竹の家雀右衛門・小糸

竹の家雀右衛門・小糸

雀右衛門(左)・小糸(右)

  人 物

  たけ 雀右衛門じゃくえもん
 ・本 名 島 源次郎
 ・生没年 1891年12月12日~1978年時点では健在
 ・出身地 ??

  たけ 小糸こいと
 ・本 名 島 やえ(旧姓・中林)
 ・生没年 1893年8月20日~1978年時点では健在
 ・出身地 ??

 来 歴

 東京の漫才師でも古株の一人。上にあげた写真のような珍芸で、その名をとどめ、談志や色川武大の著作の中に登場している、なんとも不思議な存在である。しかも、漫才ブームの頃まで健在だったというのだから、中々息の長い存在だったらしい。

漫才以前

 生年月日は『演芸人関東軍慰問ノ件 陸満普第七七〇号』(1934年5月12日)から割り出した。

漫藝萬歳 竹の家雀右衛門事 島源次郎 明治二十四年十二月十二日生
  仝  竹の家小糸事   中林ヤヱ 明治二十六年八月二十日生

 雀右衛門の人生はなかなか壮絶である。『都新聞』(八月十四、十五日号)に掲載された「漫才銘々傳」に詳しい。その概略は以下の通りである。

 雀右衛門は嵐紅若という旅回りの役者で、本人も若三郎という名で子役をやっていたという。
 16歳の時に名古屋へ行き、西川扇女より日本舞踊をみっちりと仕込まれ、舞踊家として育てられた。
 23歳の時に噺家に転向し、桂文治(七世)や桂団助を師事し、桂都雀と名乗ったが、芸妓と九州へ駆落ち事件を起こし、あえなく破門。
 下関で弁士や役者の真似事で糊口を凌いでいる所、周りの勧めで幇間に転向。当地で人気を集めたがまた芸妓関係の事件を起こし、大阪へ戻った。
 帰阪後、破門を許された都雀は、講談の神田伯山や橘家円太郎の誘いで東京の寄席にも出られるようになった。
 二度目の上京で、喜劇役者に転向。この時出会ったのが樺太で弁士をやっていた大道寺春之助

 北海道を巡業したものの、莫大な借金を背負う事となり、辛酸を舐めた。踊りの師匠をしながら、借金を返済し、樺太、札幌、岩内、小樽と転々とした後、喜劇に見切りをつけ、漫才に転向した。

 落語のほうでは七代目の橘家円蔵や古今亭志ん生が転々とした人生を送ったといわれるが、それ以上のものがある。

 なお、北海道巡業の折に出会ったのが、当時樺太で弁士をやっていた大道寺春之助で、彼を漫才に引き入れたのは雀右衛門のせいでもある。

 また、波多野栄一は、

竹の家小糸 雀右衛門

根は古い落語家で踊りも踊り目下は一人で気まぐれに奇術などをやっている

 と、『寄席といろもの』の中で記している。

東京漫才の一員に

 雀右衛門は転々とした人生を過ごした後、喜劇に見切りをつけ、妻の小糸とコンビを組んで漫才に転向。小糸も「藤村富士弥」と名乗る舞踊家で、定まらない夫をよく支えた貞女である。

 漫才に転向したのは、1931年頃で、『都新聞』(1932年1月10日号)の広告に、

▲諸演藝會 十一日より五日間神田喜楽に、出演者は、 喜代楽、愛子、小雀、雀右衛門、九州男、米奴、小源太、百々龍、花美秀會美人連、正夫、天外、亀次、宝楽

 とある。関西で活躍した竹の家喜雀と瓜二つの芸名を名乗っているが、関係は不明。

 以来、浅草の義太夫座をホームグラウンドにして、活躍。東京漫才が花開いた後も、浅草で淡々と舞台を勤めていた。

 以下の画像は1935年8月に行われた漫才大会の広告である。

  また、他の新聞には「舞踊漫才 竹乃家雀右衛門 小糸」とある。1935年時点で看板の一組になっている所を見ると、漫才師になったのは、もう少し前という推測も立とうか。

 名前からわかるように、しゃべくりやギャグの面白さで魅せる「漫才」というよりかは、多種多彩な芸百般を見せる古風な「万才」を得意としていた模様である。詳しくは芸風の所で述べる。

 その後は主に松竹系の漫才大会や浅草を中心とした活動を見せていた模様。所謂、浅草漫才の一員であったとでもいうべきか。

 当時の事を、色川武大は、『寄席放浪記』の中で、

色川 思い出さないなア。中村目玉・玉千代というのがいたね。浪曲漫才だ。これ、よかった。
立川 それから、顔じゅうキセルをぶら下げる竹の家雀右衛門。
色川 ああ、いたいた。雀という字を書くのね。それで、ポロポロッと落っことす。ぼやいてばかりいてね、これが面白かった。

