桂竜夫・東竜子

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桂竜夫・東竜子

光の家竜夫・竜子

舞台での二人

大朝家美代子と竜子

 人 物

 かつら 竜夫たつお

 ・本 名 関根 光雄
 ・生没年 1923年7月5日~1986年2月20日
 ・出身地 静岡県 浜松市

 あずま 竜子りゅうこ

 ・本 名 関根 せき子
 ・生没年 1929年3月11日~没?
 ・出身地 埼玉県 武里

 来 歴

 竜夫の出身は静岡県。彼の父親は旧制静岡中学校の校長を務めるほどの人格者で、竜夫自身も早稲田大学理工学部を卒業している。真山恵介は『寄席がき話』の中で、

静岡中の校長の倅で、早大理工科へ通ってドラムとトロンボーンを鳴らすことに魂を奪われ、中沢寿や三門順子に首を突込んだ……

 と記している。道楽息子だった模様か。バンドマン時代に片岡せき子と出会い、結婚。夫婦漫才に転向し、「光の家竜夫」と名乗る。

 父親は太神楽の片岡幸昇、兄は片岡清之助という芸人一家の生まれ。真山恵介『寄席がき話』に、

次は光の家竜夫とコンビの竜子といこう。(註・春日)チエミより一つ上の昭和四年二月生。港家小亀の曲を演じた片岡幸昇が父で、同じ片岡清之助が兄という。小さい時から西川流の踊りと三味線を習った。そして“片岡せき子”で新国劇に出たことがある。大菩薩峠の巡礼の娘などが役どころであった。かつて徳川夢声、高峰秀子の「綴方教室」にも、長屋の友達で写っている。

 とある。兄の一座に来ていたのが木村松太郎で、この人は後年に大朝家豊子と結婚した。その関係から大朝家姉妹とは古くから付き合いがあったようである。

 幼い頃から舞台に上がり、諸芸を身に着けた。1943年発足の帝都漫才協会に所属、当時の名前は「片岡せき子」といった。『芸能画報』(1959年4月号)に「昭和18年東京劇場で初舞台を踏む。」とあるが、これは確実に芸歴を誤魔化している。

 戦後間もなく関根光雄と出会い結婚。「関根」と姓が変わった。

 夫婦でコンビを組み、「光の家竜子」と名乗る。『国立劇場演芸場』(1980年10月号)の案内に、

桂竜夫・東竜子の夫婦漫才は戦後まもない23年に松竹演芸場とNHK(ラジオ)とでデビュー

 とある一方で、別の『国立劇場演芸場』(1980年1月号)には、

桂竜夫・竜子は、芸歴三十一年のベテランコンビ。以前は、ギターと三味線の音曲漫才でしたが、最近、楽器をもたない”立体漫才”に転向しました。台本には故玉川一郎氏の作品が多く、流行歌などをとり入れた現代的な舞台をみせます。

 とあり、齟齬が生じてしまっている。

『寄席がき話』や『芸能画報』などには、1949年コンビ結成、と記載されている所から1949年と落ち着くのが妥当か。

 以来、浅草の劇場を中心に活躍。当時は音曲としゃべくりの半々で、芸達者なコンビとして売り出した。1955年発足の漫才研究会には初めから所属し、初期メンバーの一員として名を連ねる事となった。

 1953年、長男の清一誕生。この子も後年漫才師となり、桂光一と名乗った。次郎の間には、広美という娘もいる。この子も一時期漫才をやっていた。

 1957年3月に行われた第一回NHK漫才コンクールに出場、『僕の趣味』なる演目を披露しているが受賞には至らなかった。

 1959年、次男の次郎誕生。この子も漫才師となり、桂光二と名乗った。

 1960年代初頭、都上英二・東喜美江の門下に入り、「東竜子」と改名する。

 二人と交友のあった源氏太郎氏から伺った話では、

 二人は初音荘っていうアパートに住んでいたのですが、これが火事で焼けてしまったり、二人の身の回りにも不幸な事が続いた。光の家と縁起をかついだのに、これではよくない、名前を変えようという話になりました。はじめは喜代駒オヤジの所に行きたがっていたのですが、オヤジはそれを断ったんですね。でもそれじゃ可哀想だから、英二さんの所に行きなさいって斡旋して二人は都上英二一門に下ったわけです。

 源氏太郎氏も亡くなった今、これも懐かしい、貴重な思い出話である。

 1963年3月、第10回NHK漫才コンクールに出場、『お笑い花嫁学校』で特別賞を受賞。この時は「都上竜夫・東竜子」名義であった。

 以来、幹部として活躍するようになる。この頃は主に浅草の松竹演芸場を拠点としていた。

 後年、「都上」の亭号を返上、落語家の桂枝太郎を頼って身内となる。夫は「桂竜夫」と改名し、本人も「桂竜子」とも記されるようになる。その背景には都上英二との確執やトラブルがあったと聞くが、詳しくは知らない。

 改名後、枝太郎の紹介と縁から寄席に近づくようになり、1976年12月、曲独楽のやなぎ女楽と共に落語芸術協会に入会。定席へ出演するようになる。

 寄席に出るようになってからは、しゃべくり漫才に移行するようになり、歌謡曲や時事ネタをモチーフにリアクションの多いネタや相方の竜夫をボロカスにこき下ろすネタで人気を集めた。

 国立演芸場に音源と映像が残っているが、それをみても、ガラガラ声の竜子がおっとりとした竜夫に向って間髪も入れずに、「こいつ」「この野郎」と怒鳴る女性上位漫才であることが確認できる。両人とも音楽に明るかったところから、当時流行っていたディスコのダンスの真似をして、三橋美智也の「夕焼け空が真っ赤っか……」という歌詞に合わせて踊る変な芸もやっていた。

 ファンや仲間からは、頭文字をとって「竜竜(りゅうたつ)さん」との愛称で呼ばれていたという。

 竜夫はおっとりとした人で、竜子は男勝りの女性で、完全なかかあ天下だったと聞く。私生活では大の巨人ファンであった竜子に振り回されていたそうで、巨人の試合結果で機嫌が変わり、酷い時は炊事を拒否する程であった。時には、竜夫が妻の代わりに家事全般をやる事もあったという。

 1985年、息子の桂光一・光二がNHK漫才コンクールで優勝。初の親子二代での受賞を達成した。

 1985年1月限りで夫が療養生活に入ったため、代理として娘の竜美(広美とも)とコンビを結成。

 1986年2月20日夜、竜夫は肝硬変のため、東京板橋中央総合病院で死去。30年来の名コンビもここで別れた。夫の死後、竜美とコンビを続けていたが、長くは続かず、間もなく解散。落語芸術協会も退会した。

 その後は遠縁に当たる東寿美とコンビを組み、1年ほど漫才をやっていた。達者で気心の知れた同士であったが、寿美が日の本光子とコンビを組む事になったため、解散。以来、芸能界から一線を退いた模様。

 平成に入った後も健在だったが、あまりいい噂は聞かない。金銭的なトラブルなどもあったようである。なお、長男光一の嫁は轟ススムの娘にあたる。

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