吉原家〆坊・〆吉

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吉原家〆坊・〆吉

 人物


吉原家 〆坊よしわらや しめぼう
 

・本 名 ??  
・生没年 ?~昭和56年/1981年以前
・出身地 東京?

吉原家 〆吉よしわらや しめきち

・本 名 ??  
・生没年 ?~昭和53年/1978年時点では健在  
・出身地 東京?

 来歴  


古い事には間違いないが、如何せん資料のないコンビである。が、ちょぼちょぼとその名前は確認することができる。  

 前身は新内流しだったそうである。内海桂子は自著「転んだら起きればいいのさ」の中で、

 吉原家〆坊・〆吉は吉原で新内流しをやっていましたし、春の家金波・銀波はもとは曲芸師、寿家岩てこ・〆蝶の岩てこさんは太神楽の出でした。

(内海桂子「転んだら起きればいいのさ」 96~97頁)  

 と、回顧している。吉原は、震災前後まで、江戸の残り香を漂わせる地域として知られており、永井荷風の諸作品や岡本文弥などの自伝にも新内流しの存在が載っている。吉原を根城にした新内流しから出たので、吉原家と名乗ったのかもしれない。  

 いつ頃、漫才に飛び込んだかは分からない。数少ない証言として、中村完一は「漫才と漫才師」という記事の中で、

 漫才には、家元といふのではないが、家號 (註・屋号) があつて、それぞれの流れを汲んでゐる。砂川、荒川、浅田家、若松家、河内家、吉原家――この吉原家は、關西辯(関西弁)に對して、全然關東辯(関東辯)を使つてゐる。吉原家〆坊といふのは、古い万才を關東弁で生かさうとし、洋服を着た漫才とは又別に、踊りや音曲で、一派を樹てた。

(中村完一「漫才と漫才師」『改造』昭和15年4月号 188頁)

 と、大々的に記している。「一派を樹てた」とはすごい表現であるが、やはりそれだけ人気があったという証拠であろう(だが、その割には資料がない)。  

 二人は昭和十年代に起こった東京漫才ブームの波に乗り、人気を博した。当時、人気者の多くがエンタツ・アチャコのようなしゃべくり漫才を踏襲していたのだが、このコンビは旧来の音曲漫才に徹していた。それでいながら人気を博した点はやはり注目すべきものがある。   

 遺された資料を見ると、このコンビは籠寅興行に所属をしていたようである。籠寅興行は保良浅之助が立ち上げた事業の一つで、その当時は大変な人気と勢力を誇っていた。

 この籠寅興行と戦前の芸能界は切っても切り離せない関係にあり、一つのキーワードになっているといっても過言ではないのだが、それと同時に暴力団としての側面や黒い噂などもつきまとっている。それを語り始めると、話の趣旨からズレるので、籠寅興行という大手事務所に所属していた、という認識だけ持っていただければ幸いである。

 (喜利彦余録 どうしてもその関係を知りたいお方は、磯野正勝「裏社会「闇」の構図 ヤクザとカタギの黒い関係」「裏社会の掟 極道たちのルールとシステム」、浅香光代の自伝「斬って恋して五十年」、稀覯本であるが、保良の自伝「侠花録 勲四等篭寅・保良浅之助伝」などに詳しく出ているので、それを参照してください)  

 その証拠として、籠寅興行が、昭和14年4月17日から26日までの10日間、南座で行った漫才大会の資料がある。

 昭和14年4月17日~26日 京都南座 籠寅演芸部 

 時局まんざい大会

 轟ススム・サノアケミ
 永田繁子・女一休
 吉原家〆吉・〆坊
 唄の家成太郎・なり駒
 端唄とん子・美代司
 ピッコロシヨウ
 永田一休・和尚
 菊川時之助・大津検花奴
 春風小柳・桂木東声
 カクテルシヨウ

(「近代歌舞伎年表京都篇 第十巻」 364頁)

 娯楽が限られていたとはいえ、十数年前までは卑しめられていた漫才が、かの南座でこんな大会を行ったというのだから、戦前の漫才ブームの凄さと人気ぶりは如何なるものであったか、ちょっと想像ができない。  

 また、作家の色川武大によると、このコンビの活動の中心地は浅草であったそうで、彼の著作「寄席放浪記」の中に、  

 戦前の浅草で漫才のメッカだった義太夫座に、私は一度も入っていない。(中略)目玉・玉千代、〆坊・〆吉、大坊・小坊、なんていうところは浅草ではおなじみでそれぞれ達者だったが、ラジオに出るとかして中央のスポットを浴びたという印象はない。

