コントふらみんご(みつか・まりこ)

コントふらみんご(みつか・まりこ)

みつか・まりこ(左)

 人 物

 みつか
 ・本 名 茂木 由美子
 ・生没年 1962年3月24日~ご健在
 ・出身地 東京 北区

 まりこ
 ・本 名 ??
 ・生没年 1964年8月27日~?
 ・出身地 埼玉県 蕨市

 来 歴

 コントふらみんご(みつか・まりこ)は、昭和末に活躍した女性漫才師・コント芸人。斬新で前衛的なシチュエーションとマシンガンの如き応酬で高い人気を得たが、数年で解散した。みつかは、「一人コントの女王」として知られる楠美津香その人。

 生年と出身地は『週刊明星』(1988年9月29日号)より割り出した。みつかの本名はピックルス時代、漫才協団に所属していた頃の名簿より割り出した。

 みつかは「楠美津香」としてサイトを持っており、本も出しているため、経歴を追うのは意外に簡単である。

 出身は東京北区。実家は普通の家庭であったという。幼い頃から映画やドラマが好きな少女で、『小説club』(1995年3月号)の記事では、
「四歳の頃、憧れていたヒーローはアメリカ人でした(ドラマに出て来る1リットルの牛乳に釘付けになった)」
「毎日アイドル番組を見ていると、清水健太郎さんのファンになったが、ファンになったのを満足してアイドルを見るのをやめてしまった」
「十五歳の頃、クリストファー・ウォーケンが好きだった」
 と語っている。

 地元の高校卒業後、女優を目指して横浜放送映画専門学院(現・日本映画学校)に進学。演技論を学んでいたが、ここの講師として授業を受け持っていたのが内海桂子・好江であった。

 内海桂子・好江の「漫才授業」に参加したみつかは、漫才の面白さに目覚めるようになり、お笑いの道を志した。授業の一環で同級生とコンビを組む事となり、白坂かおりとコンビを結成。

 1982年4月、『ピックルス』とコンビ名をつけてデビューを果たした。

 ここで内海桂子・好江に才能を見出され、『お笑いスター誕生』に参加。連勝を記録して一躍「新人コンビ」として売り出す事となった。

 この二人は『ピックルス』として売り出すのだが、ピックルスはピックルスでまた別項を立てたい。

 しかし、このコンビも長続きはせず、1984年頃にコンビを解消。続いて「コントきゃんでいず」を結成するがこちらも1年持たなかった。みつかは相方を探しに劇場と転々とし、渋谷道頓堀劇場の女流芸人として落ち着く。

 一方のまりこは埼玉県蕨市の生まれ。埼玉県立鴻巣女子高校卒業後、普通のOLとして就職したものの、3年も勤め上げずに退職。

 道頓堀劇場に入って下回りとしてデビュー。1985年1月20日が初舞台というが本当だろうか。ここでみつかと知り合い、コントコンビを結成するに至った。

 1986年1月、道頓堀劇場で「コント・ふらみんご」としてデビュー。みつかが主導権を握り、多くの台本を執筆。小柄で少年的なまりこがボケ倒し、大柄で鷹揚としたみつかがこれを受け流す、現代的な感覚を掴んだコントで一躍人気者になった。

 ちなみにまりこが150センチ、みつかが172センチと20センチ近くある凸凹コンビとして知られた。

「反原発の不良と先生の喧嘩」「山田詠美vs俵真智」「西武vs東急」といったネタが大当たりで、一躍道頓堀劇場の人気者となった。

 このシュールな世界は演芸評論家から高く評価を受けるようになり、演芸場などにも出演するようになった。

 1987年10月26日、第2回NHK新人演芸コンクールに出場し、演芸部門最優秀賞を獲得。てきさすコンビ、螢雪次朗一座といった強豪を押さえての優勝であった。

 この優勝を機に、漫才ブーム以降のニューウェーブとして迎え入れられた。昭和末には「ハイヒール」「非常階段」などと並んで、「女性漫才・コントの期待の星」と高く評価される事もあった。

 しかし、平成改元後間もなく、コンビを解消。まりこは引退した。

 みつかは一時期小説家を目指して執筆を行っていた他、コント台本や放送台本を書いていたが、思うような活動もできなかった。

 舞台への思い立ちがたく、1991年に復帰。「楠美津香」として舞台に立つようになる。

 この復帰には、後の夫となるモロ師岡のコントに衝撃を受けた――ともいう。1990年より、モロ師岡と手を組んでコントを描いていた事もある。

 1992年夏、モロ師岡と結婚。その結婚と同時にコメディグループ「笑う肝臓」を結成。その傍らで一人コントを演じるようになる。

『国立劇場演芸場』(1992年10月号)に――

 楠美津香は漫才のピックルス、コントのふらみんごで当演芸場にも出演していましたが、ふらみんご解散後は一時、作家を志望して「軽井沢夫人」などを執筆していました。昨年暮、舞台への未練が捨て切れずにカムバックし、一人コントに挑戦中です。

 とある。

 1992年10月21日、第163回花形演芸会に出演し、「一人コント」を披露。この技芸が評価され、花形演芸会銀賞を受賞。

 この頃はモロ師岡よりも稼ぎが良かったそうで、師岡が美津香に頼っていたという笑い話がある。

 この頃より「東京美人百景」を展開。数多くの女性像を面白おかしく、時に風刺的に痛烈に批評してみせた。

 1993年4月より、『たけし・逸見の平成教育委員会』に1年間ほどレギュラー出演。

 1994年1月23日、国立演芸場の花形演芸会に出演。「東京美人百景」より「門前仲町八千草のママ・田園調布後援会夫人」を演じて、花形新人大賞・特別賞を受賞。

 1994年10月、東海テレビより「エイデンシアター UGATTA」に夫のモロ師岡と共に出演。7年近い長寿番組となった。

 これ以降も「ひとりコント」で活躍。「ひとりコントの女王」と異名を取るようになった。

 1998年頃、モロ師岡との間に一女・菜々が誕生。この子は松元ヒロの会のゲストに出ていたはずである。

 1年ほど出産・育休に勤しんでいたが、1999年に復帰。「プラチナプレイガール」を演じるようになった。

 2000年には今も続いている「ひとりシェイクスピア」を開催。独自の超訳とずば抜けた演技力で今なお高い人気を集めている。

 2023年現在も一人コントに独自の領域と品格を示し、モロ師岡と仲良く暮らしている。

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