日本チャップリン・梅廼家ウグイス

日本チャップリン・梅廼家ウグイス

『新演芸』(1921年1月号)に掲載された似顔絵

人 物

 人 物

 日本にほん チャップリン  
 ・本 名 田中?
 ・生没年 明治9年/1876年(逆算)~昭和32年/1957年以前
 ・出生地 不明

 梅廼家うめのや うぐいす
 
・本 名 田中?
 ・生没年 明治11年/1878年(逆算)~昭和11年/1936年以後
 ・出生地 不明

 来 歴

 戦前に活躍した漫才師。元は関西の人物であるが、東京の寄席に定着し、一流の芸人と混ざって名門の寄席に出演した。「東京に漫才の種をまいたコンビ」と評価できるだろう。

漫才師以前

 出身地は両方共に不明。詳しい情報は明らかになっていない。

 日本チャップリンは元々剣舞師で、雲井龍雄と名乗っていた。小島貞二は「(チャップリンの)前身は改良剣舞」(大衆芸能資料集成 第七巻)と書いているが、チャップリン本人は、「読売新聞」(1936年6月23日号)の記事の中で、

法界屋(大道芸人)の改良剣舞でありません、道場派です

 と、証言しており、意見が食い違っている。剣舞師としての活躍時期は明治30年頃から明治末頃までか。

 梅廼家ウグイスは元々橘之助(名人と称された立花家橘之助か)の弟子で小櫻と名付けられ、吟師(詩吟を朗詠する芸人)をやっていた。

 なお、持田寿一の「大阪お笑い学」の中に「はじめは、江州音頭取りであったウグヰスの音曲萬歳であったが……」という気になる一節が掲載されているが、出典及び根拠不明のため、本当にそうだったのかは分からない。

 チャップリン曰く、剣舞の方でも中々の地位に居たそうで、ウグイスと同じ舞台に立っている内に一緒になったという。

 また、信憑性がやや怪しいものの、詩人の金子光晴が、右のような面白いことを、晩年の小説や雑記に記している。以下は「新雑事秘辛」の一節。

 砂川捨丸、捨次などが濫觴で、捨丸はいまでも生きてますがね、中村種春て女と、二人のかけあいがあってね。はじめは鼓をたたきながら数え歌ってやつをやる、一つとせえ、というのをね。これをやってから、かけあいにかかるんだ。砂川のあとには、チャップリンうぐいす嬢てのがいるんだ。うぐいす嬢てのはおそろしく太ったおかみさんで、チャップリンは小さい奴なんだ。チャップリンが椅子の上にのっかって猿の真似をするとかね。チャップリンの前身はね、さる小学校の校長先生でね、うぐいす嬢がそこの女教員だったのが、くっついちゃって、そういうことになったんですよ。

 また、傑作『どくろ杯』の中でも、

砂川捨丸と中村種春が元祖で、小学校の校長あがりのちんちくりんなチャップリンと、おなじく女教員から転向した肥満したうぐいす嬢との対象が人を笑わせた。

 と述べている。あくまでも信憑性に欠ける巷説に近いものであるが、前歴を指摘した資料がほとんどない以上、こういう巷説が面白く感じられる。

デビュー前後

 夫婦になった二人は新馬鹿大将・梅廼家ウグイス(ウグヰス、鶯、うぐひす名義もある)として漫才師に転向した。なお、新馬鹿大将の名は、20世紀初頭、イタリアの喜劇俳優、アンドレ・デェド主演にした人気映画「新馬鹿大将シリーズ」から、拝借したものである。

 余談ではあるが、「漫才世相史」(130頁)によると、チャップリンは「コブ」と綽名されて呼ばれていたそうだ。詳細は不明であるが、見事なスキンヘッドだったところに由来しているのではないだろうか。

 大正5年頃、新馬鹿大将・梅廼家鶯名義でオリエントレコードより吹き込みを行っている。これは当時の漫才師としては相当早い吹きこみである。岡田則夫の「続・蒐集奇談」(レコードコレクターズ 1994年3月号)によると、

