日本チャップリン・梅廼家ウグイス

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日本チャップリン・梅廼家ウグイス

目次

・人物
・略歴
 ・漫才師以前
 ・デビュウ前後
 ・志し、上京にあり
 ・震災、そして――
・芸風
・参考文献

人物

 日本にほん チャップリン  

・本 名 田中?
・生没年 明治9年/1876年(逆算)~昭和32年/1957年以前
・出生地 不明

 梅廼家うめのや うぐいす

・本 名 田中?
・生没年 明治11年/1878年(逆算)~昭和11年/1936年以後
・出生地 不明

略歴


・漫才師以前

 出身地は両方共に不明。詳しい情報は明らかになっていない。

 日本チャップリンは元々剣舞師で、雲井龍雄と名乗っていた。小島貞二は「(チャップリンの)前身は改良剣舞」(大衆芸能資料集成 第七巻)と書いているが、チャップリン本人は、「読売新聞」の記事の中で、

法界屋(大道芸人)の改良剣舞でありません、道場派です

(昭和11年6月23日発行 第21329号)

 と、証言しており、意見が食い違っている。剣舞師としての活躍時期は明治30年頃から明治末頃までか。

 梅廼家ウグイスは元々橘之助(名人と称された立花家橘之助か)の弟子で小櫻と名付けられ、吟師(詩吟を朗詠する芸人)をやっていた。なお、持田寿一の「大阪お笑い学」の中に『はじめは、江州音頭取りであったウグヰスの音曲萬歳であったが……』という気になる一節が掲載されているが、出典及び根拠不明のため、本当にそうだったのかは分からない。

 チャップリン曰く、剣舞の方でも中々の地位に居たそうで、ウグイスと同じ舞台に立っている内に一緒になったという。

・デビュウ前後

 夫婦になった二人は新馬鹿大将・梅廼家ウグイス(ウグヰス、鶯、うぐひす名義もある)として漫才師に転向した。なお、新馬鹿大将の名は、20世紀初頭、イタリアの喜劇俳優、アンドレ・デェド主演にした人気映画「新馬鹿大将シリーズ」から、拝借したものである。

 余談ではあるが、「漫才世相史」(130頁)によると、チャップリンは「コブ」と綽名されて呼ばれていたそうだ。詳細は不明であるが、見事なスキンヘッドだったところに由来しているのではないだろうか。

 大正5年頃、新馬鹿大将・梅廼家鶯名義でオリエントレコードより吹き込みを行っている。これは当時の漫才師としては相当早い吹きこみである。岡田則夫の「続・蒐集奇談」によると、

(表)A1139 「滑稽しゃべくり萬歳」(鶯独演)
(裏)A1140 「りん附け」  

(表)A1193 「松島ぞめき(越後獅子替歌)」(鶯独演)
(裏)A1194 「滑稽掛合浦里」

 (岡田則夫 「続・蒐集奇談 38」 レコードコレクターズ 1994年3月号 75~6頁)

 の2枚が残っている。なお、しゃべくり萬歳というのは現在のようなものとは違い、いわゆる「なかなかづくし」という、口上めいたもので、太夫役がこれを言い立てる。


・志し、上京にあり

 大正6年頃、上京。日本チャップリン・梅廼家ウグイスと改名し、チャップリンは心機一転、これまでの紋付き姿から洋服姿へとチェンジをした。これが東西の漫才界における初めて洋服姿で舞台に上がった漫才師とされている。二人は「滑稽掛合」の名目で寄席や劇場に出演し、上方仕込みの漫才で勝負をし始めた。なお、二人は寄席に出るために、当時、落語家の一大勢力であった団体「睦会」に、参入していたという。

