ミュージカルぼーいず

ミュージカルぼーいず

左から富井・志村・小原
(桂文雀氏提供)

 人 物

 志村しむら としお
 ・本 名 志倉 敏之
 ・生没年 1931年2月3日~1994年11月18日
 ・出身地 青森?(横浜育ち)

 富井とみい トシ
 ・本 名 平田 正治
 ・生没年 1930年4月~?
 ・出身地 横浜市

 小原おはら しょう太
 ・本 名 鈴木 英明
 ・生没年 1930年11月~?
 ・出身地 岩手県

 来 歴

 ミュージカルぼーいずは戦後活躍した歌謡漫談グループ。シャンソンと時事ネタを織り込んだ独特の歌謡漫談、確かな歌唱力で演芸ブーム時代の一時代を築いた。リーダー・志村はクリエイターの志倉富士丸・千代丸兄弟の父としても知られる。

 三人の経歴は『歌謡漫談読本』に詳しい。まずここから引用してみよう。

「お笑い週刊誌」という、いわゆるスジものから脱皮した一つのスタイルを打ち出し、スピードとニュース性のあるコントをおし込み、使用する曲はすべて、そのときラジオなどの人気投票の上位のものをアレンジしてコーラスにしているのはいい。都会的なセンスにあふれ、サラリーマンや学生層に人気がある……とある先生がほめてくださった。ボクたちのねらいもそこにある。大変うれしいです。
 志村としを(サイド・ギター)、小原しょう太(メロディオン)、富井トシ(電気ギター)のトリオでやってますが、三人とも同じ年(いくつかってきくことはないでしょう)すごく気が合い、ウマが合ってます。
 結成は昭和三十五年の七月ですが、三人ともキャリアはかなりあります。志村はハナハナ・ボーイズ(渋谷さんのところ)出身、小原はハッタリーズ(辻さんのところ)の出身、富井はカワッタ・トリオ(今はない)の出身です。
 その前はというと(あまり書きたくはないが)志村が元プロボクサー。横浜のあるジムでフライ級のホープ(?)だったこともあります。いまはすっかりへビイ級になっちまったが、運動神経はワリにある方です。二十八年にキング・レコードから歌手に転向して芸界入り。小原は岩手県のある中学校の音楽の先生で、あまり音楽会ばかりに熱心すぎるとPTAから苦情が出てやめた。富井は学校で応用化学を専攻していたというだけに、物静かなことが性に合うようだ。ニックネームの「ハッちゃん」は、春日八郎に似ているのと、鼻のそばにハの字のシワがあるのと両方。
 目下の三人の合言葉。それは「更に、 ガンバロウぜ!」

 志村は横浜育ちを自称したが、当時の雑誌(例・『週刊平凡』1974年4月25日号)などには「青森生れ、横浜育ち」とある。「育った」という意味を踏まえると、横浜生まれでもいいのではないだろうか。

 少年時代のほとんどを戦争で過ごし、学徒動員や空襲に振り回されたという。

 終戦後は学校へ通う傍ら、運送屋みたいな事をやっていたらしい。『主婦と生活』(1979年5月号)『パパと楽しむレジャー工作』に――

古い話になりますが、終戦のころ、ボクは横浜にいて大工さんの下で材料を運んだりする下職のようなことをやってまして。それで、毎日、大工仕事を見るにつけ、いつかは自分でもやりたいな、とおもっていたわけで。

 とある。また、道路工夫、バンドボーイ、クラブのボーイなど様々なバイトをしながら生計を立てていたようである。

 学校卒業後、通信仕になるべく電気学校に進学したが、「歌手になりたい」と夢を持つようになった。歌謡学院をまわる日々が続くが、学費が工面できない。

 さらに、戦後勃興したボクシングにも興味を覚え、近所にジムができた事もあって入門。その体格の良さを見込まれ、ボクサーとなって賞金稼ぎに勤しむようになった。

 当人は「フライ級の四回戦ボーイ」と自慢していたようで、3戦2勝とも4戦3勝ともいわれる戦歴を残しているが「殴られて骨を折ったため」に引退したとも、「当時デキていた彼女に変な姿を見せたくない」からやめたともいう。

