新山悦朗・春木艶子

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新山悦朗・春木艶子

悦朗・艶子

 人 物

新山にいやま 悦朗えつろう

 ・本 名 渡辺 次男
 ・生没年 1915年11月15日~1973年5月5日
 ・出身地 長野県 上山田村

春木はるき 艶子つやこ

 ・本 名 渡辺 ヤマ子
 ・生没年 1907年11月25日~1970年2月24日
 ・出身地 神奈川県 横浜市

 来 歴

 春木艶子に関しては、叶家洋月・春木艶子を参照。

 新山悦朗は長野県出身。幼い頃山の中で育ったため、後年「新山」と名乗るようになったと聞く。

 小学五年生の時に一家を上げて上京し、八王子に移住。学生時代はスポーツマンで、野球を中心に数多くのスポーツに熱中した。中でも野球を愛好し、生涯にわたる趣味となった。

 一時期は本格的にスポーツに凝っていたそうで、『産経新聞夕刊』(1960年7月22日号)掲載の小島貞二『漫才ばなし』に

 新山悦郎(にいやま・えつろう)=春木艶子は、楽器持参の夫婦漫才であるが、この悦郎のほうがなかなかのスポーツ・マン。ラグビー以外はみんなやったというが、テングは野球と水泳。落語協会の若手たちの勉強会「一心会」が一竜斉貞丈監督のもとに「ワンハート」というチームを持っているが、悦郎はそのヘッド・コーチ。選手のひとりがバッター・ボックスに立つ。そばで悦郎コーチが「おい、もっと前へ出てかまえろ」と大声をはり上げる。するとバッターはノコノコとホーム・プレートの上まで行ってかまえちゃった、などという連中が多いので、このチームはとても「トップ・ライターズ」のようにはいかないらしい。
 また悦郎は、かつてベルリン・オリンピックの東京予選に、水泳の長距離選手として出場、千五百メートルを二十三分四十秒で泳いだという記録が自慢のタネである。

 とある。

 学校卒業後、芸人を志し大阪へ上り、1937年、漫才師となる。以下は『芸能画報』(1959年1月号)掲載の略歴。

 悦朗 ①渡辺次男②大正4年11月15日③長野県④昭和12年漫才を志す同年21年より東京落語協会に入会する

 間もなく、千歳家歳男の門下となり、「千歳家飴男」と名付けられる。ノリロー氏曰く、「千歳でアメオ、千歳アメっていう洒落だよね」。千歳家歳男は、花菱アチャコの相方、千歳家今男の弟子で、戦前ボクシング漫才で人気があった。面長で恰幅のいい所から、綽名は「カバさん」。

 漫才はミヤコ蝶々に習ったらしく、真山恵介『寄席がき話』の中に、

漫才の師は今のミヤコ蝶々で、戦後に新興演芸部で売り出した、玉松二郎と組んだりしていたが、昭和二十四年の春、叶家洋月とコンビを解消した艶子と新コンビになり、彼のギターと艶子の三味線、人を喰ったようなそれでいて愛きょうタップリなベテラン艶子を得て、悦チャンいよいよヨシ。

 真山恵介『寄席がき話』 89頁

 という記載があるが、詳細不明。ただ、接点はあったという。

 間もなく、歌舞伎役者から転向してきた橘ミノルとコンビを組み、「千歳家アメオ・橘ミノル」としてデビュー。ミノルは元々新劇志望で、尾上菊五郎の俳優学校に入学して、前進座の中村鶴蔵の弟子となったが、後退する髪の毛に悲観して漫才になった――とは、吉田留三郎「漫才太平記」の一節であるが、実際は旧弊な演劇界に嫌気がさしての転向だったらしい。

 大阪の舞台へ出ている時に新興演芸部からスカウトされ、専属契約を結ぶ。この時、ほぼ同時期に専属契約を結んだのが、春木艶子であった。

 新興演芸部で腕を磨き、漫才大会にも出演。大舞台で経験を積み、順調な滑り出しを見せたが、応召や戦況の悪化を理由に、コンビを解散。

 1943年、大日本漫才協会に所属。この頃には、東京に拠点を移していたようで、林家染太郎の家が住所になっている。寄宿していた模様か。

 戦争末期、空襲で家を焼きだされ、新興演芸部時代の先輩、春木艶子・叶家洋月の家へ間借をするようになる。

 敗戦後間もなく、艶子と恋愛関係に陥ってしまい、艶子洋月夫妻と関係がこじれるようになる。洋月からすれば寝盗られたという所で、相当にこじれたという。結局この三角関係は悦朗と艶子の愛が勝ち、洋月は息子の勝司を引き取って離婚した。相当ドロドロした関係にあったそうで、余りいい噂は聞かない。

 1949年春、春木艶子と結婚。夫婦漫才を結成――という資料もあるが、やはり不義理を犯したこともあってか、コンビが成立するまでは数年ばかりかかった。なお、艶子と結婚後、洋月の家を出、荒川の尾久に一軒家を建てた。ノリロー氏曰く、「まあ変な家でね、悦朗オヤジが自分で建てた、といっていた。俺らはそこに寝泊まりして前座生活を送っていたんだね」。

 1950年から1953年頃まで、玉松次郎とコンビを組み、落語協会の興行へ出演している様子が、当時の番組表から伺える。ギターとアコーディオンの音曲漫才を展開していたという。

 1954年頃、改めて春木艶子とコンビを結成し、本格的に活動を始めるようになる。引き続き、落語協会に所属し、寄席へ出演。古風な音曲漫才を得意とした。

 但し、あまり面白くなかったそうで、弟子の新山ノリロー氏曰く、「悦朗親父の野球や流行のネタに、艶子師匠が興味を持たないから、話が噛み合わない感じはあったよね。難しく言うと古色蒼然というかね、英二喜美江さんみたいな華々しさがなかった」。

 更に楽器もうまくなかったそうで、「まあオヤジのギターはせこくてねえ(笑) 弟子の俺の方がよほどうまいくらいだった。コード押さえたら押さえっぱなし、1コードしか弾けない(笑)都上英二師匠も下手だったけど、あの人は二枚目で、喜美江さんの巧さによく調和していたが、悦朗オヤジは、ねえ……」と、ノリロー氏。

 1960年、都上英二会長就任に伴い、理事職となる。この頃、柳亭痴楽率いる「楽笑会」の監督やコーチに就任。若手たちの兄貴分として慕われた。

 1970年2月、春木艶子が急逝した為、コンビ解消。

それ以降はギターとバットを片手に人気選手のピッチングやバッティングを真似る、野球漫談を展開。立川談志は『遺稿』の中で、

この悦朗さんもいい人で、一人でバットを持って漫談をやっていたのを覚えている。それに阪神の藤村富美男、スタルヒン等、今でいう形態模写もやっていた。

 とその印象を記している。時局風刺の歌を歌うリズム漫談もやっていた。

 1973年5月3日、池袋演芸場に出演後、脳溢血に倒れ昏倒。54時間の昏睡を経て、5月5日、静かに息を引き取った。57歳の若さであった。

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