英伊佐男・川畑やなぎ

英 伊佐男・川畑 やなぎ

 

 人 物

 はなぶさ 伊佐男いさお
 ・本 名 山口 勝利
 ・生没年 ??~没?
 ・出身地 福島県

 川畑かわばた やなぎ
 ・本 名 山口 キン
 ・生没年 ??〜没?
 ・出身地 ??

 来 歴

 戦前活躍した漫才師。伊佐男は奇人として知られ、室町京之介が面白おかしく書いた新聞記事が残っている。なお、二人は夫婦であった。

 両人とも経歴はほとんど不明。後述の記事にあるように、伊佐男は「福島県」の生まれだという。それくらいしか判らない。

 戦前は主に浅草、戦時中は軍事慰問で活躍した。刑務所慰問に出かけた際、囚人服を土産に持って帰ってきた、という伝説が伊佐男に残っている。

『内外タイムス』(1952年10月23日号)掲載の室町京之介『漫才千夜一夜⑥』にその話が出ているので引用。

 蒙古に行った英伊佐男は、福島県の出身だが、東京部隊の慰問団長として活躍し、また玉砕寸前の硫黄島にも出かけたことがある。その彼がある刑務所慰問団の一行に加わって行ったことがある。勿論戦争中のことで、衣類はスフ全盛の統制のきびしい時代であった。純綿といえば兵隊の軍服と囚人の衣類位のもので、純綿がダイヤモンドの如く貴かった頃のことである。幕間が終って、昼飯をご馳走になったが、
「只今差上げましたご飯は、南瓜ご飯でありまして、南瓜は収容者たちが、食糧増産の一助にと、所内の庭で作ったものであります。収容者達が皆さんに一個ずつでも差上げてくれとと申しておりますから、お帰りに一個ずつ下げて行ってください」
 と所長さんから南瓜を一個ずつ貰った。
 当時としては、南瓜一個でもなか/\貴重だった。
「所長さん、此処の人たちが着ているのは純綿ですか、非常に丈夫そうですね」
「は、皆純綿でして、なか/\丈夫に出来ております」
「如何でしょう。一枚いただけませんか」
「あんな物ご入用ですか。何かの参考になるでしょうね。差上げましょう。ですが、外出の際には着ないように」
「有難うございます。外では決して着ませんーー」
 所長さんから、作業服のような、上衣とスボンになった赤地の服をもらったのは英伊佐男であった。
「純綿やで……。凄いやないか。君達は要らんのか、皆もらえよ」
 同僚はみな手を振った。囚人服を欲しがったのは、天下広しといえども英伊佐男と落語の鈴々舎馬風の二人位であろうと、今でも語り草になっている。

 1943年の帝都漫才協会には参加して第六部の幹部に就任している様子が、名簿から名前を確認することができる。以下はその同部幹部たち。

 第六部 静川徳三郎 菊野ノボル 大正坊主 吉田元春 英伊佐男

 1945年、敗戦末期にもかかわらず、英伊佐男は、慰問団団長として十五人の座員とともに満州へ派遣される。作家の瀬戸口寅雄が引率で、座員には戦後まで活躍した曲独楽の富士幸三郎・月子夫婦がいた。

 同年8月、ソ連軍の宣戦布告により、張家口に取り残された。現地ではソ連軍やゲリラに備えて、竹槍を持って自警団を編成した――『政界往来』(1973年7月号)掲載の瀬戸口寅雄『戦争と大和撫子』にある。

 瀬戸口によると「夜中に、川端やなぎと富士廼家月子の二人が、亭主のおやつをもって、自警団本部にやって来た。二人共、亭主の相手をつとめる芸人で、二人共三味線や唄がうまかった。」という。

 1945年8月15日、玉音放送を聞き、敗戦を知る。その時の様子が、『戦争と大和撫子』(172〜184頁)のクライマックスになっているので、そのまま引用する。

 若い将校が泣きながら

 ボロボロと涙が流れた。蒙古まで来たのは、戦争に勝つためではなかったのか。芸能人たちはどうしているだろう。急に、皆に会いたくなって来た。
 昨日、山際理事長夫人由季乃さまに貰ったホワイト・ホウスと云う外国製のウヰスキーを持って、日本旅館を出た。中山東路を、軍人が歩いている。若い将校が三人、軍刀を引きずり、大声で泣きながら歩いて行った。
 官吏会館に行くと、芸人たちは一室に集っていた。団長の山口勝利は、私の手をしっかり握りしめて、云った。
「これからどうなるか、それは分りません。皆で相談したのですが、死ぬも生きるも、あなたと一緒に行動する事に決めました」
「明日のことは判らないけれど、元気で、日本に帰って行こうじゃないか」
 女たちは、声を出して泣いていた。
 由季乃夫人に貰った百万円が助かる。ホワイト・ホウスを出して皆で飲んだ。富士廼家月子が、ウヰスキーを所望した。ウヰスキーでも飲まなくては、やり切れなかったのだろう。亭主の富士廼家幸三郎が、揮毫帖を出して来た。
「これはもう、要らなくなったーー」
 慰問するたびに、部隊長に書いて貰った揮毫帖を、庭のまん中に出して、焼きはじめた。煙いのか、悲しいのか、あいつも、こいつも、ポロポロ涙を流していた。
 かくて、芸劇奉公団の慰問は終った。早くも、張作儀将軍麾下の軍隊が、大同に進駐、張家口の在留日本人に対する総引揚が決行されるのである。

 また、『政界往来』(1982年新年号)瀬戸口寅雄『大衆演劇の父と女剣劇』に、東京都慰問団のメンバーが出ていた。

 以下はその引用。

 慰問団団長 平岡斗南夫
 司 会 者 山口勝利
 漫   才 川畑やなぎ
 落   語 鈴々舎馬風
(又は三遊亭円楽)

 漫才と独楽 富士廼家幸三郎 富士廼家月子
 舞   踊 平岡斗南夫
       志賀美也子

 浪   曲 東家天一坊 
 三 味 線 梅野
 歌 謡 曲 キング 大仲順子
       ポリード 布田鈴子
       アコーデオン 谷三郎
       ギター 山村金治

 この後、帰国した模様であるが、消息を絶つ。廃業した模様か。

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