(表)A1139 「滑稽しゃべくり萬歳」(鶯独演)
(裏)A1140 「りん附け」  

(表)A1193 「松島ぞめき(越後獅子替歌)」(鶯独演)
(裏)A1194 「滑稽掛合浦里」

 の2枚が残っている。なお、しゃべくり萬歳というのは現在のようなものとは違い、いわゆる「なかなかづくし」という、口上めいたもので、太夫役がこれを言い立てる。

志し、上京にあり

 1917年頃、上京。日本チャップリン・梅廼家ウグイスと改名し、チャップリンは心機一転、これまでの紋付き姿から洋服姿へとチェンジをした。これが東西の漫才界における初めて洋服姿で舞台に上がった漫才師とされている。

 2人は「滑稽掛合」の名目で寄席や劇場に出演し、上方仕込みの漫才で勝負をし始めた。なお、二人は寄席に出るために、当時、落語家の一大勢力であった団体「睦会」に、参入していたという。

 二人が「滑稽掛合」と名乗ったのには、やはり諸説あるようだが、当時の東京でいうところの「万歳」とは、正月三が日にやってくる「三河万歳」等と誤解されるのを避ける為だった模様。

 大体の万歳は門付をして物を乞う、卑しい芸だという認識があったようで、大道芸上がりである江戸家猫八の物真似や浪花節などと同じように、寄席や劇場、或いはほかの芸人の目からしてもあまり好ましい存在ではなかった。

 また、東京では太神楽由来の「茶番」や落語家の余芸である「軽口」などの人気が高く、通りもよかったとみえて、結局のところ「芸人に上手も下手もなかりけり 行く先々の水に合わねば」の例えではないが、万歳の隠れ蓑として「滑稽掛合」と名乗ったのではなかろうか。

 なお、これはチャップリン・ウグイスだけの話でなく、喜代駒や千太・万吉などにも共通する漫才全体の問題でもあった。

 当時、漫才の認識が殆どなかった東京に活躍の場を移すという事は無謀にも近い挑戦であったが、二人は日本映画興行の草分け、横田永之助や日活の支店長・荒木為次郎らによって見出され、実業家及び映画関係者という強力なバックボーンを得ることができた。この立派な後ろ盾は東京における活躍の大きな柱となる。  

 洋服をチャップリンに勧めたのも横田永之助であった。チャップリンの立派なちょび髭と後述する看板芸の「猿のどじょうすくい」に目を付けた横田は、手足の動きと舞台映えをよくするために洋服にするよう勧めてきたそうである。  

 チャップリンはこの出来事に関し、前述の記事内で、

 漫才、みんな洋服着てますナ、あれワテ判りまへん、チャップリンはエテ公(註・猿)の眞似が賣り物でしたけど、背が引低うて着物では見物によう判らん、日活の横田はんが洋服がえゝ、洋服にしろと仕立てゝくれたんですワ、その元祖を知らんで洋服を着てますでなア、みなさん

 と、回想している。これが記録に残る限り、漫才師がはじめて洋服を着た事例である。エンタツ・アチャコらよりも先駆けというわけだ。

 こうして、二人は大きな庇護の下で、着実に人気を集めていく。当時は寄席のほかにも浅草の十二階(凌雲閣)の劇場にも出ていたそうで、若き日の波多野栄一や東喜代駒はその高座を直接見ている。特に寄席に出たというのは大きな功績であり、「漫才世相史」の   

ウグイス・チャップリンの「万才」は、たしかに東京では異色のものだったとみえて、随分引っぱりダコとなって震災まで東京に住みつき、あちこちの寄席に出た。落語定席と小さな演芸場では、客の関心もまるで違う。二人はいや応なしに認識され、名前を残す幸運をつかんだわけだ。その点、場末に出た先輩たちは大変損をした。

 と、いう批評、また『大衆芸能資料集成』の、

 ウグイス・チャップリンは寄席という常打ち小屋に出演できたのが、その名前を知られることに役立った。東京の客に、上方の万才の面白さを印象付けた点の功績は小さくない。

 という批評も、あながち間違いではないだろう。

 見方次第では関西から来た異色のゲテモノ芸人だったという解釈もできないこともないが、東京の寄席で上方漫才を演じたというだけでも立派な功績である。この成功が所謂、東京漫才への敷石であり、大きな種として次世代につながった事は言うまでもない。

