大和家貞夫・かほる

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大和家貞夫・かほる

大和家かほる・わかば(左)

 人 物

大和家やまとや 貞夫さだお

 ・本 名 宮川 健
 ・生没年 1902年~1943年頃

 ・出身地 北陸?

大和家やまとや かほる

 ・本 名 宮川 かほる
 ・生没年 1914年~1960年頃

 ・出身地 石川県 七尾市?

 来 歴

 戦前戦後、活躍した夫婦漫才。大和家かほるは安来節の歌い手としても有名であった。

 かほるの経歴は謎が残る所であるが、ご遺族の証言によるとやはり芸能に縁のある家柄で、幼い頃から芸に囲まれて育ったという。

 後年、大森玉木と知り合い、安来節の大和家三姉妹の娘分に取り立てられ、一座に同行。「大和家かほる」と名乗り、若干10歳の若さで一座の花形として活躍。

 幼気の残る容姿と大人顔負けの達者な芸の持ち主とだけあって、浅草の安来節ブームの一時代を築いた。

 1927年、安来節でラジオ初出演。『日刊ラヂオ新聞』の中に、大和家との関係が書いてあるので引用する。

安来節にも色々ありますが、 私共大和家一座は、本場出雲の安来節として皆さんから御贔屓を頂いてをりますそれで明晩の放送には、私の姉の春子(二六)と妹の清子(二〇)それに私の娘分としてあるかほる(一二)この四人が唄を勤め外に囃子方が四人出演致します。

 この頃より、漫才師としても活動を始めるようになる。そのキャリアは、東喜代駒や林家染團治と匹敵するといっても過言ではないだろう。

 1927年夏、玉子家つや子とコンビを組んで、本格的にデビュー。同年9月4日、『歌道楽浪花萬歳』と銘打って、「かほる、つや子、三味線西村源一」の三人で、ラジオに出演している。

 東京の漫才師が「漫才」を演じた事例では、東喜代駒(1926年)に次いで二人目。『読売新聞』のラジオ欄にこの時の事情や芸風を記している。以下はその引用。

『歌道楽』實は
女同志の掛合萬歳
かをるつや子が笑はせ乍ら
小原節、甚句等を唄ふ

今ばん歌道楽と銘打つて帝京座の人気もの、大和家かをる、玉子家つや子の二人が西村春雄の三味線でいろ/\な俚謡を放送する。この歌道楽と云ぬのは實は「掛合万歳」で十四歳のかをるが才造どころ、廿八のつや子が太夫で御園座で鳴らしたもので
女同志の掛合万歳はさう類がないので公園では人気を集めたもの――放送部の内部に掛合万歳は低級だと云ふ連中があるので係りの連中もこゝ一番名案をひねつて歌道楽(といつても新案ぢやあないが)元来この歌道楽といふのは一と昔前に女優千歳米坡が浅草落ちした時分「女道楽」
と名乗つて歌舞音曲を演つたのに始まつて居る。その後寄席へ花井お梅が出た時分歌舞道楽などと名乗つてから變つめ来た名である、かをるとつや子の歌道楽とはこれとは似ても似つかない掛合万歳でその中に
飛び出す歌が別項にある小原節、お座附品川甚句、浪花節、物まね、花づくし数へ歌等である。

 この後間もなく、かほると別れ、西村春雄(源一)とコンビを組むようになる。西村は大和家一座の三味線奏者であった。一番古い『都新聞』(1927年10月1日号)の広告に、

 ▲帝京座 松尾六郎 松葉家保子 西村春雄 かほる加入

 とある。また、西村以外にも立美二郎や砂川雅春などといった人ともコンビを組んでいたようで、『都新聞』(1930年7月30日号)の漫才大会の広告に、

 

新歌舞伎座 七日より十三日まで變り種の諸藝人を網羅してナンセンス萬歳大會を毎夕五時に開演、出演者は

荒川清丸、玉奴、玉子家吉丸、久奴、松本三吉、政次、轟一蝶、二見家秀子、吉田明月、荒川芳坊、喜楽家静子、林家染團治、加藤瀧夫、瀧奴、東駒千代、喜代駒、大道寺春之助、砂川若丸、東明芳夫、堀込小源太、小幡小圓、清水小徳、八木日出男、大和家初江、大和家雪子、中村直之助、千代の家蝶丸、登美子、玉子家末廣、福丸、浪川奴風、松平操、梅若小主水、砂川雅春、大和家かほる、壽家岩てこ、富士蓉子、朝日日出丸、日出夫、一丸、金花丸、松尾六郎、和歌子、弟蝶、久次、力久、竹乃、亀八、三代孝、デブ子、花輔、正三郎、源一、菊廼家若雀、独唱白井順、混成舞踊石田擁、女坊主澤モリノ外支那曲藝一行等