 ボクサー廃業後も色々とバイトを重ねながら、歌手の道を目指した。どういうわけか、新劇劇団文芸劇場に所属し、俳優として舞台に立っていた事もある。

 その後、念願のキング歌謡学院に入学。1953年にはキングレコードに入社して新人歌手となったという。

 しかし、その後が鳴かず飛ばずであり、演芸会や歌謡ショーの前座ばかりつとめていた。当時、キャバレーが勃興し、歌謡漫談が再興した事もあり、「ホットボーイズ」なるグループに入ったがすぐにやめてしまった。

 その後、歌謡ショーやキャバレーで派手に稼いでいた歌謡漫談グループ「ハナハナ・コロンボ・グループ」に誘われ、その一員となる。そこでお笑いと演奏技術を磨いたという。

 このハナハナ・コロンボ・グループは、1946年に花野カオル、並木ジロウ、渋谷ミノル、井上タツオによって結成された「ハナハナ・ボーイズ」に端を発している。灰田勝彦に認められ、灰田一座の興行に参加したが、1955年に花野が死去。

 その後、渋谷ミノルがリーダーとなり、「ハナハナ・コロンボ・グループ」と改名。1963年に渋谷が独立するまでの間、歌謡漫談グループの古株として活動していた。

 歌謡漫談グループを転々としている所で、ハッタリーズをぬけた小原しょう太と出会い、コンビを結成。流しをしていた南州太郎を引き入れて「ミュージカルぼーいず」を結成した。

 しかし、南州太郎はあくまでも臨時だったようですぐさま富井トシと交代。1960年7月に正式にトリオを結成した。

 ただ、1961年正月の浅草松竹演芸場のパンフでは「ユニークなコメディアン志村としををリーダーに、アコーデオンの小原しょう太、バンジョ片手に岩下ふじをのユーモアトリオ」とあってややこしい。

 相方の富井トシ、小原しょう太は謎が多い。

 富井トシは横浜の生まれで、平塚工業高校に通って理学を習っていたというインテリであった。当人は雑誌などで「フラスコをにらむ研究生時代」などと語っている。

 しかし、学者よりも芸人が好きで、歌謡漫談グループ「カワッタトリオ」に参加。芸人になってしまった。「富井トシ」はジャズマン「トミー・ドーシー」から着想を得てつけた名前らしい。

 カワッタトリオはハワイ音楽を入れて人気のあったグループであるが、1960年頃に解散している。

 一方の小原しょう太は岩手県の生まれ。『週刊平凡』(1974年4月25日号)によると、「由緒ある岩手の城主のセガレ」との由。実家は公務員でなかなかの名家であった。

「城主のセガレ」は嘘にせよ、岩手には「小屋瀬鈴木家」という名家があり、この一族の出かも知れない。今日風に言えばサンドイッチマンの伊達みきおが伊達政宗の子孫と名乗る様なものであろう。

 幼い頃から音楽が好きで、楽器を鳴らし、唄ばかり唄っていた。地元の学校を出たあと、上京して東邦音楽短大に入学。教員免許を取得して岩手に戻り、しばらくの間、教員をしていた。

 当人は「授業をロクにやらず歌ばかりやっていたから」と自嘲気味に語っていたが、「田舎の一教師で終るよりも音楽で世に出たい」と思う所があったのではないか。

 岩手から再び飛び出した彼は、当時売り出しの「辻ひろしとバヨリン・ハッタリーズ」に所属。ここで芸能界の手ほどきを受けた。

「小原しょう太」の名前は東北の偉人(?)である「小原庄助」からとったものであるらしい。

 ハッタリーズに数年所属したのち、志村と出会ってコンビを結成。さらに富井を入れて「ミュージカルぼーいず」を結成した。

 当人たちは「流行歌や時事ネタを新鮮なコントと歌とで紡ぐ」事をモットーとしており、「お笑い週刊誌」「唄の新聞」などと名乗った。

 テーマソングはシャンソン『幸福を売る男』で、「心に歌を投げかけ歩く 僕ら町の幸せ売りよ 楽しい歌如何がです 夢を立てて運ぶ~」というものであった。

 一方、それ以前には「さあさみんなで唄おうよ さあさみんなで笑いましょ ミュージカル(ミュージカル・ミュージカル)ミュージカル・ぼーいずです!」とコーラス調で唄うテーマ曲もあった。