(「寄席放浪記」より「浅草漫才」 203頁)  

 と、いう一文が載っている。文中にあるように、当時、浅草は漫才の一大聖地として知られており、劇場も漫才師もこの地に集中していた。今も残る万年町や松葉町など、漫才横丁として成りたっていた時代もあったのである。  

 さらに、戦時中には、一流の芸人たちを集めた公演「東宝名人会」にも出演している。名人の名にふさわしいだけの人気や芸が求められただけあってか、ここに出られる芸人はほんの一握りであった。 東宝名人会の仕掛け人の一人である、秦豊吉は「昭和の名人会」という冊子の中で、このコンビの存在に度々触れている。

 開催してから二十三回目の昼間の東宝笑和会は(註・昭和16年11月)、たしかに新進の出演者を集め、意気軒昂という有様である。この十一月中旬の番組を挙げておこう。   

漫 才 林勝巳と小山慶太郎、柴田文恵と天津城逸郎、文の家七五三と都枝、妻の家妻吉と隆の家万龍、吉原家〆吉と〆坊

 (中略)

 こういう昼間の笑和会で、優秀な新人は、すぐ夜の名人会へ出演をお願いした。例えば、漫才の〆吉〆坊が、十二月上旬に顔を出している。

元気のよい笑和会は、十二月から入場料を十銭上げて、七十銭均一(税共)になつている。(中略)
もう一度この笑和会の正月番組を誌しておこう。(註・昭和17年)
 
 映  画 日本ニュース   
 漫  才 玉子屋菊奴と圓昇、桂小豆と大朝家シゲオ
 奇  術 松旭斎天菊   
 珍芸漫才 文の家七五三と都枝   
 現代落語 柳家三壽   
 文芸浪曲 天龍三郎   
 音曲漫才 吉原家〆吉と〆坊   
 曲  芸 豊来家宝楽社中
 
 太平洋戦争第二回目の正月である(註・昭和18年)。回数にして二百回の名人会の表面は、この苛烈な大戦争をどこ吹く風かというのんきである。(中略)六月に入って、妻吉萬龍、荻野幸彦、圓洲、〆吉〆坊、七月に入って、志ん橋、伯猿。

※一部表記を現代仮名遣いに改めた 
(「昭和の名人會」 53~58頁)

 上記の資料で見る限りでは、本興行で二回、昼の笑和会で二回出演を果たしている。戦時中、しかも芸能界から余りいい顔をされなかった漫才であるにも関わらず、これだけ出られたのは、やはりそれ相応の芸や人気があったからであろう。なお、東宝名人会は昭和19年3月、東宝小劇場閉鎖に伴い、一旦解散をした。  

 戦後は、ある一時期まで、祭りや巡業などに出ていたと聞く。しかし、漫才研究会の結成には参加していないので、一線を退いたとみられる。  

 没年は不詳であるが、手元にある極楽寺の記録によると、1981年時点、〆坊の名前だけ載っている。また、その三年前の1978年に出された、波多野栄一の「寄席と色物」の中に、

〆吉は一人高座ではたらいている  

 と、いう記載があり、〆吉の健在の証拠になっている。推測であるが、両人共に三味線も新内も達者であったという事を踏まえると、古巣である邦楽の方へと戻ったのではないだろうか。

 芸風

 邦楽を基盤にした演奏や達者な踊りなど諸芸を以て客を魅了した所を見ると、「万才」と言った方が正しいのかもしれない。古い時代の漫才のスタイルではあったものの、嫌味のない、如何にも東京人好みの芸だったようである。古風ながらも味わい深いコンビだった、とでもいうべきであろうか。

 後輩の大空ヒットは、記憶に残るコンビとして、〆坊の名を挙げ、

 歌や踊り、音曲、しゃべり、仕草芸、ありとあらゆる芸があった。そして一芸をもった人だけが看板として迎えられたのである。
 東京にも居た。〆坊という人の話芸もよかったが、この人の深川かっぽれなど、まったく枯れきった、きまり芸だった。 

(大空ヒット「漫才七転び八起き」 147頁)

 と、その芸を賞賛している。文中の「まったく枯れきった」という表現が、如何にも古風な芸を表しているようで、良い。

 また、波多野栄一「寄席といろもの」内では、

 唄に踊りに達者で人気者だった
 〆吉は一人高座で働いている

 と、ある。古風な音曲漫才のスタイルを保っていたことが確認できよう。

参考文献


率直に申し上げると、殆どない。確認できたものだけでも上記のものしかない。目下調査中……。

 

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