 とあり、『都新聞』(1931年1月23日号)の広告に、

 ▲帝京座 萬歳大和家かほる、立美二郎加入

 とある。

 一方、貞夫の経歴も謎が多いものの、元は活動弁士で、人気弁士・石井春波門下だったという。真山恵介『寄席がき話』中の大和ワカバの頁に「父が石井春波門下の活弁という芸能一家」とある。詳しい経緯は不明であるが、この前後でかほると出会い、結婚。一回り近く違う年の差夫婦であった。

 それから間もなくして夫婦漫才を結成し、「大和家かほる・貞夫」として舞台に出るようになる。

 1931年、秀男誕生。この子は大空ヒットの門下となり、大空みのると名乗った。

 1932年、喜美子誕生。この子は母親に付き、大和ワカバと名乗った。今もご健在と聞く。

 それから間もなくして、夫が応召され、満洲配属となった為、コンビ活動を停止。「女道楽」として、歌や三味線など、一人で舞台に立っていたが、興行社の斡旋で、半年程、大空ヒットとコンビを組んだ。その顛末は、大空ヒット『漫才七転び八起き』に詳しい。以下はその引用。

丁度そんな時、“小梅興行社”という浅草では余り上位ではない興行社の社長が、
「ヒットさん、いいコンビになりそうな人がいるんだが、あんたコンビは男でなきゃ駄目かね」
と、声をかけてきた。
「ええ、そりゃ男の方がと思ってますが」
「でもね、人によりけりだよ。実は大和家三姉妹の一番下の人で二十二歳、子飼いの芸人だから 芸達者、三味線もひくし、声も良いし、歌もうまいし、美人だし。今旦那は兵隊にとられて、一人で働いてるんだ。旦那と漫才やってたんだが、今の仕事よりどうも漫才の方がむいてると思うんだが、あんたどう思う。ワタシゃ良いと思うね。うちはこの事務所の、ほれまん前、そこんちだよ。会うだけでも会ってみたら」
「そうですか、あの人なら何度も舞台も見て知ってはいますが、僕と合うかなあ。ともかくお会いするだけなら会ってみます、お願いしましょう」「オイ、かほるさんち行って、ちょっと来てくれるよう、そう言っといで」
ほどなく、かほるさんがやって来た。
「あらお兄さん、しばらくでした。お元気でご活躍のようで」
「ご活躍はないでしょう。コンビもはっきりしない状態ですから」
「いえ、小梅さんから話は聞いてます。もし私でよかったら、使ってみて下さいな」
おやおや、話はもう先方に通っている。仲人口と昔から言うけれど、ともかくこの人とやってみようと思いたった。

 1935年頃、復員。大空ヒットの好意で、再び夫婦漫才を組む事となる。

 1935年秋、大和家貞夫はかほると共に帝都漫才組合設立に関与し、入会。組合のために奔走するが、組合側の対応や癒着に激怒。1936年3月、不平組と決起して一斉離脱。その中心的役割を果たした。

 以下は『都新聞』(1936年3月11日号)に掲載された脱退報道の引用。

遂に爆発!
帝都漫才組合に――
脱退者相次ぐ
憤怒組相寄つて新團體結成か
組合側頗る冷静

二月下旬明治座に開かれた創立披露公演を巡つて揉めてゐた帝都漫才組合は、公演終つても事態収まらず遂に多数の脱退者を出して却て悪化するに至つた、即ち今度の公演に關し出演者の人選其他に就て、組合當事者の執つた處置を難じて起つた所謂不平組は其後組合當事者と種々接衝したけれどもその措置誠意は認るべきものなしとして、遂に同志四十餘名が連名にて脱退書を突きつけるに至つたもので、この脱退組は新たに漫才組合を作るべく密かに工作を行つてゐる、この實行委員は大和家貞夫、冨士五郎、同十郎、千歳家今助、朝日日出若、笑福亭茶福呂、寶家小坊、常盤楽山、三遊亭福助、市山壽太郎で、これに理事としてただ一人の脱退者日本チャップリンを加へて行く模様であり事務所は目下のところ定まつたものはないが、大體大和家貞夫が連絡の中心となつて計畫をすすめている

