木戸啓二とザツオンぼういず(キッドけいじ)
人 物
木戸 啓二
・本 名 伊藤 司
・生没年 1931年11月28日~没?
・出身地 岐阜県
来 歴
木戸啓二は戦後活躍した漫才師。高度経済成長期には「木戸啓二とザツオンボーイズ」を率い、高い人気を集めた。晩年は「キッドけいじ」名義で漫才をやった。
経歴は『歌謡漫談読本』に詳しい。
木戸啓二とザツオンぼういず
リーダー木戸啓二は、さむい日とショボクレた日に縁が深い。 昭和6年11月28日、朝から小雨まじりのショボクレた日に、オギャアと生れた、ところは岐阜県、本名は伊藤司、オヤジは百姓。
25年12月、さむい日におやじの背広に 高下駄、白米一斗とギター一丁をかかえて、花の東京めざして家出して 一日百円のアルバイトにショボクレながらギ ターを習い、演劇学校に通って芸術への夢を追った。この学校には丹羽哲郎もいた。あァえらい違いよ。28年3月のさむい日、流しのエン歌師となる。運とは不思議なもので案外うけて、背広も新調、女にもてた。
38年11月のさむい日、現在はスリ ートンズの一員となっている若葉春夫、ハイハイトリオの一員となっている所裕三と三人でザツオンぼういずを結成。だがショボクレて仕事なく、女房もあきれて新潟の実家へ帰る。無念やる方なし! このとき、現在ザツオンの文芸部長南雲規至が、脚本と仕事をもって現われる。
このあたりから、ようやく白いメシにありつけるようになった。38年11月のさむい日、現在のザツオンが新しく生れたが、リーダーのふところ のショボクレは、昔と少しもかわらない。
役者、流しの演歌師、歌謡漫談と変遷が激しい。最終的に五人編成のチームに落ち着き、「ザツオンぼういず」として売り出した。
主要メンバーは司浩二、瞳浩二、瀬戸晴巳、ジョージ牧であった。ただこれも集合分離が激しい。小野勝などもいた。
話術やネタの爆笑路線よりも演奏技術に力を注ぎ、木戸、司、瞳がエレキギター、瀬戸がドラム、ジョージがトランペットを受け持ち、豪快に洋楽をかき鳴らすのを売りにした。
山下武は『大正テレビ寄席の芸人たち』の中で「エレキブームの前からエレキをやるなど、カラーとしてはむしろコミックバンドにちかいとは、当時の評判だった」と評価している。
当時の演芸ブーム、またキャバレーブームに便乗して派手に売り出した。エレキブームの到来もあって、なかなかの稼ぎをしたらしい。当時の演芸番組や音楽番組にも出ている所を見ると、相応の人気はあったのだろう。
1970年代初頭にチームを解散し、一度芸界を離れた模様。春風こうた氏の話では「キッドさんは郡山に住んでいて、郡山で店か何かやっていたそうですよ。詳しい交友はなかったので何ですが……」との事であった。
1997年、突如復帰し、ホセかなたという芸人と共に漫才界へ復帰した。まずはボーイズバラエティ協会に入会している。『演芸連合』(1998年1月号)の中に、
新会員 キッドけいじ ホセかなた
高松しげお
志賀晶(演芸協会から円満移籍)
とあるのが確認できる。
その後は数年ばかりかなたと行動していたが、2001年頃にコンビを解消。アサカもみじという女性とコンビを組み直し、漫才協会へと入り込んだ。どういう理由で入会したのか不明。
以降は古老の新人として時折舞台に出ていたが、アサカもみじが店をやっていた事や、啓二自身が長らく郡山にいたこともあってか、そこまで率先して出ている訳ではない。
当時を知る笑組のゆたか氏に話を伺ったところ「なんか歴代の総理大臣の名前を並べる変な漫才をやっていましたね」との事であった。
亡くなった春風こうた氏も「本当に、こう、よくわからない漫才をやっていた」とよくわからないまま話して下さった。ちなみに「キッドけいじは昔の木戸啓二」と教えてくれたのは、春風こうた氏であった。
2010年代初頭まで舞台に出ていたが、老齢のために引退したらしく、それから間もなくして没したと聞いた。
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