(喜利彦推測 二人が「滑稽掛合」と名乗ったのには、やはり諸説あるようだが、当時の東京でいうところの「万歳」とは、正月三が日にやってくる「三河万歳」などの類であり、大体の万歳は門付をして物を乞う、卑しい芸だという認識があったようで、大道芸上がりである江戸家猫八の物真似や浪花節などと同じように、寄席や劇場、或いはほかの芸人の目からしてもあまり好ましい存在ではなかった。また、東京では太神楽由来の「茶番」や落語家の余芸である「軽口」などの人気が高く、通りもよかったとみえて、結局のところ「芸人に上手も下手もなかりけり 行く先々の水に合わねば」の例えではないが、万歳の隠れ蓑として「滑稽掛合」と名乗ったのではなかろうか。なお、これはチャップリン・ウグイスだけの話でなく、喜代駒や千太・万吉などにも共通する漫才全体の問題でもあった。)

 当時、漫才の認識が殆どなかった東京に活躍の場を移すという事は無謀にも近い挑戦であったが、二人は日本映画興行の草分け、横田永之助や日活の支店長・荒木為次郎らによって見出され、実業家及び映画関係者という強力なバックボーンを得ることができた。この立派な後ろ盾は東京における活躍の大きな柱となる。  

 洋服をチャップリンに勧めたのも横田永之助であった。チャップリンの立派なちょび髭と後述する看板芸の「猿のどじょうすくい」に目を付けた横田は、手足の動きと舞台映えをよくするために洋服にするよう勧めてきたそうである。  

 チャップリンはこの出来事に関し、前述の記事内で、

 漫才、みんな洋服着てますナ、あれワテ判りまへん、チャップリンはエテ公(註・猿)の眞似が賣り物でしたけど、背が引低うて着物では見物によう判らん、日活の横田はんが洋服がえゝ、洋服にしろと仕立てゝくれたんですワ、その元祖を知らんで洋服を着てますでなア、みなさん

 と、回想している。これが記録に残る限り、漫才師がはじめて洋服を着た事例である。エンタツ・アチャコらよりも先駆けというわけだ。

(喜利彦推測 新馬鹿大将やチャップリンと名乗ったのはその風貌だけでなくて、多くの人に認知してもらい、また横田氏に気に入ってもらう為の手段だったのではないか。スポンサーは映画関係者で、しかも、当時の映画やチャップリンの流行などを踏まえてみても、一種の宣伝という意味も込められているのではないだろうか。)

 こうして、二人は大きな庇護の下で、着実に人気を集めていく。当時は寄席のほかにも浅草の十二階(凌雲閣)の劇場にも出ていたそうで、若き日の波多野栄一や東喜代駒はその高座を直接見ている。特に寄席に出たというのは大きな功績であり、  

ウグイス・チャップリンの「万才」は、たしかに東京では異色のものだったとみえて、随分引っぱりダコとなって震災まで東京に住みつき、あちこちの寄席に出た。落語定席と小さな演芸場では、客の関心もまるで違う。二人はいや応なしに認識され、名前を残す幸運をつかんだわけだ。その点、場末に出た先輩たちは大変損をした。

 (「漫才世相史」 131頁)

 ウグイス・チャップリンは寄席という常打ち小屋に出演できたのが、その名前を知られることに役立った。東京の客に、上方の万才の面白さを印象付けた点の功績は小さくない。

(「大衆芸能資料集成 7巻」 127頁)

 と、いう批評もあながち間違いではないだろう。見方次第では関西から来た異色のゲテモノ芸人だったという解釈もできないこともないが、東京の寄席で上方漫才を演じたというだけでも立派な功績である。この成功が所謂、東京漫才への敷石であり、大きな種として次世代につながった事は言うまでもない。

・震災、そして――

 しかし、その人気と快進撃は大正12年9月1日に起こった関東大震災によって一旦休止符を打たれることとなる。倒壊や火事の影響で、東京の芸能界は壊滅的な状況に追い込まれ、仕事場も仲間も失った二人は、帰阪せざるを得なくなった。