震災、そして――

 しかし、その人気と快進撃は大正12年9月1日に起こった関東大震災によって一旦休止符を打たれることとなる。倒壊や火事の影響で、東京の芸能界は壊滅的な状況に追い込まれ、仕事場も仲間も失った二人は、帰阪せざるを得なくなった。

 なお、この時、被災した漫才師の中には若き日の横山エンタツや砂川捨丸などがおり、両人共に歴史的な現場に居合わせる事となった。

 東京で上方漫才を演じていた先駆者と上方漫才の大御所としゃべくり漫才の元祖の三人が、震災という経験を通して出てくるのは、何とも興味深い話である。

 震災の動乱が治まった後、もう一度、上京を果たすが、もはや彼らの芸はすっかりと過去のものになっており、往年の気力や実力も薄れ始めていた。

 結局、思うような活動も出来ず、さしたる活躍もないまま、また大阪へと戻っていった。

 だが、二人の活躍はそこで終わったわけではなく、再帰阪とほぼ同時期に大阪吉本と本格的に手を組んだようで、昭和2、3年ごろの名簿に早くもその名前が掲載されている。

 東京で一定の成功を収めたことに加え、震災に乗じて東京の芸人と強い繋がりを持とうとした吉本興業からすれば、これ以上素晴らしい人材はそうあるものではない、と考えてもおかしくはなさそうである。

 なお、上方漫才の大御所であった桜川末子は作家、香川登志緒(「大阪の笑芸人」)との対談の中で、

『うぐいす・チャップリン……チャップリンさんは東京やったけども家は古川橋にあったわな』

 と、述べている。詳しい年月は不明であるが、大正頃のものだと推測される。

 昭和に入り、一時期吉本興業に所属をしていた。「落語系図」の中に載っている「昭和3年より昭和4年1月10日迄で 花月吉本興業部専属萬歳連名」の中に、このコンビの名前が記されている。そのころ、吉本は48組の漫才を抱えていたのだが、その中でも座長クラスの芸人だったのではないか、と小島貞二は推測している。

 なお、その頃、二人の弟子に加藤瀧子という女流漫才師がいた。

 この人は元々砂川捨丸の相方として活躍した人で、レコードの吹き込みも行っている。芸達者な芸人だったそうで、捨丸と別れた後も、加藤瀧夫などと漫才をやり、人気者だったそうである。

 しかし、後年、関係のもつれから、暴力団がらみの事件に巻き込まれ、最期は横浜で、暴力団の手より放たれたピストルの餌食になって死んだという伝説が残っている。

 秋田実の「大阪笑話史」によると、吉本興業に所属していた前後、実の娘を当時としてはエリートの行くところであった女子大にまで進学させたのが自慢だったそうで、  

 そのウグイス・チャップリンさんが、自分の娘さんを、女子大に入学させたのである。
 当時までの大阪では、小商売人の夢は家に電話をつけることであり、家作を持てれば最上であった。働き人の夢は、
「自分たちには学がないが、せめてこどもだけには学を身につけさしてやりたい。これからの世の中は学校に出ていないと、あかん」
 それが楽しみで、みなコツコツと働いたものである。
 それでも当時は、旧制中学、女学校までがせいぜいで、大学まではめったになかった。ましてや女子大は選ばれた少数だけの時代であった。
 ウグイス・チャップリンさんもそうした大阪の庶民の一人として娘を女子大にまで進ませたことに大きな生きがいを感じていたのである。

と、いう一文が出ている。しかし、その娘は大正末期から学問の自由と軍事教練を反対する運動を主宰する学生社会科学連合会に入会し、警察に検挙されてしまった。秋田実はその事を『大阪笑話史』の中で、

 その娘さんが、昭和の初めの盛んだった学生社会科学研究で、警察に検挙されたのである。当時はまだ世間では、どうかすると国賊といっていた時代で、その記事が新聞に出ると、
「親が、しがない漫才家業で、こうやって舞台で汗水垂らして働いているのに……」
 そう舞台からお客に述懐してハラハラと涙を流した。当時の漫才界のエピソードとして伝えられている。

