前田勝之助・隆の家百々龍

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

前田勝之助・隆の家百々龍

勝之助(上)・百々龍(下)

 人 物

 前田まえだ 勝之助かつのすけ

 ・本 名 前田 勝之助
 ・生没年 1909年11月1日~1998年11月5日
 ・出身地 栃木県足利市

 たか 百々龍ももりゅう

 ・本 名 前田 徳ノ
 ・生没年 1915年~1960年1月8日
 ・出身地 新潟?

 来 歴

 節真似で戦後の放送の人気を総なめし、一世を風靡した前田勝之助も元を辿れば漫才の出身であった(更に元を辿ると八木節に至るのだが)。勝之助の漫才転向は早く、喜代駒、染団治に次ぐ存在であるといってもいいのかもしれない。が、この人も、都家かつ江と同じように、漫才時代よりも後年の節真似の資料の方が多かったりする。

 戦後の動向を詳しく書きたいのも山々であるが、節真似だけに始終して書くと研究の趣旨に反するので、ここでは「漫才師・前田勝之助」として、その生涯や芸風を書き綴ることにしよう。

 ・漫才以前

  勝之助の前歴は芝清之の労作である「東西浪曲大名鑑」に詳しい。彼のプロフィールだけならば、これだけ足りる。少し長くなるが、実によく書けているので、経歴を引用しよう。

前田勝之助

 栃木県足利市の出身。彼は大正5年まで栃木にいたが、その年に一家をあげて上京した。彼の父親は都勇勝という故郷にいた頃からの八木節の演者で、初代堀越源太とは兄弟分であったという。だから彼は5~6歳頃から習うともなく八木節を会得して、上京した頃にはいっぱしの音頭とりになっていた。父親の家は祖父の代から機織をしていたが、都勇勝が道楽に身をやつしたため、その弟に家督をゆずって上京したのである。
 上京した彼は、翌大正6年に浅草の御園座に父と共に出演して八木節を演じた。まだ8歳の少年が大人たちに交じって唄うその美声に聴衆はヤンヤの喝采で迎えた。
 翌7年に″落語東西会″が万世館で行われたときに、色ものとしてこの中に出演したのが八木節の初代堀越源太で、この頃の色ものの世界には、初代江戸家猫八、掛合(万才)のウグイス、チャップリン、三人こっけいの寿家岩てこなどという、今ではヨダレの垂れそうな巧者の連中が落語の席にハマっていた。その中の一人八木節源太が出演していた万世館で、たまたま源太が声を痛め、出演できないときに、源太の替りに彼が抜てきされて出演した。これが縁で″堀越小源太″の芸名を許され倅分として扱われた。
 父親は百名近い座員を連れて各地の巡業に忙しかった。東京の留守宅は小源太が経済的にめんどうをみて母と二人で暮らしていたという。源太の許には2年間世話になった小源太は、その後父と共に巡業に加わり福井県の敦賀で大正12年の大震災に会っている。震災3ヶ月目に上京したが、各地の寄席は焼失して仕事はなく、やむなく父と吉原や洲崎の街を流して歩いた。が、さしも隆盛を誇った八木節も、大震災を境に急激に衰えはじめ、安来節がこれに替った。そこで世の移り変りにめざとい小源太は、広島に安来節を演らせたら渡辺お糸も舌を巻くという”小松”という半玉のいる事を耳にして、同12年10月広島に飛んだ。そして小松の許で本格的に安来節を会得した。また彼は少年時代から、父の歌う浪曲に興味をもっていたので、安来節のアンコに雲月節の”神崎東下り”を入れて新工夫を図った。
 安来節小源太の名声は冨に上っていったが、安来節のブームもまた日を追って下り坂となり、同14年に彼は漫才に転向。

(芝清之「東西浪曲大名鑑」 41頁)

 基本的にこれで十分といった所であるが、『著作権台帳』などには、

前田勝之助 足利市市山辺小学校卒業

(「著作権台帳」第十版)

 という記載があって、混乱が生じている。当時は尋常小学校中退という人も多々居た事は事実であるのが、そうだとしても何故「小学校卒業」などと書いたのかわからない。

 百々龍は隆の家万龍の実妹で、幼い頃より、万龍・千龍・百々龍の女道楽や舞踊で鳴らした子飼いの芸人である。年齢はサバを読んでいる可能性があるので、鵜呑みが出来ないものの、「1936年時点で21歳」という記載が、『都新聞』(1936年11月5号)にある。

 10歳になるかどうかで姉婿の東家燕左衛門に師事。浪曲の修業を始め、「東家山子」と名乗る。姉二人も「燕女」(万龍)、「燕奴」(千龍)と名乗っていた。燕左衛門は千龍の旦那であろう。因みに万龍の旦那は豊年斎梅坊主の弟子である。

 この頃は、浪曲と女道楽を中心としたバラエティー一座だったらしく、1926年には早くも東京に進出を果たしている。以下はその時の広告。

▲研究座 六日より五日間演藝と浪花節一座に安来節隆の家万龍、千龍、百々龍一行加入

『都新聞』同年10月8日号

 15歳で漫才に転向し、義母の小幡小圓から手ほどきを受ける傍ら、隆の家連でも活躍していた。

 ・漫才以後

 1928年、「小源太・百々龍」として漫才師デビュー。ただ、15歳というのは、数え年の可能性がある。

 後年結婚して、1931年に浅草三遊館で「前田勝之助・隆の家百々龍」と改名。以降、浪曲漫才として活躍する。美声で男っぷりのいい勝之助と芸達者な百々龍のバランスの取れた漫才は人気を博した。また、勝之助は余藝として、バイオリンが弾けた、と遺族より伺った事がある。

 特に節真似は勝之助の十八番で虎造、綾太郎、勝太郎等、レパートリーは広かった。後年、百々龍が漫才を嫌がるようになり、浪曲物真似に転向。彼女は陰で三味線伴奏をする曲師となった。

 戦後一時期、疎開先である田舎に引っ込んでいたものの、放送や舞台の復興と共に復帰。ラジオを中心に人気を集めていたが、1954年に百々龍が倒れ、活動休止。勝之助は若手の斎藤尚子(本名・前田なを 1932年1月18日~ご健在? 東京生まれ)を起用して、舞台や「浪曲天狗道場」の審査員などを勤めていた。

 闘病の末、百々龍は亡くなり、勝之助は斎藤尚子と再婚。節真似の実演を行う傍ら、東京演芸協会の会長に就任し、芸人の結束を図った。ただ、その反面、頑固な振る舞いや権力的な態度で、演芸協会内でも不満があったという。大空かんだの入会拒否などは、その最たるものであろう(同業者という理由で拒否した、という)。

 老いてなお矍鑠とし、浪曲が衰退した後も、節真似一本で愛嬌を振りまいていたが、1989年に脳溢血に倒れ、一線を退いた。

 その後は、闘病生活の日々を過ごし、1998年、数えの90歳であの世へ旅立った。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加