 なお、この時、被災した漫才師の中には若き日の横山エンタツや砂川捨丸などがおり、両人共に歴史的な現場に居合わせる事となった。東京で上方漫才を演じていた先駆者と上方漫才の大御所としゃべくり漫才の元祖の三人が、震災という経験を通して出てくるのは、何とも興味深い話である。

 震災の動乱が治まった後、もう一度、上京を果たすが、もはや彼らの芸はすっかりと過去のものになっており、往年の気力や実力も薄れ始めていた。結局、思うような活動も出来ず、さしたる活躍もないまま、また大阪へと戻っていった。

 だが、二人の活躍はそこで終わったわけではなく、再帰阪とほぼ同時期に大阪吉本と本格的に手を組んだようで、昭和2、3年ごろの名簿に早くもその名前が掲載されている。東京で一定の成功を収めたことに加え、震災に乗じて東京の芸人と強い繋がりを持とうとした吉本興業からすれば、これ以上素晴らしい人材はそうあるものではない、と考えてもおかしくはなさそうである。

 なお、上方漫才の大御所であった桜川末子は作家、香川登志緒との対談の中で、

『うぐいす・チャップリン……チャップリンさんは東京やったけども家は古川橋にあったわな』

(香川登志緒「大阪の笑芸人」 97頁)

 と、述べている。詳しい年月は不明であるが、大正頃のものだと推測される。

 昭和に入り、一時期吉本興業に所属をしていた。「落語系図」の中に載っている「昭和3年より昭和4年1月10日迄で 花月吉本興業部専属萬歳連名」の中に、このコンビの名前が記されている。そのころ、吉本は48組の漫才を抱えていたのだが、その中でも座長クラスの芸人だったのではないか、と小島貞二は推測している。

 なお、その頃、二人の弟子に加藤瀧子という女流漫才師がいた。この人は元々砂川捨丸の相方として活躍した人で、レコードの吹き込みも行っている。芸達者な芸人だったそうで、捨丸と別れた後も、加藤瀧夫などと漫才をやり、人気者だったそうであるが、後年、関係のもつれから、暴力団がらみの事件に巻き込まれ、最期は横浜で、暴力団の手より放たれたピストルの餌食になって死んだという伝説が残っている。

(喜利彦余録 加藤瀧子の死を正岡容が、「ピストルに射たれて死にし万歳の瀧子おもえば茴香のちる」「春の夜をランプのホヤの割れるごと加藤瀧子は殺されにけり」と、挽歌という形で追悼している。「大衆芸能資料集成 7巻」の118頁に、捨丸と組んでいた頃の話が出ているので、参考にして、どうぞ。)

 秋田実の「大阪笑話史」によると、吉本興業に所属していた前後、実の娘を当時としてはエリートの行くところであった女子大にまで進学させたのが自慢だったそうで、  

 そのウグイス・チャップリンさんが、自分の娘さんを、女子大に入学させたのである。
 当時までの大阪では、小商売人の夢は家に電話をつけることであり、家作を持てれば最上であった。働き人の夢は、

「自分たちには学がないが、せめてこどもだけには学を身につけさしてやりたい。これからの世の中は学校に出ていないと、あかん」
 それが楽しみで、みなコツコツと働いたものである。
 それでも当時は、旧制中学、女学校までがせいぜいで、大学まではめったになかった。ましてや女子大は選ばれた少数だけの時代であった。
 ウグイス・チャップリンさんもそうした大阪の庶民の一人として娘を女子大にまで進ませたことに大きな生きがいを感じていたのである。

(秋田実「大阪笑話史」 102頁)

と、いう一文が出ている。しかし、その娘は大正末期から学問の自由と軍事教練を反対する運動を主宰する学生社会科学連合会に入会し、警察に検挙されてしまった。秋田実はその事を、

