋に直面したので、嘗てはアコガレであつたその剣をサラリと棄て、漫才から、更に時流のショウマンに転向した譯なのである

 漫才転向後は、籠寅演芸部に所属し、「石井ジン・高井カクテル」のコンビで舞台に上がるようになった。

 1937年夏、石井ジンが出征してしまい、活動休止に追い込まれた。周りの勧めを受けて、妻を誘い、「カクテルショウ」を結成し、浅草の演芸場に出演するようになった。

 1938年11月28日、『都新聞』の特集「こんなのどうでショウ?小劇場のショウを覗く」に掲載される。当時の舞台ぶりが同誌に掲載されているので、少し引用しよう。

 これを助けるものに、糟糠の妻何子(プログラムには名前が出てゐません)があり、カクテール君が副座長格の妻君と先づ最初は漫才形式で、マイクロフォンに獅噛みついて立板に水以上の放送振りやら、ポパイやらを披露するとそこへ何子が出て来て、恋人同士の痴話喧嘩となり、挙句の果に何子クンは「妾は、妾の自殺記事を読んでから死にたい、アツ、口惜しい」などとやる、それからギター、アツコーデイオンその他等々七人までが出て来て却々に騒々しい舞台を展開するのだが、さてこれが一際階手に入つて来ると、今度は愈々剣劇まがひの一齣も或は入つて来るかも知らんらしいです

 ジンは1939年に一度復員をしたのか、カクテルショウに参加している様子が確認できる。

 1939年4月、南座の「籠寅演芸部時局漫才大会」に出演。『近代歌舞伎年表京都編』に、

四月十七日〜(二十六)日 正午 五時半二回開演 南座 籠寅演芸部時局まんざい大会

【出 演】関東側 轟スゝム・サノアケミ 永田繁子・女一休 吉原家〆吉・〆坊 唄の家成太郎・なり駒 端唄とん子・美代司 ピッコロシヨウ 永田一休・和尚 菊川時之助・ 大津検花奴 春風小柳・桂木東声 カクテルシヨウ(カクテル ジン ウイスキー ベルモット マンハッタ ウオツカ キユウラソ)
関西側 花柳糸吉・扇太郎 河内屋鶴枝・目玉 砂川政子・団春 中村種二・隅田川ちどり 柳屋喜久三・旭君勇 アクロバチックバー(シヅオ ヨシオ マサオ) 花廼家照駒・成駒 桜山梅夫・小夜子・源丸 中村春代・ 砂川捨丸

 1939年5月、『サンデー毎日』(1939年5月新作大衆文藝号)に、ジン・カクテル名義で「僕は水兵」を発表。これが数少なくコンビの芸風を知れる速記である。

 8月5日、「納涼名人演芸大会」に出演。

八月(五)日初日 毎夕六時開演 中座 納涼有名演芸大会
大阪にわか=三方ショウ 江戸生粋諸芸=巴家寅子、巴家小染 アクロバット=前川ススム兄弟 海老一曲芸 ラッパ吹奏・印度秘曲 郷土芸術=阿波盆踊り 俗曲=徳島富田町・お鯉 落語=立花家花橘、桂米團治、笑福亭松鶴 講談=旭堂南陵 漫才 柳家喜久三・旭君勇 旭タケシ・ミスワカミ カクテルショウ

 その後も籠寅演芸部の劇場に出演し、人気を博していたが、戦争でいつの間にか一線を退き、戦後籠寅の崩壊もあり、消息不明となる。

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