 と、したためているが、なんとも報われない、哀れな境遇というべきような挿話で、大変物悲しい気分になる。

(喜利彦余話 小島貞二の「昭和演芸秘史」(149頁)に、チャップリンには二人娘がいて、共に医大に入り、順風満帆のようにみえたが、姉妹は共に一人の男を好きになってしまい、しがらみと葛藤の末に二人とも自殺してしまった、という陰惨な話が出ているが、出典先不明)

 また、戦前大変な人気を博していた、六代目春風亭柳橋が来阪した時に、わざわざ楽屋にまで訪ねてきたという話を、リーガル千太の聞き書きで読んだ。

 大阪に来演して、久方ぶりに再開した柳橋に向かって、二人は「カシワ(鶏肉)をごちそうする」と言った。大阪名物のカシワにありつけると柳橋は大いに期待して待っていた所、何と生きたままの鶏を持ってきたという。これにはさすがの柳橋も弱ってしまった、とのこと。

 昭和初年、チャップリン・ウグイスが大阪の舞台に立っていたという証拠に、演芸研究家で作家の正岡容が、1928年年頃に雑誌『柳屋』の中で、次のような歌を詠んでいる。

そのかみの猿には似たれチャップリンこのごろいたく老けにけるかな
若き日の花屋敷みえ小猿みえチャップリンのひげなつかしきかな
たそがれの荷揚の唄にすこし似てけふもはかなしうぐいすの唄

 歌に嘘はつきものだ、過去を詠んだ歌かもしれないと批判が来るかもしれないが、芸を愛し、芸人大好きであった正岡容がまさか虚構や大嘘を吐くような人ではなさそうである。

 ましてやこの時期、正岡容は落語家の卵として、また作家として、大阪に住んでいたので、一応の確証は持てそうである。貴重な参考資料として、ここに記しておく。

 しかし、先述の連名以後、二人はいつの間にか吉本の連名からいなくなる。

 上の記事の中には、『…浅草松葉町の陽のあたらない路地裏の二階に潜んでゐたわけだ!』 とあり、大阪からまた再上京をし直した模様である。  

再上京と晩年

 1931年頃、再上京をする。この頃から漫才の傍らで曲芸や漫芸といった一人芸にも再び手を出すようになり、『都新聞』の広告にも、

▲初音館 廿一日より
日本チャップリン、猫遊、楽三郎、和助、出羽三、筑峰、一夫、大公坊主、大正坊主、久良坊、いろは、茶福呂、華子、鷹之丞、かぶら、大和家、松島家連舞踊数番
 (1931年11月20日号)

▲新富演藝場 三日より三日間
大正坊主、いろは、小糸、雀右衛門、仲路、茶目鶴、チャップリン、俊子、美智江、一夫、蝶壽、初子等の萬歳……
  (1932年2月3日号)

また、『読売新聞神奈川版』(1933年7月20日号)の中に、

読者慰安演藝大會 吉川興行部

△高級万歳叶家洋月艶子△音曲万歳RボンベーR百合子△漫藝日本チャップリン△滑稽万歳小櫻金之助桃家セメンダル。

 とあるのが確認できる。実力こそあったものの、再上京後はあまり振るわず、浅草水族館や義太夫座などの出演に留まった。

 1935年、帝都漫才組合設立に関与し、漫才師の代表として選出される。

 しかし、香盤や地位決めを巡って、内紛が勃発。不満派の芸人と結束し、リーダー株であった宮川貞夫等と共に脱会。長らく反目をする事となる。ただ、この時には、既に老芸人扱いで、首謀者というよりは顧問的な扱いで、実権はあまりなかったようである。

 長老として一応の仕事や雑誌掲載こそあるものの、かつての人気や全盛期の勢いを失くしたと見えて、「読売新聞」(1936年6月23日号)の記事の見出しには「昔鳴らした漫才の元祖がいま路地裏の侘び住居!」と紹介されている有様である。さらに、本文には、