 その娘さんが、昭和の初めの盛んだった学生社会科学研究で、警察に検挙されたのである。当時はまだ世間では、どうかすると国賊といっていた時代で、その記事が新聞に出ると、
「親が、しがない漫才家業で、こうやって舞台で汗水垂らして働いているのに……」
 そう舞台からお客に述懐してハラハラと涙を流した。当時の漫才界のエピソードとして伝えられている。

(秋田実「大阪笑話史」 103頁)

 と、したためているが、なんとも報われない、哀れな境遇というべきような挿話で、大変物悲しい気分になる。

(喜利彦余話 小島貞二の「昭和演芸秘史」(149頁)に、チャップリンには二人娘がいて、共に医大に入り、順風満帆のようにみえたが、姉妹は共に一人の男を好きになってしまい、しがらみと葛藤の末に二人とも自殺してしまった、という陰惨な話が出ているが、出典先不明)

 また、戦前大変な人気を博していた、六代目春風亭柳橋が来阪した時に、わざわざ楽屋にまで訪ねてきたという話を、リーガル千太の聞き書きで読んだ。大阪に来演して、久方ぶりに再開した柳橋に向かって、二人は「カシワ(鶏肉)をごちそうする」と言った。大阪名物のカシワにありつけると柳橋は大いに期待して待っていた所、何と生きたままの鶏を持ってきたという。これにはさすがの柳橋も弱ってしまった、とのこと。

 昭和初年、チャップリン・ウグイスが大阪の舞台に立っていたという証拠に、演芸研究家で作家の正岡容が、昭和3年頃に次のような歌を詠んでいる。

そのかみの猿には似たれチャップリンこのごろいたく老けにけるかな
若き日の花屋敷みえ小猿みえチャップリンのひげなつかしきかな
たそがれの荷揚の唄にすこし似てけふもはかなしうぐいすの唄

(「大衆芸能資料集成 7巻」 127頁)

 歌に嘘はつきものだ、過去を詠んだ歌かもしれないと批判が来るかもしれないが、芸を愛し、芸人大好きであった正岡容がまさか虚構や大嘘を吐くような人ではなさそうであるし、ましてやこの時期、正岡容は落語家の卵として、また作家として、大阪に住んでいたので、一応の確証は持てそうである。貴重な参考資料として、ここに記しておく。

 しかし、先述の連名以後、二人はいつの間にか吉本の連名からいなくなってしまい、消息不明に近い状態になる。先日発掘した讀賣新聞の記事の中には、『…浅草松葉町の陽のあたらない路地裏の二階に潜んでゐたわけだ!』 とあり、大阪からまた再上京をし直した模様である。  

 その頃には、もはや全盛期の勢いを失くしたと見えて、記事の見出しには「昔鳴らした漫才の元祖がいま路地裏の侘び住居!」と紹介されている有様である。さらに、本文には、

 ワタシ早く歳をとりたい、色氣も慾も失せてから藝に打込んでみたい…若い時からさう思つ てナ、が、いけません、お客は氣持が判つてくれません  えゝ歳して、あんなことせにや食へんのか――  と囁きます、で、ワタシ頭も髭も染めて出ます、洋行さして眞實のチャプリンと握手させようなどゝ云はれたワタシですが、いま縁日の餘興や、映画のつなぎになど蚊の涙ほどの金で頼まれてますワ、ほんま涙が出ますゼ、娘も肩身が狭いでせうが、下の娘を一人前にして、もう一旗挙げるまではナ

(「読売新聞」昭和11年6月23日発行、第21329号 9頁)

 と、嘆きに近い近況報告まで赤裸々に記されており、二人の困窮ぶりを容易に想像することができる。

(都新聞の記事 要追記)

 吉田留三郎の「漫才太平記」や「まんざい風雲録」によると、日本チャップリンは田中チャップリンという名前で、曲芸もやったそうである。これは中々興味深い資料であり、かつ貴重な過去を偲ばせるものではないか。なお、曲芸の弟子として、砂川菊丸(二代目捨丸)の娘、乙女節子(昭和12年3月3日(昭和7年説もあり)~健在?)がいる。

