大空ヒット・東駒千代

大空ヒット・東駒千代

駒千代・ヒット(右)

慰問中の二人

 人 物

 大空おおぞら ヒット

 ・本 名 小深田 一生 

 ・生没年 1913年9月1日~1990年10月17日
 ・出身地 大分県 竹田市

 あずま 駒千代こまちよ
 ・本 名 杉山 千世子(千代)
 ・生没年 1905年頃~1960年代以降
 ・出身地 東京 下谷

 来 歴

 大空ヒット・東駒千代は戦前活躍した漫才師。東喜代駒門下の俊英で、浅草の劇場と松竹芸能の劇場を中心に大活躍を遂げた。

 大空ヒットは、「大空ヒット・三空ますみ」の項に、嫌というほど書いているので、そちらを見て欲しい。

 駒千代の経歴は、東喜代駒のページで書きそびれたのでここにまとめておくことにしよう。

 駒千代の出身は東京下谷。家は貧しく早くから働きに出されたという。『日刊ラヂオ新聞』(1929年7月9日号)に経歴が出ていた。これを引用してみよう。

 東喜代駒と萬歳を放送する駒千代さんは下谷生れの生粋の江戸ッ子、舞臺に立つて居る時はなか/\茶目ぶりを発揮して笑はせては居るが家に歸つては病父と母親弟妹を可愛い細腕でさゝへて行く親孝行者と評判、舞臺と反對に至つて内氣まるで別人の様な氣がする。喜代駒へ弟子入りしてから丸二年になるが相手役として申分ない、多趣味だが下町育ちだけことに踊り三味線が得意さうである

 親兄弟を養うために早く芸能界に入った模様。

 なお、年齢は、大空ヒットが喜代駒の会で発言したものから逆算。曰く、「古いたって私より八ツ年が上で、水谷八重子に似ていゝ女でしたね」(『東きよこまファン』第12号)との事である。ヒットが1913年生まれなので、8つ引けばいい。

 当初は、隆の家万龍、百々龍などを輩出したグループ、「隆の家連」にいた事が、小島貞二『大衆芸能資料集成』の中で触れられている。

また、『新演芸』(1947年6月号)掲載の喜代駒の回顧録によると、

其の内、相手の喜代志が都合でやめる事となり、又相手役に困つて居ると、丁度隆の家連(現在の万龍君、千龍君、百々龍君)の中にいた三味線ひきの女が、弟子入りに来たので、駒千代と名をつけ、看板をぬりかへて又お座敷へ、おもに出ていました。

 だったそうで、残された録音などを聞く限りでも、三味線や歌など何でもこなす芸達者な女性だった事を窺わせる。喜代駒の浪曲や流行歌を何でも弾きこなせた。これは後年のヒットの舞台でも活躍する事となる。

 1927年頃、喜代駒に入門。暫くは踊り子などをやっていたそうで、『都新聞』(1931年4月11日号)の『萬歳盛衰記』にも、

「駒千代はそれ以前は、やはり公園の各演藝場に出演していた。」

 とある。

 当時の記録などを見ると、1928年1月、師匠の喜代駒が相方の喜代志と別れたのを機にコンビを結成。駒千代と改称し、「喜代駒・駒千代」を結成。

 但し、『都新聞』(1930年4月11日号)には、

「斯うして相手役の度々變つた喜代駒は、昭和三年二月の浅草御園劇場出演の時から現在の駒千代と組むことになつた」

 とある。ややこしいったらありゃしない。

 1929年8月12日、『滑稽掛合』で喜代駒と共にラジオ出演。

 1930年6月8日『困つた代物』でラジオ出演。

 同年11月29日『赤穂事件』でラジオ出演。

 1930年、喜代駒は林家染團治と共に『尖端エロ萬歳』を出版。ここに喜代駒・駒千代の写真が収められている。

 1931年12月16日、JOAKより『カケ合ひ話・親父はダー』に出演。これは漫才劇のようなもので、喜代駒の娘も出演している。

 1932年4月8日、『金のなる國』に出演。「笑ひの爆弾投下」と冠され、娘のマツ子、弟子の駒千代、貞水(喜代駒の妻の弟か?)と共に、掛け合い、都々逸、浪曲などを織り交ぜた集団漫才を行った。この頃より後年の漫劇に近い活動をはじめるようになる。

この頃より「漫劇」を冠し始めたとみえて、同年8月8日、『人生いい加減な道』で「小唄マンゲキ」という演題を出し、同年12月10日、『いいぢゃありませんか』、「小唄漫劇」と名乗っている。この放送を機に、駒千代も本名の千世子と改名した。

 この頃、喜代駒漫劇一座の幹部として活躍。喜代駒の娘、喜美子とコンビらしいものを組んでいた事もあった。

 1937年1月、人気雑誌『キング』に漫才速記を掲載。

 1937年春、喜代駒から独立をし、有明月子と「オチャツピーコンビ」なるコンビを組んで、漫劇界に進出。『都新聞』(1937年4月10日号)に、

★ピエロの感傷 漫劇なんて名乗りをあげず、まだ東喜代駒が純然たる漫才だつた頃からよき女房役、今日までコンビをつゞけてきた東千世子、今度、喜代駒の手を離れて独立、有明月子とオチャツピーコンビといふのをこしらへて漫劇界に進出することになる、弟子の独立を喜んでやりながらも喜代駒、ひとりぼつちになつた自分の淋しさをしみ/\味はつて、柄にもなくこの所ひどくセンチ