 ワタシ早く歳をとりたい、色氣も慾も失せてから藝に打込んでみたい…若い時からさう思つ てナ、が、いけません、お客は氣持が判つてくれません  えゝ歳して、あんなことせにや食へんのか――  と囁きます、で、ワタシ頭も髭も染めて出ます、洋行さして眞實のチャプリンと握手させようなどゝ云はれたワタシですが、いま縁日の餘興や、映画のつなぎになど蚊の涙ほどの金で頼まれてますワ、ほんま涙が出ますゼ、娘も肩身が狭いでせうが、下の娘を一人前にして、もう一旗挙げるまではナ

 と、嘆きに近い近況報告まで赤裸々に記されており、二人の困窮ぶりを容易に想像することができる。

 しかし、手塩にかけて育てた娘が立派に成長し、片や司書、片や医者になった事で、生活が楽になったらしく、1937年春、引退興行を行い、引退。

 以下は引退を報じた『都新聞』(1937年3月11日号)の記事。

漫才師の幸福
三十年の苦勞が實を結んで
チャップリン・うぐひす夫妻
娘の許で樂隠居

今日でこそ漫才の演出も變つて来たが、その以前、まだ漫才といふものがさほど世間から認められなかつた頃は、男女コンビの漫才と云へば、きまつて女のほうが張り扇で男の頭をポン/\と叩く、それを見て客も他愛もなく笑ふといふ至つて低級なものだつたが、その頃からの漫才師で、謂はゞ漫才界の元祖みたいな梅の家チヤツプリン、うぐひす夫妻も、お多分に洩れず、女房が、亭主の頭を叩く擽りで客を笑はせてゐたが、女房のうぐひすは如何にもこれが堪へられず、ある時チヤツプリンに向つて「如何に高座とはいへ、女房が夫の頭を叩くなど私には忍びませんから、今日限りあの演出はやめさせて下さい」と云つた時、夫は「かまはん、皆んな娘のためだ、娘が學校を卒業する漫才では、遠慮なくわしの頭を叩いてくれ」と云つたといふ挿話さえ残つてゐる
チヤツプリン、うぐひす夫婦の間には初子、八重子といふ二人の娘があり、當時の漫才師としては寄席から得る給金などほんの僅なものであつたが、たとへ夫婦は鹽をなめてもと姉妹を女學校に入れたところ、これが優秀な成績で、長女の初子は女學校を終へると大阪女子醫専に入學、妹の八重子は大阪帝大圖書館に入つて両親が初子へ送る學費の一部分を預けてゐた、チヤツプリン、うぐひす夫婦は長女の醫専卒業の日を樂みに、もう六十の坂を越した老齢で、けふもあしたも寄席の高座で他愛もない笑ひと擽りを廻つてゐた、そして大阪女醫學士の肩書を得て、白き手術衣に身を包み、某病院の助手として實地と研究を積む身となつた、チヤツプリン、うぐひすは初めて肩の重荷をおろした、で、初子さんは両親に、長年の苦労を謝した上、もうこれからは寄席の高座に出て戴かずとも私の力でどうにか生活していたゞけるてせうから茲にチヤツプリン、うぐひす夫妻は、三十年に近い高座から姿を消すことになつた、こゝ一ヶ月ばかりの間、市内の縁故ある寄席を数件廻つて心ばかりの引退披露をし、近く娘のある大阪に移り女醫先生の父母として餘生を送ることになつたといふ

 引退後の消息は不明、楽隠居の身となった模様か。

 一方、小島貞二は『昭和演芸秘史』の中で、

 こうしたひたむきな努力で、東京に地盤を築いた二人も、関東大震災に遭って一時大阪へ戻る。のちまた東京に来たときは、もう往年の魅力を失っていた。昭和に入ってからは大阪で舞台をつとめる。人を笑わせた学費で、無事学校を卒えさせた二人の娘は、見事医者になった……と書けばハッピィエンドだが、一人の青年医師を姉妹が愛するという三角関係のトラブルで、遂に二人とも自殺する。両親としてのチャップリン・ウグイスのショックは、計り知れないものがあったろう。