 両人の生没年は不詳であるが、昭和32年10月23日に四天王寺で行われた「物故関西演芸家追善回向の精霊」という追善名簿の中に「田中チャップリン」とあるので、その頃にはすでに亡くなっていた模様である。この資料は「芸能懇話 第13号 特集 上方漫才事始め」の32、33頁に掲載されている。

 さらに、人違いかもしれないが、「上方演芸大全」の中に収録されている横山ホットブラザーズの鼎談の中で、「田中チャップリン」を三田という証言が寄せられている。それがいつ頃の話なのか、はっきりと明言はなされていないが、このホットブラザーズの証言と弟子の乙女節子の年齢を照らし合わせると、戦後の、昭和20年代までは健在であった、と推測してもおかしくはなさそうである。

芸風  


滑稽掛合とは名乗ったものの、いわゆる鼓と張扇の上方の「萬歳」を演じていた。なぜ滑稽掛合と名乗らざるを得なかったかは前述の記事を参照のほど。  

 小男で洋服姿のチャップリンが才蔵(ボケ)、大柄で紋付き姿のウグイスが太夫(ツッコミ)という夫婦漫才の王道を往くようなコンビで、チャップリンは手に鼓を持ち、ウグイスは張扇を持っていた。このスタイルは捨丸・春代らに代表される明治から大正期における漫才師の典型的なスタイルの一で、チャップリンの洋装さえ除けば、むしろ骨法正しい漫才の流れを汲んでいたとも解釈できる。  

 十八番はウグイスの「唄」とチャップリンの「猿の泥鰌掬い」であった。これが大きな呼び物となっていたそうで、正岡容の歌にも詠われた通り。ウグイスの唄声は残された二枚のレコードより偲ぶことができるが(原盤以外だと「上方お笑い七十年史」というレコード全集の中に納まっている)、吟師出身という過去が頷けるほど、力強くたくましい声量の持ち主だったようで、さぞや寄席や劇場の観客を魅了した事であろう。  

 もう一つの十八番「猿の泥鰌掬い」はチャップリンの、いや、このコンビを象徴するような看板芸だったらしく、どの資料を見ても必ずといっていいほど取り上げられている。本人は「エテ公」といっていた。エテ公とは関西弁でいうところの「猿」である。  

 その内容はチャップリンがウグイスの歌う「安来節」に合わせて、猿真似をしながら安来節の泥鰌掬いを踊るという代物であった。上に載せた写真のように、白目をむいて、歯を出しながら、自分を猿に見立てて踊る姿はさぞかし満場の爆笑を得た事であろう。この手の芸は林家染団治や秋田Aスケ・Bスケらといった芸人達も演じた。(もっとも染団治はゴリラの安来節だが)  

 なんとも、馬鹿馬鹿しい芸であるが、やはり相応の苦労はあったようで、「大衆日本音曲全集 12」及び小島貞二の本の中に、  

 ――猿の鰌すくひも金華山と紀州ものゝ猿とを十五六疋飼つて研究したのであるが、其結果金華山は足をよくあげるので此方が役立つ、足も親指の下部に力を入れて歩くので、チャップリンも不思議なとこへたこが出来てゐる。

(「大衆日本音曲全集 12」500~501頁)  

 と、ある。小島貞二は「大衆日本音曲全集 12」を参照にしたと思われるので、原本の方の文章を上げておいた。わざわざ金華山と紀州の猿を飼い、猿特有の生態をよく観察し、舞台に取り入れたというのだから、まったく頭が下がる話であり、その結果、足に不思議なたこが出来たというのも歌舞伎や日舞の芸談に通ずるような、ちょっとしたいい話ではないか。  

