大井山彦・海彦
人 物
大井 山彦
・本 名 畦元 直彦
・生没年 1932年1月1日~ご健在?
・出身地 満州 旅順
大井 海彦
・本 名 砂川 勇
・生没年 1939年~?
・出身地 京都府
来 歴
大井海彦・山彦は戦後活躍した漫才師。春日三球とコンビを組んでいた第一球と「晴乃ダイナ・ミック」のミックで活躍していた二人がコンビを組んだもの。王道なしゃべくりを得意としたというが、事務所の都合で組まされたらしく長続きはしなかった。
両者共に記事が作られているため、詳しい経歴は「第一球」「晴乃ミック」を参照にしてほしい。
1965年1月、コンビを結成。第一球ことハウゼ畦元氏に訊ねた所、「当時所属していた事務所で、私ともう一人が穴が空いたんですね。当時、キャバレー廻りとか司会とかで仕事が色々あったんで、『漫才の方が一人でも二人でも使えるから組んでくれ』と頼まれた」とのことであり、「だからこれといって相方に執着もなかったです」とのこと。
そうした事情もあったのか、主戦場はキャバレーや演芸会などの仕事であったという。それでも相応の事務所にいたこともあり、「仕事は困らなかった」といった話は聞いた。
コンビ結成後、二人はそれぞれの縁で(山彦はリーガル千太・万吉、海彦は晴乃ピーチク・パーチク)、漫才協団に入会。コンクールに出場する権利を得る。
1966年2月26日、「第14回NHK漫才コンクール」に出場。優勝は晴乃チック・タック、準優勝・丸の内権三・助十、三位・青空はるお・あきお、次点・東京太・京二。ミックから見れば兄弟弟子に先越された事となる。
当時のパンフレットが手元にあるので、引用。
「彼女のためなら」大井海彦・大井山彦
山彦さんは一昨年一球三球で出場した一球さん。軽演劇から新劇へすすみ、昭和三十八年に漫才界にとび込んだ。
海彦さんは晴乃ピーチクパーチクさんの門下生で、一時ダイナミックと名乗る漫才コンビを組んでいたが、昨年一月山彦さんに出会い海彦山彦コンビが誕生した。
山彦さんは昭和十年鹿児島の生れ。海彦さんは昭和十四年京都の生れ。
1967年2月25日、「第15回NHK漫才コンクール」に出場。優勝は青空はるお・青空あきお、準優勝は青井しんご・赤井しんご。以下はパンフレットの引用。
「名城物語」大井海彦・大井山彦
山彦さんは第12回コンクールに出場した一球・三 球コンビの一球さん。軽演劇から新劇にはいり、昭和38年に漫才界にとび込んだ。
海彦さんは晴乃ピーチクさんの門下で一時ダイナ・ ミックと名乗る漫才コンビを組んでいたが、一昨年一月山彦さんと出合い、海彦山彦が誕生した。
山彦さんは昭和10年鹿児島の生れ。海彦さんは昭和11年京都の生れ。
この出場で勢いがついたのか、はたまた注目を集めたのか、当時の『文化人名録1968年号』などに名前が確認することができる。
1968年3月2日、「第16回NHK漫才コンクール」に出場。以下はそのパンフレット。
6「商売アラカルト」 大井海彦・大井山彦
去年のこのコンクールは十一組。そのトップバッターで出場したのがこのコンビ。
かつて第一球・三球というコンビがあり、その一球のほうが山彦。かつて晴乃ダイナミックという コンビがあり、その片割れが海彦。二人のコンビは 昭和40年1月。海彦(うみひこ)、山彦(やまひこ)の芸名もそのときから。
若いが苦労の下地は大きい。別に師弟関係がない中で、「青空」「大空」「高峰」一家とは違う。それだけに自由ほんぽうなステージも期待される。
1970年2月に行われた第18回NHK漫才コンクールでは、大井海彦は「晴乃ミック」として帰参している様子が確認できる。
「ファッションABC」晴乃ダイナ・晴乃ミック
ことしの初出場は、かんじ・かおる、のいる・こいる、それにこのダイナミックの三組。ところが厳密にいって、このコンビを”初”に数えてよいかどうか?
というのは、ミックのほうは、一昨年このコンクールに海彦山彦で出た大井海彦である。ボケをやるダイナは、紙切りの三遊亭小円雀(駐留軍のキャンプで人気があった)の息子。コンビを組んで二年目というが、イキの合ったやりとりは、すでに数年のキャリアを感じます。
亭号でもわかるように晴乃ピーチク・パーチク門下。系列でいうとチック・タック(いまは別れている)のオトウト弟子ということになる。
コンビ結成2年とある所から、コンクール直後にわかれたのは確定だろう。
せっかく「晴乃」の屋号に復帰しながら、師匠のコンビ解散やコンビの不一致などもあり、数年後に解散。ダイナは紙切り漫談となり、ミックは引退した模様。さらに以前の相方・大井山彦もアコーディオン漫談家になったため、ミックだけが芸人をやめた形となっている。解せぬ。