太刀村一雄・筆勇

太刀村一雄・筆勇

太刀村一雄・筆勇(左)

 人 物

 太刀村 一雄たちむら かずお
 
 ・本 名 松尾 一蔵

 ・生没年 ??~1976年以前?
 ・出生地 関西?

 太刀村たちむら 筆勇ふでゆ
 
・本 名 松尾 筆子
 ・生没年 ??~1986年以後  

 ・出生地 関西?

 来 歴  

 東京漫才と呼ぶには少し疑問が残るコンビであるが、真山恵介の賞賛や春日照代の両親だという事を考慮して、本ページで取り上げる事にした。

 両者ともに出身地不明。元は関西で活躍したコンビなので関西圏の生まれか。  

 一雄は、元々、詩吟をやっていたそうであるが、詳細はよく分からない。しかし、古くから芸人をやっていたのは間違いないようで、1960年時点(真山恵介「寄席がきばなし」)で、

 旦那様の一雄とコンビになって、相撲漫才を始めて三十年余。

 と、記されるように、相当のベテラン漫才師であった。無論、東上したのも早く、1924年の新聞(「読売新聞 朝刊」1924年8月20日号)に早くも、

本場安来節と小原節大共演會
◇當る八月十六日夜より(五日間)日延なし

關の五本松
大小奇術
鴨緑江節
小原八千代踊

純正本場花月會一行 主任 山崎政子

落語手踊
松づくし
銭太鼓

東京初御目見得
高級萬歳 太刀村一雄 荒川鶴春
磯節踊
かれすゝき節
新高級安来節
出雲拳
小原花笠オドリ
高級萬歳
鰌すくい

◇お勧めに依り招きました本場藝妓三十餘名出演

神楽坂演藝場

 看板として活躍していたことが確認できる。この頃はまだ筆勇とのコンビではないが、一枚看板として活躍しているあたり、そこそこの地位にいたということになろう。

 また、どういう経緯があったのか知らないが、一雄はデビューしたばかりの東喜代駒とレコードを吹き込んでおり、「蒐集奇談」(「レコードコレクターズ」 平成7年6月号)を覗くと、

●東喜代駒・太刀村一夫
 大正14年のパイオニヤに「磯節くずし・滑稽軽口」(未見)がある。喜代駒の初吹き込み版。

 と、いう記録がある。また、一雄は玉子家円辰との吹込みもやっており、内外レコードから二枚ほどレコードが出ている。そのうちの一枚は「豆三・阿呆陀羅経」として、CD化されている。

 筆勇は元々、女道楽の出身で大阪岸和田興業の「ニコニコ会」に所属をしていた。14歳で初舞台を踏み、楽器に歌に踊りに何でも達者にこなす一座の花形であった、と真山恵介は記している。

 コンビ結成が先か、結婚が先か分からないが、何はともあれ二人は結ばれて、コンビを組み、漫才師として出発した。  

  実娘の春日照代によると、長い間大阪に居たそうで、東京の漫才として定着したのは戦後のようである。しかし、そういう割にはすんなりと東京に溶け込めているのが不思議である。

 もっとも戦前より東京と関西を行き来していた漫才師も数多くあり、今以上に交流が深かったことを考えると、そこまでおかしくないのも、また事実である。現に波多野栄一は「寄席と色物」の中で、このコンビを東京漫才の一組として挙げ、

 太刀村一雄・筆雄 角力漫才て筆雄の角力の姿が照国に似て面白かった三球照代の母(原文ママ)

 と、記している。波多野氏が漫才をやっていたのは、主に戦前であったという事を踏まえると、古くから東京とのパイプがあったのではないだろうか。私としては大阪と東京の両方で活躍する両刃遣いのような漫才師だったと解釈をしている。

 そして、春日照代の話を少し引用して、このコンビの事を考えてみる事にしよう。なお、春日照代に関することは彼女のページで紹介するので、ここでは省略をする。

 まず、「芸能画報」(昭和34年1月号)に掲載された「新撰オールスタア名鑑 漫才篇(1)」をのぞくと

(春日)照代 ①松尾節子 ②昭和10年12月8日 ③大阪府 ④姉と同じく演劇を志したが昭和20年漫才界に入る

  と、ある。一方、週刊平凡(昭和54年4月)が取材した記事を見ると、

(春日照代)昭和13年12月8日、大阪市十三で生まれた。旧姓・北池。兄ひとり姉ふたり、4人きょうだいの末っ子である。彼女の両親もまた太刀村一雄・筆勇という漫才師。