 また、「大衆芸能資料集成」では、先述した「りん附け」の速記、それに「無理問答」と題したネタが収録されていて、その中に、  

乙 あァそうか。そんなら、あんたの名前はなんといいやすか。
甲 僕はチャップリンという名前や。
乙 ひとが「チャップリン」と呼んだらどうしまっか。
甲 「あいよ」といいまんがな。
乙 「チャプさん」というたらどないします。
甲 「あいよ」っちィますやないか。
乙 「チャップリンさん」っちィましたら、どないしはる。
甲 やはり「あいよ」っちィますがな。
乙 それ見たまえ。そう返事したらご利益は一緒やないか。

(「大衆芸能資料集成 7巻」 70頁)   

 と、いうフレーズがあることが紹介されている。因みにこの中で「……」という記述が目立つのだが、それは多分伏字だと思われる。当時は下ネタや猥褻じみたことを口にすると検閲の対象になったので、コードに引っかかったのであろう。なお、りん附けも結構すれすれな所があり、「リンリンと、リン病やみはつらいもの、しし(小便)するたびにチリリチリリン」などという下りは、よくもまあ引っかからなかったと思うほど、そういう当時の時節や政策も反映されていて面白い。  

 しかし、困ったことにこの資料をどこから持ってきたのか、監修者の小島貞二は明記していない。こういう瑕瑾は裏付けが完全に取れないし、作者の独断という可能性も出てくるので大変に困る。悪く言うが、小島貞二はこういうところが少し雑で、しかも自分は解っているから説明する必要がないという前提で書く癖があり、完全に読み取れないところが結構ある。  

 さらに、先述の「大阪笑話史」の中に、  

 単に元祖というだけの意味でなら、片カナの芸名もヒゲをはやしたのも洋服を着たのも、チャップリンさんが一番最初で、当時としては超モダンであった。モダンといえば、チャップリンさんが和服で舞台に出る場合には、いつも衣装のすそにカレンダーの絵模様があり、その日付けが毎日その日の数字になっていた。思いきったアイデアで、それがウグイス・チャップリンさんの舞台のトレードマークになっていた。

(秋田実「大阪笑話史」 102頁)

 と、芸風を偲ばせる一文がある。多分、大阪にいた時のこと、新馬鹿大将時代の舞台の記憶を記したものだと思われるが、その頃から奇抜な芸と才気を表していたようだ。  なお、先述の「大阪お笑い学」の中には、  ――ウグヰスの音曲萬歳であったが、紋付き姿のウグヰスに燕尾服のチャップリンという出立ちで、楽器も持たず喋くり一本の萬歳で、エンタツ・アチャコよりも早くこの演出を取り入れていた。(持田寿一「大阪お笑い学」)と、彼らこそしゃべくり漫才の祖の様に書かれているが、裏付けや参考文献がはっきりしておらず、非常に疑問が残る記事である。(持田氏と関係のあった人の話によると、氏は独断で記事を書くきらいがあったというのでこれもまた独断かも知れない)

参考資料  

 東京で初めて認知された上方漫才師である割に資料は殆ど見当たらず。わずかに小島貞二の「大衆芸能資料集成」、「漫才世相史」、「昭和演芸秘史」の中に、内容こそ重複しているものの、その存在が記されている。漫才師としての動向にメスを入れたのはこの数冊及び昭和十二年に発行された「大衆日本音曲全集 12巻」(誠文堂新光社)位なものか。

 なお、小島貞二はこの「大衆日本音曲全集」の中で記されている漫才史を基礎資料にしたものと思われる。  曲芸師としては吉田留三郎「漫才太平記」や相羽秋夫「上方演芸人名鑑」の中で僅かながらに触れられている。  

珍しい所では秋田実の「大阪笑話史」や波多野栄一の「ぼくの人生百面相」、香川登志緒「大阪の笑芸人」などでも人となりや芸などについて、触れられている。  

 今回一番の資料となったのは、「読売新聞」(昭和11年6月23日発行)の「ふたりは若々しい」という記事である。ここから両人の大体の生年や略歴を辿ることが出来た。仔細ではあるが新発見として、ここに明記する。

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