 なる記載がある。

 ただ、喜代駒一門には出入りをしていたと見えて、1937年7月の『キング』にも喜美子との速記を出している。

 このコンビは間もなく別れ、1938年頃、喜代駒から、弟弟子にあたる大空ヒットを紹介され、コンビを結成。

 インテリ漫才風の掛合と、ヒットのハーモニカに合わせて駒千代が三味線を弾くというしゃべくり・音曲の両刃遣いで人気集めた。

 当初は吉本に出入りしていたが、契約でこじれて松竹に移籍。その後はずっと松竹に籍を置いていた。

 ヒットとのコンビは大変人気があったと見えて、東京の大舞台や京都の劇場にまで呼ばれるほどであったという。

 1934年2月末から数カ月、慰問に出ている。名簿が残っているので引用しよう。

「陸恤庶發第九四號 船舶便乗願之件申請」 昭和十四年二月二十日 

一、往航 昭和十四年二月二十七日神戸發(長江丸)塘沽行 
一、復航 〃 四月中旬塘沽發、神戸行

慰問團氏名(十名) 

藝 名         本 名    年 齢    住 所
漫 才    大空ヒット  小深田一生  二十六才  浅草區田島町八四 
 〃     東駒千代   杉山千代   三十五才  下谷區入谷町三八七 
落 語    三遊亭圓雀  小川正二   四十四才  浅草區田島町七二 
浪 曲    廣澤右衛門  小嶋美土五郎 四十一才  下谷區茅町二ノ二九 
三味線    小嶋スマ子  小嶋スマ子  三十三才   同 
歌謡曲    羽衣歌子   太田ぬい   三十六才  足立區千住町四ノ九一 
歌謡曲ト舞踊 瀧美鈴    上坂歌子   二十五才  淀橋區戸塚一ノ六八 
舞 踊    松本佐都子  今井千恵   二十二才  浅草區田島町一一 
アコーデオン 白崎欣也   白崎實    三十六才  浅草區松葉町五八 
斎藤守    三十一才  麹町區飯田町二ノ九ノ一

 廣澤右衛門とは、戦後悪声と滑稽浪曲で人気を集めた廣澤瓢右衛門の誤記である。

 その慰問の折にもいろいろ逸話があったという。以下は、当時『都新聞』に掲載されたゴシップの抜粋。

★漫才も顔負け 皇軍慰問で戦地へ行つてゐる漫才の大空ヒットと東駒千代、これまであんまり慰問隊の行かない山西方面へ是非やつてもらひたいと軍へ願ひ出たところ、早速許可となつて、ではこの十二日に慰問演藝をやつてくれ、但し十二日以外の日では困るゾ、とある、駒千代女史、十二日以外はどうしていけないのでございます?と訊くと、サンシー十二日だからさ、にヒットと駒千代顔見合せて、此邉の兵隊さんは漫才はだしだ

(1939年4月20日号)

★駒千代の注射 皇軍慰問の旅から帰るとトタンに松竹専属になつた東駒千代、大空ヒットのコンビ、それ浅草、それ来月は大阪と、疲れを休めるどころか客先へ挨拶にも廻れず、さすがに女だけに駒千代など、ヘト/\になつて目方が八百目も減つた有様、慰問旅行中に大患ひをしたのがいまだに本復せず、毎日注射をしてゐるが、その注射は、なんと心臓を強くする注射なので大空が、この上強くなられてはとてもやりきれせん

(同年5月19日号)

★あらし山漫才  大空ヒットと東駒千代の漫才コンビが嵐山へ行く、京都は初めての駒千代が、まあ、随分賑かですこと、どうしてこんなに賑かな山を嵐山と云ふんでせう……?と大真面目の質問にヒットが、昔は嵐山だつたが、近頃は都會人が来て荒すので荒し山と改名してゐます、はそっくり漫才 

(同年7月2日号)

ハーモニカ漫才の大空ヒットは双葉山と同県人でしかも年も同じ二十九歳だが、このヒットが此間双葉山の座敷に呼ばれ、帰りに双葉山と連れ立つて外へ出たが、片方は堂々たる天下の横綱、片方は細くて小粒、これをうしろから見た東駒千代が、同じ年におなじ土地で産湯を使ひながらどうして斯うも出来が違ふのかしら……

『都新聞』(1941年3月11日号)

 1941年頃、結婚のためにヒットとのコンビ解消。ヒットは玉松次郎や大和家かほるとコンビを組み直した。戦後、三空ますみとコンビを組んで一世を風靡したのは言わずもがな。

 一方、駒千代は結婚のために一旦舞台を退いたが、間もなく復帰し、喜代駒の一座に出入りする傍ら漫才を続投。結婚相手は兵隊漫才の松川洋二郎だったという。

 その関係かどうかわからないが、松川洋二郎は大空ヒットや大和家かほるの番頭をしていた。

 戦時中は玉子家源一、1943年頃には花園一奴という芸人とコンビを組んでいた。

 帝都漫才協会では松川洋二郎と同居している扱いで登録されている。

 敗戦時には玉子家源一とコンビを組んでいた。それもしばらくして別れたという。

 戦後も喜代駒一座の漫劇などに出演を続け、昭和30年代まで喜代駒の下に出入りしていたそうである。

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