 と、書かれており、全く記述が異なっている。だが、週刊平凡の方は生年からごまかしているきらいがあり、如何も信憑性に欠ける。記述の正確さだけでいえば、前者の方が当てになるのかもしれない。

 しかし、そうはいうものの、週刊平凡の記事には、幼かりし頃の照代及び一家の動向や様子が記されており、侮れない部分もある。

 春日照代に言わせると、父親(一雄)は先見の明がある人だったといい、

 その後、淳子さんがアコーディオンを持ち、せつ子(照代)さんがギターを持つ歌謡漫才に変わった。このときお父さんはしまいにこう忠告したそうだ。
「これからの漫才は、歌でもなんでもいい。いいかげんにやってたらダメだ。歌をやるならちゃんと譜面から勉強しなさい」
 いまにして思えば、お父さんは先が見える人だったという。

 と、いう逸話を披露している。これなどはやはり身内でなければ出てこない話であろう。音符や楽譜を一生懸命覚えた娘たちは、後に「マーガレット・シスターズ」なるバンドに参加したり、青春コンビとして人気を博すことになる。

 週刊平凡の記載に従えば、照代が16歳の時(昭和26年頃)、周辺の人々の勧めに従って、一家は上京を果たしたそうである。その理由は、

 そのころは東京で漫才師といえば、リーガル千太・万吉ともう1組くらい。「こっちへ来たほうが仕事があるよ」と東京の仲間に誘われたためだ。

 と、新天地を求めるが故の上京であったようである。しかし、この記載も随分と適当なもので、「リーガル千太・万吉ともう1組くらい」などというのは、とんでもない嘘である。

 その頃はまだ漫才研究会などいった、組織はなかったものの染団治を筆頭に、ヤジロー・キタハチ、一歩・道雄、英二・喜美江などが東京を中心に活躍しており、特に英二・喜美江と亀造・菊次などはラジオの人気者として、大変な人気を誇っていた。

 そんなこんなで、この一家は上京を果たし、親は相撲漫才、子供は歌謡漫才及びマーガレット・シスターズの一員として、活動拠点を広げていったという。

 ここまでうまく潜り込めたのは、先述の推測通り、このコンビが古くから東京漫才と通じており、縁故も多かったからではないだろうか。昭和30年頃にはもう東京漫才の一員として目されていたようである。

 東京に定着した後は主に小屋や余興で活躍。やはり相撲漫才一筋であったようである。その人気はなかなかのものだったようで、マセキ芸能社の先代、柵木眞が出版した「私のネタ帳パートⅡ」の中でも、度々余興やお祭りなどに出演している姿が確認できる。(目についた所では51頁の「第16回清銀定期抽籤會」など。)

 西巣鴨に居を構え、漫才師になった娘たちと一緒に暮らしていた。真山恵介「寄席がき話」はこの事を、

 この漫才一家、西巣鴨に一つ住居していて、それぞれに稼ぎ高を競い合っているとあるが、こりゃあ税金屋さんの掛り。

 と、綴っている。

 また、安来節の小屋である木馬館が開場してからは、そこにも出演をしていたようで、演芸評論家で作家としても有名だった安藤鶴夫は「舞台と客席の親しさ」で、

 出演者は病気で倒れた立花梅奴を除いたお馴染の安来節一座に、浪曲の菊春、笛亀などといういわゆるいろものの演芸が並ぶ。一雄・筆勇という男女の漫才が、やぐら太鼓の三味線を弾いてから、肉襦袢にかつらを被って登場すると、相撲を取ったのには驚かされた。ここでなくてはみられぬプロだ。  

 と、いう一文を「スクリーン・ステージ」の劇評に書き残している。辛口の安藤鶴夫にしては賞賛に近い、良い文章である。その全文は、上に挙げた「安藤鶴夫作品集」の中で読むことが出来る。  

 1956年8月18日、田園コロシアムで行われた東京急行主催、毎日新聞社後援の漫才大会に出演している事が判明した。「毎日新聞(夕刊)」(1956年8月16日号)の引用。

 納涼爆笑漫才大会 
十八日=田園コロシアム

おもな出演者=リーガル千太、万吉、宮田洋々、不二幸江、宮島一歩、三国道雄、東和子、西〆子、浅田家章吾、小山幸枝、橘エンジロ、美智子、浪速シカク、マンマル、条アキラ、あさ子、太刀村一雄、筆勇、浪曲模写 前田勝之助
▽入場料 二十円均一