 1936年、義男誕生。この子は後年、二代目大和家かほるを襲名した。理由は後述。

 戦前は主に浅草の劇場を拠点に活躍。美貌と美声の漫才師として大いに売れたそうで、ご遺族いわく、「山口百恵くらいの人気だった」という。1935年には画家の長谷川利行が『大和家かほる』と題した油絵を作成している。

 1941年、陸軍の依頼で桂金吾を中心とする演芸一座が結成され、妻のかほると共に参加。以下は桂金吾ご遺族より見せていただいた、慰問団の編成名簿である。

藝目    藝名     本名     年令

團長落語  桂金吾    稲田清次郎 四三

      花園愛子   稲田ミサ子 三六

舞踊漫藝  宮川貞夫   宮川健     四〇

      大和家かほる 宮川かほる 二八

奇  術  松旭斎清子  佐藤きよの 四七

      松旭斎小清  佐藤みよ子 一八

      松旭斎清子  木下ルリ子 一八

声帯模写  西村定夫   西村定夫  二一

浪  曲  筑紫富士夫  進藤貫一  三一

曲  師         新山愛子  二二

 日本を出発し、江南省の陸軍歩兵第二二〇連隊など主要部隊を巡った。この巡業中、花園愛子の戦死を目の当たりにしている。金吾と共に最後まで巡業を続け、帰国した。それから間もなくして貞夫は病気に倒れ、名前が広告や連名などから消える。

 ご遺族によると、貞夫は慰問先でマラリアに罹患。帰国後、マラリア熱によって没した、という。この慰問の時に罹患した模様か。

 墓は入谷にあり、息子の秀男と共に眠っているが、墓碑に記載がないため、正確な没年等は判らない。

 1943年発足の大日本漫才協会名簿に「宮川貞夫」及び「宮川健」の名前がない事、かほるの名前はある事、かほるの相方であった大空ヒット『漫才七転び八起き』の戦後篇に、「かほる君の夫君は亡くなっていた。」という記載がある事から、1943年前後に亡くなった模様である。

 敗戦後、かほるは一人で「女道楽」をやっていたが、1949年、大空ヒットに誘われて漫才に復帰。松川洋二郎をマネージャーにして、浅草の劇場や巡業に出るようになる。

 1952年、大空ヒットが三空ますみとコンビを組むのにあたり、コンビ解消。この解散は相当揉めたらしく、大空ヒット『漫才七転び八起き』の中でも、

かほる君とのコンビはそのまま解消。そして ヒット・ますみのコンビが生まれてしまった。いち早く新聞ダネになり「大空ヒット百人目のコンビ!」なんて記事にされてしまった。
もう後へは引けない。しかし、かほる君の方からは本人と妹の旦那と二人で「コンビを元に戻してくれ」と頼み込んで来た。
この時、ますみは「私が全部します。あなたは出て来ない方が良い」そう言って、二人を向うに回して話をしてかたづけてしまった。かほる君達は取りつくしまもない程のますみの勢いに押されて帰って行った。これはどう考えても私が悪い。今思い出しても苦い思い出である。

と、綴られている。ヒットと別れた後は娘の喜美子と母娘コンビを組み、「大和かほる・ワカバ」と名乗る。

 かほるが三味線、ワカバがアコーディオンを演奏するオーソドックスな音曲漫才であった。

 1953年3月から3ヶ月間、高波志光児夫妻と共に、ハワイ巡業へ出かけている。この頃、松川洋二郎と別れ、独り立ちする事となった。

 1955年、漫才研究会発足に伴い、娘と共に入会。同年春に行われた記念大会にも参加している。入会以降、栗友亭や浅草の劇場を中心に堅実な活躍をしていたが、間もなく体調を崩し、没した。

 詳しい没年は不明であるが、墓自体は1960年7月に建立されている事、その連名の中に大和家かほる(宮川かほる)の名前がない事から、その前後に没した模様である。

 ご遺族(二男の嫁)も「かほるさんは……1960、1年ころに亡くなったと記憶しておりますが」との事であった。

 かほる死後、大和家かほるの名前は、義男が預かり、後年襲名した。

 義男は水戸大神楽の間船家へ修行に行き、太神楽曲芸師となった後、妻の家族が率いていた民謡一座に参加し、座長に転向。東北中心に回っていた。

 太神楽畑故に「かほる」の襲名は少し抵抗があったというが、親の名前とあって、襲名を決意。長らく一座で活躍した他、三味線にも秀でていた所から、北島三郎『風雪ながれ旅』の演奏などを担当していたという。

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