竹の家雀右衛門・小糸

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竹の家雀右衛門・小糸

十八番・煙管の珍芸

 人物

  たけ 雀右衛門じゃくえもん

 ・本 名 ??
 ・生没年 ??~昭和53年/1978年時点では健在
 ・出身地 ??

  たけ 小糸こいと

 ・本 名 ??
 ・生没年 ??~昭和53年/1978年時点では健在
 ・出身地 ??

 来歴

 東京の漫才師でも古株の存在だったというが、その素性は明らかになっていない。にもかかわらず、上にあげた写真のような珍芸で、その名をとどめ、談志や色川武大の著作の中に登場している、なんとも不思議な存在である。しかも、漫才ブームの頃まで健在だったというのだから、中々息の長い存在だったらしい。

  ・漫才以前

 雀右衛門の人生はなかなか壮絶である。「都新聞」(八月十四、十五日号)に掲載された「漫才銘々傳」に詳しい。その概略は以下の通りである。

 雀右衛門は嵐紅若という旅回りの役者で、本人も若三郎という名で子役をやっていたという。
一六歳の時に名古屋へ行き、西川扇女より日本舞踊をみっちりと仕込まれ、舞踊家として育てられた。
二三歳の時に噺家に転向し、桂文治(七世)や桂団助を師事し、桂都雀と名乗ったが、芸妓と九州へ駆落ち事件を起こし、あえなく破門。
下関で弁士や役者の真似事で糊口を凌いでいる所、周りの勧めで幇間に転向。当地で人気を集めたがまた芸妓関係の事件を起こし、大阪へ戻った。
帰阪後、破門を許された都雀は、講談の神田伯山や橘家円太郎の誘いで東京の寄席にも出られるようになった。
二度目の上京で、喜劇役者に転向。北海道を巡業したものの、莫大な借金を背負う事となり、辛酸を舐めた。踊りの師匠をしながら、借金を返済し、樺太、札幌、岩内、小樽と転々とした後、喜劇に見切りをつけ、漫才に転向した。

 落語のほうでは七代目の橘家円蔵や古今亭志ん生が転々とした人生を送ったといわれるが、それ以上のものがある。

 なお、北海道巡業の折に出会ったのが、当時樺太で弁士をやっていた大道寺春之助で、彼を漫才に引き入れたのは雀右衛門のせいでもある。

 また、波多野栄一は、

竹の家小糸 雀右衛門

根は古い落語家で踊りも踊り目下は一人で気まぐれに奇術などをやっている

 と、「寄席といろもの」の中で記している。

 

 ・東京漫才の一員に

 雀右衛門は転々とした人生を過ごした後、喜劇に見切りをつけ、妻の小糸とコンビを組んで漫才に転向。小糸も「藤村富士弥」と名乗る舞踊家で、定まらない夫をよく支えた貞女である。

 東京漫才が黄金時代を迎えようとしていた、1935年時点では、早くも活躍しており、看板の一組として数えられている。

 以下の画像は1935年8月に行われた漫才大会の広告である。

(『読売新聞』昭和10年8月21日号 夕刊3頁)

  また、他の新聞には「舞踊漫才 竹乃家雀右衛門 小糸」とある。1935年時点で看板の一組になっている所を見ると、漫才師になったのは、もう少し前という推測も立とうか。

 名前からわかるように、しゃべくりやギャグの面白さで魅せる「漫才」というよりかは、多種多彩な芸百般を見せる古風な「万才」を得意としていた模様である。詳しくは芸風の所で述べる。

 その後は主に松竹系の漫才大会や浅草を中心とした活動を見せていた模様。所謂、浅草漫才の一員であったとでもいうべきか。

 当時の事を、色川武大は、「寄席放浪記」の中で、

色川 思い出さないなア。中村目玉・玉千代というのがいたね。浪曲漫才だ。これ、よかった。
立川 それから、顔じゅうキセルをぶら下げる竹の家雀右衛門。
色川 ああ、いたいた。雀という字を書くのね。それで、ポロポロッと落っことす。ぼやいてばかりいてね、これが面白かった。

(色川武大「寄席放浪記」 174頁)

 と、やはりキセルの珍芸について言及している。また、対談者である立川談志もこの芸を見たという事を考えると、戦後の一時期までは舞台に出ていた模様か。

 ・お気楽お座敷漫才師

 しかし、舞台を中心に活躍していた期間はあまり長くはなかったようで、敗戦以降は珍芸や奇術、音曲など細々とした芸を魅せるお座敷漫才へと移行した模様である。そのためか、戦後どのような活動をして、どういう寄席や放送に出演したかはよく分かっていない。

 その裏付けとなる資料として、写真雑誌「サングラフ」の中で取り上げられた特集を挙げておこう。

親と子の珍芸くらべ

口上……あんまりお目にかかれぬキセルの曲芸。むずかしいというよりは、バカバカしくてやる人がないから珍しいという事になりまする。一本一本と顔の皮につりさげまして、また一本一本と落して行きまする、首尾よくまいりましたらおなぐさみ……
とチャンチキ、チャンチキにぎやかな三味線入り。東京駒込の竹の家一族は、いずれも古代芸がお好きとあって、ご主人の雀右衛門さんが『キセルの顔の曲芸』娘の初美さんが『一本歯、扇の松づくし』奥さんが三味線や太鼓の伴奏をつけるといったにぎやかさ。このほかぬいぐるみの象をひっかぶる『象のおふざけ』連理の棒や中国セイロの手妻など物好きな一族。舞台にでることはほとんどないが、ごひい気筋のお座敷ではなかなかの人気。

(「サングラフ」1955年9月号 74頁)

 この頁では上記の写真以外に、雀右衛門の娘、初美さん演ずる「松尽くし」の写真も掲載されている。

 記事によると、『……といっても、まだ15才の初美さん』だったそうで、今日もしご健在ならば本年で大体77歳になる頃か。それ以外はよく分かっていないが、まだご健在である可能性も高いので、何かご存知の方はご一報いただけると幸いである。

 その後は、気の向くまま、赴くまま、贔屓筋を中心とした活動をしており、晩年は一人高座で奇術などをやっていたそうである。

 上記の「寄席といろもの」が出たのが、1978年の事なので、その頃はまだ現役であった事は間違いないであろう。芸能プロダクションにも協会にも属さず、独自の活動を繰り広げていた漫才師の消息を追う物ほど、難しいものはない。

 目下、一応判明した主要な項目はこの程度である。先述の初美さん及びその関係者が出てくれば、状況は変わるかもしれない。

情報、消息、関係者求ム。

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コメント

  1. 金島 豊 より:

    少し前からTwitterフォローさせて頂いてます。現・楽猿 元・金島豊
    失礼ながら、今回初めて内容読ませて頂きました。凄いですね。とても読み応えが有ります。
    お身体ご自愛下さい。楽しみにしてます。 初めての返信、失礼お許しを

    • 喜利彦山人 より:

      ありがとうございます。目下目録作成のためなかなか更新が捗りませんが長い目で応援して頂けますと幸いです。