  こういった広告は何気なく見過ごされることが多いが、出演者の消息や活動年を推測する上で欠かせない資料になってくる。なお、上記の資料は大変貴重な情報が出ているので、他のページでも引用する。重複になるが、悪しからず。  

 昭和40年代まで活躍していたようであるが、詳細は不明。なお、漫才研究会や落語協会といった団体には所属をしなかった様子である。  

 二人の没年は不詳。昭和51年に記録された「芸能人物物故名簿」の中には、一雄の名前は掲載されているが、筆勇の名は見当たらない。

 そして、澤田隆治氏の証言では「春日照代さんが死んだ時の葬儀へ行った時、親族席におばあさんが座っていた。すると、三波春夫の嫁さん――これは小雪さんいうて漫才やったんやけどね、その人に抱きかかえられて泣いているのを覚えてますわ。後で聞いたらあのおばあさんは照代さんのお母さんで、筆勇さんやったそうですわ。」

 娘・照代に先立たれた模様か?

 芸 風  

 相撲漫才と冠された通り、舞台の上で土俵入りから立ち合いまでの動きや一人相撲を演じるのが看板芸であった。真山恵介「寄席がきばなし」が舞台の様子を、けっこう入念に書いているのでこれを引用させていただく。  

 一雄が洋服で、筆勇が和服、型通りのヤリトリがあって、さて一雄が支度にと楽屋へ入る。この間一人高座になって、筆勇の三味線で櫓太鼓の曲びきをタップリ。やがてヒョロヒョロの一雄が、前側だけの行司姿で登場、珍取組のご披露。肥えた筆勇が大たぶさの髷をつけ〝肉を着て″現れる。チョット先頃亡くなった〝かたばみ座″の鶴蔵(註・坂東鶴蔵)といった可愛いお相撲さんになる。さあこれからがご両人のショッキリ張りの大相撲だが、これがまた実に珍中の珍であり、至芸中の至芸なのである。まあ一度はぜひ見ていただきたいと、あえて声を大に宣伝をしておく。

 (喜利彦註・文中の「櫓太鼓」とは、義太夫「関取千両幟」の中から派生した曲の一つで三味線を頭の上で弾いたり、三絃を鳴らして櫓太鼓の打つ音を真似をしたりする。宝集家金之助が得意にしてから、寄席などでは度々取り入れられた。一人相撲もまた古くからある芸で、一人の男が、手と足を上手く使い、さながら二人の力士が相撲を取っている様子を見せる芸で、古くは神事や祭事から出発したものだとされている。余談であるが、実りのない物事に取り組む人の事を「独り相撲」というが、元はここから出た言葉である。)  

 聞くところによると、掛合やネタ自体は、そこまで面白くなかったそうで、芸人さんの談話などでも「ネタは記憶がない」「クスクス程度のものだった。まあ落語の枕みたいものかね」と、あまり評判は良くなかったが、看板芸である相撲の取組に話題が変わると、「抱腹絶倒だった」「あれこそ一芸の極み。素晴らしいネタだった」等々、賞賛を耳にした。案ずるに、染団治などと同じで、笑いよりも立派な芸を見せようという、それこそ萬歳時代の名残をとどめていたのではないだろうか。まさに一芸は百芸に通ずのことわざの如し。  

 なお、このようなスポーツや体技を取り入れた漫才はこのコンビに限った芸ではなく、結構古くから存在した。特に余興や祭りなど目を引く芸が珍重される所ではなかなかの人気があったそうである。

 戦前は野球のユニフォームを着た野球漫才やスポーツ漫才、戦後は(正確に言うと戦前からあったのだが、)爆笑王、中田ダイマル・ラケットが演じたという伝説の「ボクシング漫才」などが確認されている。東京でも大道寺春之助・天津城逸郎新山悦朗・春木艶子東イチロー・ハチローなどが盛んにスポーツ漫才を取り入れていた。  

 しかし、昭和30年代以降、脱線トリオを筆頭にしたトリオ、コントブームが巻き起こるや、相撲やボクシングの真似事は漫才ではなくコントの方に組み入れられてしまった。残念ながら、今日では昔のスポーツ漫才に値するもののほとんどはコントとして扱われてしまっているようである。

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