 と記しているが、出典・引用元と共に不明の為、ゴシップの領域を出ない。こういう憶測が一番困るのである。

 その後も何度か舞台に出たらしいが、「帝都漫才協会」には所属しなかったため、謎が多く残る。

 吉田留三郎の「漫才太平記」や「まんざい風雲録」によると、日本チャップリンは田中チャップリンという名前で、曲芸もやったそうである。これは中々興味深い資料であり、かつ貴重な過去を偲ばせるものではないか。

 なお、曲芸の弟子として、砂川菊丸(二代目捨丸)の娘、乙女節子(昭和12年3月3日(昭和7年説もあり)~健在?)がいる。

 両人の生没年は不詳であるが、昭和32年10月23日に四天王寺で行われた「物故関西演芸家追善回向の精霊」という追善名簿の中に「田中チャップリン」とあるので、その頃にはすでに亡くなっていた模様である。

 この資料は「芸能懇話 第13号 特集 上方漫才事始め」の32、33頁に掲載されている。

 さらに、人違いかもしれないが、「上方演芸大全」の中に収録されている横山ホットブラザーズの鼎談の中で、「田中チャップリン」を見たという証言が寄せられている。

 それがいつ頃の話なのか、はっきりと明言はなされていないが、このホットブラザーズの証言と弟子の乙女節子の年齢を照らし合わせると、戦後の、昭和20年代までは健在であった、と推測してもおかしくはなさそうである。

芸 風

 滑稽掛合とは名乗ったものの、いわゆる鼓と張扇の上方の「萬歳」を演じていた。なぜ滑稽掛合と名乗らざるを得なかったかは前述の記事を参照のほど。  

 小男で洋服姿のチャップリンが才蔵(ボケ)、大柄で紋付き姿のウグイスが太夫(ツッコミ)という夫婦漫才の王道を往くようなコンビで、チャップリンは手に鼓を持ち、ウグイスは張扇を持っていた。このスタイルは捨丸・春代らに代表される明治から大正期における漫才師の典型的なスタイルの一で、チャップリンの洋装さえ除けば、むしろ骨法正しい漫才の流れを汲んでいたとも解釈できる。  

 十八番はウグイスの「唄」とチャップリンの「猿の泥鰌掬い」であった。これが大きな呼び物となっていたそうで、正岡容の歌にも詠われた通り。

 ウグイスの唄声は残された二枚のレコードより偲ぶことができるが(原盤以外だと「上方お笑い七十年史」というレコード全集の中に納まっている)、吟師出身という過去が頷けるほど、力強くたくましい声量の持ち主だったようで、さぞや寄席や劇場の観客を魅了した事であろう。  

 もう一つの十八番「猿の泥鰌掬い」はチャップリンの、いや、このコンビを象徴するような看板芸だったらしく、どの資料を見ても必ずといっていいほど取り上げられている。本人は「エテ公」といっていた。エテ公とは関西弁でいうところの「猿」である。  

 その内容はチャップリンがウグイスの歌う「安来節」に合わせて、猿真似をしながら安来節の泥鰌掬いを踊るという代物であった。上に載せた写真のように、白目をむいて、歯を出しながら、自分を猿に見立てて踊る姿はさぞかし満場の爆笑を得た事であろう。この手の芸は林家染団治や秋田Aスケ・Bスケらといった芸人達も演じた。(もっとも染団治はゴリラの安来節だが)  

 なんとも、馬鹿馬鹿しい芸であるが、やはり相応の苦労はあったようで、「大衆日本音曲全集 12」及び小島貞二の本の中に、  

 ――猿の鰌すくひも金華山と紀州ものゝ猿とを十五六疋飼つて研究したのであるが、其結果金華山は足をよくあげるので此方が役立つ、足も親指の下部に力を入れて歩くので、チャップリンも不思議なとこへたこが出来てゐる。

 と、ある。小島貞二は「大衆日本音曲全集 12」を参照にしたと思われるので、原本の方の文章を上げておいた。

 わざわざ金華山と紀州の猿を飼い、猿特有の生態をよく観察し、舞台に取り入れたというのだから、まったく頭が下がる話であり、その結果、足に不思議なたこが出来たというのも歌舞伎や日舞の芸談に通ずるような、ちょっとしたいい話ではないか。  