 と、やはりキセルの珍芸について言及している。また、対談者である立川談志もこの芸を見たという事を考えると、戦後の一時期までは舞台に出ていた模様か。

 1940年11月17日に娘・初美を授かっている。

 戦中は満州に居たらしく、坂野比呂志『香具師の口上でしゃべろうか』の中にも、

 ところが世の中よくしたもんで、天津の花柳界、曙町というんだが、ここに寄席にいたんで知って いた雀右衛門という男芸者、幇間だね、だからしょせんは桜川とか揚羽家とかいうんだろうけど、これがタベ天井の落ちるまで見てたってんだ。 「天井が落ちてお気の毒です。でもこうなったら、わたしがお座敷を世話するよ」 で、全員幇間に転向だ。たいこもちったって、狸じゃあるまいし、腹太鼓を叩くわけじゃないよ。客の気に入るように、主として話芸さ。これを俗にヨイショするという。これは俺はうまいからねえ。俺はヨイショに徹したよ。この雀右衛門は終戦後日本に帰って漫才をやってたがどうしたかねえ。

 とある。その関係から、大日本漫才協会には所属していなかったようで、名簿に名前がない。

お気楽お座敷漫才師

 しかし、舞台を中心に活躍していた期間はあまり長くはなかったようで、敗戦以降は珍芸や奇術、音曲などの芸を魅せるお座敷漫才へと移行した模様である。そのためか、戦後どのような活動をして、どういう寄席や放送に出演したかはよく分かっていない。

 その裏付けとなる資料として、写真雑誌『サングラフ』(1955年9月号)の中で取り上げられた特集を挙げておこう。

親と子の珍芸くらべ

口上……あんまりお目にかかれぬキセルの曲芸。むずかしいというよりは、バカバカしくてやる人がないから珍しいという事になりまする。一本一本と顔の皮につりさげまして、また一本一本と落して行きまする、首尾よくまいりましたらおなぐさみ……
とチャンチキ、チャンチキにぎやかな三味線入り。東京駒込の竹の家一族は、いずれも古代芸がお好きとあって、ご主人の雀右衛門さんが『キセルの顔の曲芸』娘の初美さんが『一本歯、扇の松づくし』奥さんが三味線や太鼓の伴奏をつけるといったにぎやかさ。このほかぬいぐるみの象をひっかぶる『象のおふざけ』連理の棒や中国セイロの手妻など物好きな一族。舞台にでることはほとんどないが、ごひい気筋のお座敷ではなかなかの人気。

 この頁では上記の写真以外に、雀右衛門の娘、初美さん演ずる「松尽くし」の写真も掲載されている。

 記事によると、「……といっても、まだ15才の初美さん」だったそうで、今日もしご健在ならば本年で大体77歳になる頃か。それ以外はよく分かっていないが、まだご健在である可能性も高いので、何かご存知の方はご一報いただけると幸いである。

 その後は、気の向くまま、赴くまま、贔屓筋を中心とした活動をしており、晩年は一人高座で奇術などをやっていたそうである。また、岡田則夫氏によると、晩年はどうも越谷にいた天津城逸朗と交友があった模様である。「電話台だったか、本人の書いたメモに竹の家って書いてあった」。

 上記の『寄席といろもの』が出たのが、1978年の事なので、その頃はまだ現役であった事は間違いないであろう。芸能プロダクションにも協会にも属さず、独自の活動を繰り広げていた漫才師の消息を追う物ほど、難しいものはない。

 目下、一応判明した主要な項目はこの程度である。先述の初美さん及びその関係者が出てくれば、状況は変わるかもしれない。

情報、消息、関係者求ム。

芸 風

 上でも記したとおり、顔中に煙管をぶら下げる珍芸で人気を博した。直木賞受賞作品、藤本義一「鬼の詩」に出てくる馬喬ではないが、まさに一世一代の珍芸であった。百聞は一見に如かずといった所であるので、写真で見ていただこう。

コメント

  1. 金島 豊 より:

    少し前からTwitterフォローさせて頂いてます。現・楽猿 元・金島豊
    失礼ながら、今回初めて内容読ませて頂きました。凄いですね。とても読み応えが有ります。
    お身体ご自愛下さい。楽しみにしてます。 初めての返信、失礼お許しを

    • 喜利彦山人 より:

      ありがとうございます。目下目録作成のためなかなか更新が捗りませんが長い目で応援して頂けますと幸いです。

無断コピー・無断転載はおやめください。資料使用や転載する場合はご一報ください。

タイトルとURLをコピーしました