中村目玉・玉千代

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中村目玉・玉千代

  人物

 中村なかむら 目玉めだま

 ・本 名 ??
 ・生没年 ??~昭和24年/1949年12月
 ・出身地 東京?

 中村なかむら 玉千代たまちよ

 ・本 名 ??
 ・生没年 ??~昭和56年/1981年以前
 ・出身地 ??

 来歴

 浪曲漫才だったそうであるが、詳しい事はよく解らない。そこそこの人気はあったのは間違いないようだ。

 前歴は何一つ分かっていない。浪曲漫才をやっていたところを見ると、浪曲か、あるいは前田勝之助のように民謡歌手から出たのではないかとおもわないこともないが、あくまでも推測の領域を出ない。

 昭和10年代から浅草を中心とする番組に出演し始めており、幾つかで確認することが出来る。その中で、浪曲漫才であったという証拠を挙げておこう。

色川 思い出さないなア。中村目玉・玉千代というのがいたね。浪曲漫才だ。これ、よかった。
立川 それから、顔じゅうキセルをぶら下げる竹の家雀右衛門。
色川 ああ、いたいた。雀という字を書くのね。それで、ポロポロッと落っことす。ぼやいてばかりいてね、これが面白かった。

(色川武大「寄席放浪記」 174頁)

 芸にうるさい色川武大がいいというのだから、どういう漫才をやっていたのか、結構気になる所ではある。

 戦時下、多くの漫才師が疎開したり、転居を繰り返す中で、目玉はかたくなに浅草に居続けたそうである。「民族芸能」の中に詳しく書かれていたはずだが、さて何処に出ていた事やら。

 終戦と共に、また復活を遂げた目玉は、浅草の木馬館を中心に出演をしていた模様で、1947年7月に発行された「演藝新聞」を見ると、

駒若興行部木馬館演藝場

 立花家梅奴
 中村 目玉

(「演藝新聞」昭和22年7月一週号 4頁)

 看板芸人の一人として扱われている。同じページには、青柳ミチロー・柳ナナの名前もあるので、看板としては大きかったのではないか。なお、立花家梅奴は目玉の相方ではなく、安来節の歌い手ではないかと推測される。

 スタートが早いだけあってか、あわよくば東京漫才の幹部になれるかも知れなかったが、世の中とは惨酷なもの、復興を目の当たりにして、目玉が急死するという悲劇に見舞われた。その死は真山恵介の「寄席がき話」に記されている。

 栗友亭の楽屋では二十四年の十二月にコンビの”目玉”に先立たれた”玉千代”が下座を引受け、松鶴家日の一やハチロー、さては坂野比呂志のなどもよく世話をやいてくれ、ヨキ先輩ぶりを発揮している。

(真山恵介「寄席がき話」 63頁)

 空襲や戦後の動乱を生き抜き、やっと平和をかみしめた矢先に亡くなるとは、何と哀れな話であろうか。これは都家福丸などにもいえることであるが、戦後直後、看板級の漫才師が結構死んでいる。この現象は一体何なのであろうか。

 相方と死に別れた玉千代は漫才師から足を洗い、裏方へと転向した。所謂、出囃子や効果音を担当する「下座」である。その実力と経歴から、漫才研究会発足および栗友亭の立ち上げの時には一役を買った。

 栗友亭時代の折には、多くの漫才師に慕われ、影の功労者として、舞台を支えた。青空うれし氏に聞いた話によると、結構厳しい人だったとかで、

 昔、東喜代駒さんが、栗友亭に遊びに来ていたんだけど、そんな日に限って、後が来ていなかったのか、出る人がいなかったんだな。それで、喜代駒さんが出てやるってことになったんだ。その頃、あの人はバイオリン演歌をやっていたんだけど、これが面白くないんだ(笑)。
 それでも四十分くらいやっていたら、後の出演者も来たし、お客さんも増えたからって下りてもらった。そこまではよかったんだけど、その時に司会進行もやっていた前座の春日三球がお客さんの前で「どうも長々とお見苦しいものをお見せいたしまして」(笑)。そしたら、下座にいた玉千代さんが「馬鹿野郎! お前なんてことを言うんだ!」(笑)。

 なる逸話を教えてくださった。もっとも、三球さんがいくら若手だったとはいえ、喜代駒相手にそんな事をいえば、怒られるのは当然かもしれない。

 話によると、栗友亭閉鎖後は、どうやら木馬館の下座をやっていたそうである。玉千代の没年もはっきりとはしないが、1976年付の物故者名簿にその名が載せられている所を見ると、それ以前に亡くなった模様か。

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