 また、「大衆芸能資料集成」では、先述した「りん附け」の速記、それに「無理問答」と題したネタが収録されていて、その中に、  

 乙 あァそうか。そんなら、あんたの名前はなんといいやすか。
 甲 僕はチャップリンという名前や。
 乙 ひとが「チャップリン」と呼んだらどうしまっか。
 甲 「あいよ」といいまんがな。
 乙 「チャプさん」というたらどないします。
 甲 「あいよ」っちィますやないか。
 乙 「チャップリンさん」っちィましたら、どないしはる。
 甲 やはり「あいよ」っちィますがな。
 乙 それ見たまえ。そう返事したらご利益は一緒やないか。
 

 と、いうフレーズがあることが紹介されている。因みにこの中で「……」という記述が目立つのだが、それは多分伏字だと思われる。当時は下ネタや猥褻じみたことを口にすると検閲の対象になったので、コードに引っかかったのであろう。なお、りん附けも結構すれすれな所があり、「リンリンと、リン病やみはつらいもの、しし(小便)するたびにチリリチリリン」などという下りは、よくもまあ引っかからなかったと思うほど、そういう当時の時節や政策も反映されていて面白い。  

 しかし、困ったことにこの資料をどこから持ってきたのか、監修者の小島貞二は明記していない。こういう瑕瑾は裏付けが完全に取れないし、作者の独断という可能性も出てくるので大変に困る。悪く言うが、小島貞二はこういうところが少し雑で、しかも自分は解っているから説明する必要がないという前提で書く癖があり、完全に読み取れないところが結構ある。  

 さらに、先述の「大阪笑話史」の中に、  

 単に元祖というだけの意味でなら、片カナの芸名もヒゲをはやしたのも洋服を着たのも、チャップリンさんが一番最初で、当時としては超モダンであった。モダンといえば、チャップリンさんが和服で舞台に出る場合には、いつも衣装のすそにカレンダーの絵模様があり、その日付けが毎日その日の数字になっていた。思いきったアイデアで、それがウグイス・チャップリンさんの舞台のトレードマークになっていた。

 と、芸風を偲ばせる一文がある。多分、大阪にいた時のこと、新馬鹿大将時代の舞台の記憶を記したものだと思われるが、その頃から奇抜な芸と才気を表していたようだ。  

 なお、先述の「大阪お笑い学」の中には、  

――ウグヰスの音曲萬歳であったが、紋付き姿のウグヰスに燕尾服のチャップリンという出立ちで、楽器も持たず喋くり一本の萬歳で、エンタツ・アチャコよりも早くこの演出を取り入れていた。

 と、彼らこそしゃべくり漫才の祖の様に書かれているが、裏付けや参考文献がはっきりしておらず、非常に疑問が残る記事である。(持田氏と関係のあった人の話によると、氏は独断で記事を書くきらいがあったというのでこれもまた独断かも知れない)

参考資料  

 東京で初めて認知された上方漫才師である割に資料は殆ど見当たらず。わずかに小島貞二の「大衆芸能資料集成」、「漫才世相史」、「昭和演芸秘史」の中に、内容こそ重複しているものの、その存在が記されている。漫才師としての動向にメスを入れたのはこの数冊及び昭和十二年に発行された「大衆日本音曲全集 12巻」(誠文堂新光社)位なものか。

 なお、小島貞二はこの「大衆日本音曲全集」の中で記されている漫才史を基礎資料にしたものと思われる。  曲芸師としては吉田留三郎「漫才太平記」や相羽秋夫「上方演芸人名鑑」の中で僅かながらに触れられている。  

珍しい所では秋田実の「大阪笑話史」や波多野栄一の「ぼくの人生百面相」、香川登志緒「大阪の笑芸人」などでも人となりや芸などについて、触れられている。  

 今回一番の資料となったのは、「読売新聞」(昭和11年6月23日発行)の「ふたりは若々しい」という記事である。ここから両人の大体の生年や略歴を辿ることが出来た。仔細ではあるが新発見として、ここに明記する。

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