松川洋二郎・北村榮二郎

松川洋二郎・北村榮二郎

 人 物

 松川まつかわ 洋二郎ようじろう
 
 ・本 名 松井 重久
 ・生没年 ??
~1954年以降?
 ・出身地 ??

 北村きたむら 榮二郎えいじろう
 ・本 名 北村 榮次
 ・生没年 1896年~戦後
 ・出身地 ??
 

 来 歴

 戦前戦後活躍した漫才師。両人ともに兵隊漫才で人気があったという。 

 特に、北村栄二郎は大御所的存在で、立花六三郎の相方として多くのレコードに吹き込みをしている。北村栄次郎と記載する事もある。立花六三郎に関しては別項を立てる。

 栄次郎の前歴は地方回りの役者だったそうで、新派の他に、大蛇劇なる珍妙な一座にも在籍した事もあった。その経歴と逸話が『都新聞』の『色物界』に出ているので引用する。

兵隊万歳の榮次郎の家では家内に病人が絶えず、いくら稼いでも皆んな薬代に喰はれてしまう悲境にあるのを氣の毒に思つたある贔屓客が、祈祷師を差向けてくれたのでお祈りをして貰ふと「これは大變です、あなたの身のまはりに無数の死んだ蛇がとぐろを巻いてゐます、蛇の怨霊です」と云はれて榮次郎は思はずゾッとした、といふのは榮次郎の前身は田舎廻りの新派俳優で、大蛇劇林幸太郎一座で長らく働いてゐた、其頃、舞臺で使ふ蛇が、疲れて役者に噛みつく事が往々あるので、危険性を帯た蛇は事前にどん/\殺してしまふ、その蛇殺しの役を榮次郎はいつもやつてゐた、きつと其の祟りに違ひないと、今度庭の隅へ辨天様を祀り罪障消滅の祈祷をすることにしたとか

 1933年頃、立花六三郎とコンビを組んで兵隊漫才を結成、浅草の劇場を中心に舞台へ出るようになる。当初は柳家金語楼の「兵隊落語」を模したものであったが、徐々に自分たちの味わいを加えるようになり、当時の兵隊事情もあって、人気を集めた。

 後年、東京吉本と専属を結び、神田花月や吉本主催の漫才大会等に出演するようになる。この頃、盛んにレコード吹込みをしており、高い人気を伺い知る事が出来る。

 長らく吉本の看板として人気を集めたが、後年(1940年頃か)、六三郎とのコンビを解消し、松川洋二郎とコンビを組み直している。『毎日年鑑 1940年度』にはコンビで名前が掲載されているので、その直後に別れた模様か。なお、栄次郎の本名と年齢はそこから割り出した。

 もっとも、兵隊漫才は、即席コンビという一面も持っており、組んだかと思うと分かれ、また組みなおす、というような形が多いので、必ずしもこのコンビでなければならない、というわけではなかったようである。

 相方に選ばれた洋二郎の前歴は不明。生前、源氏太郎氏(駒千代の弟弟子)から「駒千代さんの旦那は役者上がり」と聞いたが、今となっては確認しようがない。

 長らく、浅草を中心に活動していたというが、やはり謎が多い。ただ一つだけ判明しているのは、当時、大空ヒット・駒千代で人気を集めていた「東駒千代」と結婚し、夫婦になった事である。

 戦時中は大日本漫才協会に所属した。この記録を見ると、駒千代・洋二郎両人は同居をしており、本名も一緒になっている。

 戦時中は、戦線慰問や寄席などで活躍していた模様。上の写真は、慰問の時に配られたであろう紹介状(ポストカード状であるが裏には名前があるばかりで郵送機能はない)を、小生が古本屋で買い取ったものである。

 また、色川武大『寄席放浪記』の中に、

 北村栄二郎・神田六三郎というコンビがこの派の代表選手だったそうだが、私の知ったころは、北村栄二郎・ 松川洋二郎というコンビで、名前もまぎらわしいが二人とも似たような老人で、どちらが栄でどちらが洋か、当時から覚えられない。
 ボケ役の方が益田喜頓を皺くちゃにしたような顔立ちで、芸風も、ドモリがちにおっとりとトボケるという恰好だった。兵隊漫才の中では芸を感じさせたが、若い人が考えつきそうな兵隊漫才を、なぜこういう老人たちがやる気になったのか、子供心に不思議な気がして、その舞台をまじまじと眺めていた記憶がある。けれども今考えると、老人二人が兵隊に扮するというところがミソで、 漫才としての説得力を逆にもたせていたのかもしれない。
 片方が亡くなったかして、残った方が不遇で、晩年は大塚錦本の下足番をしていたとか。これは実際に私が眼にしたのではなく演芸関係の本で読んだ知識だと思うが、 大塚鈴本は戦災で焼けて、復旧していない。すると戦争中からすでに兵隊漫才としての職場を失っていたのであろうか。

 と記している。この下足番になったという漫才師は、どうも栄二郎のことらしい(洋二郎は後述のようにせん後も活躍したため)。

 ただ、色川武大の独断的な推測という可能性も付き纏う為、鵜呑みには出来ない。また波多野栄一も『寄席と色物』の中で、

晩年栄二郎は十銭芝居の役者になり終には大塚の鈴本の下足番をしていたのが、実に哀れだった。

 1945年9月11日より行われた『東宝名人会』まで、洋二郎とのコンビで出演をしており、消息を追う事が出来る。然し、敗戦や劇場の消失などの理由から、コンビを解消した模様。

 一方、洋二郎は、妻の相方であった大空ヒットのマネージャとなったそうで、『アサヒ芸能新聞』(1953年11月4週号)の『関東漫才斬捨御免』の中に、

どういう訳か支配人運が悪い。松川洋二郎氏(才界の大先輩)が大分長くマネージメントしていたが昨年だか別れてその後良い支配人が見つからぬらしい (山路満氏がやっていられる様にもきいたが)相当多忙の様であるから、マネーシメントを他にやらさぬと自分の体が持つまい。

 とある。1951年ころ、手が切れて、大和かほるの番頭となり、雑務をこなしていたが、こちらもうまくいかず、間もなく彼女の許を去っている。

 その後は漫才から声帯模写の方へと移り、ワタナベ正美のマネージメントを長らくやっていたそうで、『アサヒ芸能新聞』(1954年2月1週号)の中に、

声帯模写ワタナベ正美の支配人をしている松川洋二郎氏が一頃かおるを持ちまわっていたようにも聞いていたが、昨年3月此の女流コンビで光児。光菊と共にハワイから米本土に渡り在米一世を慰問している間に松川氏と手が切れたようで、6月に帰朝してからはかおるが自分で商売をしているらしい。

 とあるのが確認できる。ワタナベ正美が活躍した1970年代まで、健在だったと解釈すべきか。

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