青空水星・木星
水星・木星(右)
人 物
青空 水星
・本 名 有山 信男
・生没年 1937年2月5日~ご健在?
・出身地 東京 池袋
青空 木星
・本 名 坂本 昭道
・生没年 1943年5月5日~2003年11月12日
・出身地 福岡県 北九州市
来 歴
青空水星・木星は、戦後活躍した漫才師。青空一門の新鋭として目されたが、早く解散した。水星はコロムビアトップのマネージャーとなり、木星は友人とWエースを結成。東京漫才の幹部として大活躍をした。
水星こと、有山氏には一度サンシャインシティでお目に掛った事がある。
当人曰く、池袋生まれ池袋育ちの池袋っ子として、父・清、母・ヒデの四人兄弟の三男として出生。父の清は鉱山技師をやっていた。
敗 戦後の混乱と青春期特有の屈折や挫折を味わいながら、成長し、当時の京橋化学工業高等学校(後の東京都立羽田工業高等学校)に入学したものの、勉学に身が入らず、2年で中退。
高校中退後、関西へ移住。神戸港で人足・荷揚げの仕事をしながら、関西喜劇の大御所、曾我廼家明蝶に師事。本名の信男から「曾我廼家信蝶」と名乗る。
また、この頃、志賀廼家淡海一座にも出入りしていた、とご本人の証言。
但し、淡海は1956年に亡くなっているので、在籍したのはわずかな期間であったという。それでも舞台作法やルールなどはみっちりと仕込まれ、後々役立つ事となった。また滝一平の一座にも出入りしていたともいう。
19歳の折に「喜劇は、二十過ぎてやる仕事ではない」という決心をし、人伝を頼りにコロムビアの岩田善六郎と知り合い、帰京。
磐田から水車プロダクションと、売り出しの漫才師、直井オサム・大沢ミツル(後のピーチク・パーチク)を紹介されたが、青空一門を希望し、まずコロムビア・ライトの許に入門。
ライトの運転手をしていた鈴木多喜夫こと青空南児とコンビを組み、「青空北児」と名乗る。順調な滑り出しを見せたものの、間もなく南児がしくじり、コンビ解消。
当人曰く、「南児さんはいろいろと問題が多い人で、舞台の上かなんかで、障害者をネタにして、障がい者の人とのトラブルを起こしてしまった」との事である。
解散後、兄弟子・青空うれしの勧めで塙健二とコンビを組み、「南児・北児」を復活させるが、こちらもうまく行かずに解散した。この塙という人は、うれしの大学(駒沢大学)の後輩で、「実に達者な人でしたが」と本人いわく。
解散後まもなく、作詞家の首藤正毅(後に一代のぼると改名)の紹介で、流しをやっていた坂本昭道とコンビを組むこととなり、「青空水星・木星」。従って、「青空水星」と改名している。
相方の木星は、Wエースの丘エースとして活躍した事もあってか、割かし資料がある。特にまとまっているのは『東京漫才列伝』であろう。
丘の方は北九州市で、谷と同じく昭和18年生まれ。「面白い子がいるよ」と近所のおかみさん連中に人気があった。鳩に凝って高校を中退。日本水産のサラリーマンだった父親のコネで、高卒といつわって子会社に就職、鯨や塩サバを売った。
成人式が近づき、高卒という嘘がバレちゃうと上京。 昭和35年だった。
お笑いの世界を目指した。
どうしていいかわからない。あろうことか、新宿で流しをやった。ギターを抱えていたが本人は弾けない。組んだ相手が「帰って来いよ」 や 「夕焼け雲」を作曲した一代のぼる。
コロムビア・トップがひいきにしていた。
「ギターも弾けねえんか、バカヤロー。まあいいや、こっちへ来て飲め」
漫才師になりたいならと、青空一門に入門することになり、トップに「うちへ来い」といわれて内弟子3年。 最初に内弟子同士で青空水星 (本人) 木星でデビュー、3年で解散。
「水星木星」コンビで、3年ばかり活躍したという。「一応師匠のつてで司会漫才とかやりましたが」との事であったが、千夜一夜やはるおあきおのような売れ方はせずに、限界を感じて、解散した。
水星は自身の限界や諸事情のために、漫才師から一線を退き、マネージャーに転身。浅草の小山芸能へ出向いて、小山喜一郎に師事。マネージャー業や興行の勉強をし、師匠トップのマネージャーとなった。
長らく師匠について回り、1974年の参院選出馬にも関与。師匠の右腕として働いていたが、1986年3月19日、突如師匠から破門の手紙が届き、マネージャーを解雇される。
本人曰く、「手紙で破門を通告するというのが許せなかった。師匠の小心さというか、狡さというかね。議員という立場であったのも、理由の一つであったよ。法律を作る人間が解雇手続きも取らずにいきなり破門するとは何事だというので……当然納得できないから師匠と喧嘩する事になって、揉めに揉めた末に300万円の退職金で手を打つことになりましたよ。青空一門の結束のために辞める気でいて、本当に辞めたのですが……」。
この一件以来、青空一門を去り、完全に芸能界から足を洗った。それでも青空一門とは一応の連絡や交友は残しておいたという。
廃業後は、タクシーの運転手に転職。国際タクシーに14年間務め、後年、個人タクシーを持って働くようになった。
タクシー業界では芸能界で鍛えた対応や事務処理が評価され、労働組合中野支部副支部長にまで昇格している。74歳まで個人タクシーの運転手を勤めあげ、引退。
2019年時点では健在であったが、今はどうだろうか。「数年前大病をしまして」と何度も言っていたのが気になるが――知る由もない。
一方の木星は、「青空石松・国松」を結成して再起を図るが、1年足らずで解消。当時、Wけんじ門下であぶれていた谷エースと仲良くなり、コンビを組む話となった。『東京漫才列伝』によると、
昭和44年。お互い相棒を切らしていた飲み友達の丘と谷が「じゃ、一緒にやってみるか。名前を考えなくちゃ」と、トップに相談に行った。その名前が七松・国松。七は縁起がいいからだとか。 「師匠がつけてくれた名前だけど、 羽織袴でやるような古くさい名前は嫌だ」 帰りのバスの中で丘が言い出した。
谷の元の「Wエースでやろう」と、そのまま仕事で使いだした。もちろんトップの了解は取ってない。
「折角、いい名前を考えてやったのに」
トップはへそを曲げる。5年後にNHK漫才コンクールに優勝するまで、口をきいてもらえず、破門扱いとなっていた。
その後は、Wけんじを頼る形で仕事を得、腕を磨いた。当初はチグハグな芸風で迷走模したようであるが、丘エースが粛々とボヤき、それを谷エースがやっつける漫才を展開。
後年、これは「逆転漫才」として人気を集めた。
この「Wエース」の活躍はまた別項に記します。