 当時は芝居風のネタが多かった歌謡漫談界隈において、時事ネタや流行歌をブリッジして演じる歌謡漫談は非常に斬新で大受けであった。

 志村は巨漢の上に少ない髪を前で留めた独特のヘアースタイルをしており、「白かば」「白豚」と他の二人からネタにされまくった。一方、志村も相手をスリッパでどついたり、イカサマ外国語で煙に巻いたり、と応戦した。

 1960年代より始まった演芸ブームではビックウェーブに乗り、一躍名声を獲得した。「大正テレビ寄席」などでは常連で、山下武も相応の評価を送っている。

 1965年、ボーイズ協会の結成に携わり、初期メンバーとして名を連ねた。

 1966年、志村は妻との間に長男を授かった。どういうわけか「志倉富士丸」と凄まじい名前を付けて養育した。これが今の「富士丸翔」である。

 1969年より放映されたアニメ「もーれつア太郎」の挿入歌「ココロのウエスタン」「ケイコタンのラブコール」を担当。

 1970年には、二男が誕生。この子には「千代丸」とつけた。今もドワンゴの重役でありマルチクリエイターとして知られる「志倉千代丸」はこの人である。

 ちなみに千代丸はこの命名を呆れているようで、「父親は敏之。完全に裏切り者ですよね。敏之丸にしろとwと呟いていたりする。

 この頃、富井トシが脱退。一度望月けん一氏に聞いた時には「富井さんはドロンしてこなくなった」と言っていたがどうなのか。

 穴埋めにコメディアン・海野かつをを加入させて「第二次ミュージカルぼーいず」を発足したが、海野はまもなく病に倒れ、これもダメ。

 1973年1月頃、ドンキーカルテットをぬけた祝勝を招いてトリオ再結成。『週刊平凡』(1974年4月25日号)に「トリオに入って1年3カ月……」とあるので、ここから逆算した。

 1974年、「雨の出逢い橋」を発表して歌手としてデビュー。NHKのオーディションにも出演し、1位突破でちょっとした話題にもなった。

 同年4月には新栄プロに移籍。

 1975年、一軒家へ引越。トイレ、台所、マントルピース、物干し、風呂場と次々と自分好みのスタイルに改築し、話題となった。

 この頃、小原しょう太、祝勝が脱退。小原は円満離脱だったそうで、望月氏曰く「小原さんは店をもつっていうので離脱しました。師匠(志村)も花輪とか送ってました」との由。

 二人の離脱後は、弟子分の望月けん一、木戸番平を加入させた。ただ木戸はすぐに脱退しているため、ジャンボ具志けんを加入させている。

 1977年頃、娘の美由姫が誕生。

 1978年、志村、望月、ジャンボの三人体制となる。この頃に人力舎へ移籍している。

 多くのグループが歌謡漫談を廃業する中で、老舗のグループとして活躍。相変わらず堅実な人気を集めていた。

 1981年にはレコード「これでいいのネ」を発売し、歌手としても健在ぶりを発揮した。

 1989年、望月けん一が歌手に戻ったために脱退。具志けんの兄、及川ちかしを加入させ、最後のミュージカルぼーいずとなった。

 1989年頃、ボーイズ協会の改選に伴い、委員に就任。

 1991年頃、理事長に就任。以来、ボーイズ協会の大幹部となった。

 最晩年まで舞台に出てカクシャクとしていたが、1994年11月、仕事先の北海道で倒れたらしく、そのまま同地の病院で息を引き取った。『芸能』(1995年3月号)に――

 志村としお(しむら・としお、〈本名・志倉敏之=しくら・としゆき=歌謡漫談家、ボーイズバラエティ協会理事長〉)18日午後11時45分、肝不全のため北海道函館市の病院で死去、63歳。

 とある。リーダーに死なれた及川兄弟は、岡本圭司率いる「中小企業楽団 バラクーダ」に参加し、今に至る。

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