高峰青天・幸天

高峰青天・幸天

青天・幸天(右)

 人 物

 高峰たかみね 青天せいてん
 ・本 名 岡村 保二
 ・生没年 1933年~ご健在?
 ・出身地 新潟県 加茂市

 高峰 幸天こうてん
 ・本 名 榎 健一
 ・生没年 1940年9月28日~?
 ・出身地 長野県 松本市

 来 歴

 高峰青天・幸天は戦後活躍した漫才コンビ。リーガル天才・秀才門下の新鋭で、ハツラツとした話術で嘱望されたが4年で解散した。高峰青天は後に神田勢山という講談師となり、幸天は高峰一軒という名前で司会漫談家となった。 

 青天は元の「東晴々」。1951年に早稲田大学へ進学し、向井爽也率いる軽演劇集団「海賊クラブ」に所属――野末陳平や神津善行とも面識があったという珍しい存在であった。

 当初は役者を目指したが、途中でリーガル天才・秀才門下に収まり、1961年に「東晴々・谷朗々」を結成。詳しくは同頁を参考にしてください。

 1965年にバンドマン上がりの榎健一を誘い、「高峰青天・幸天」を結成。

 幸天はバンドマン出身で、学校卒業後に上京。バンドに加入し、ボンゴ・コンガを叩いていた――という変わり種であった。そのため、音楽の素養があり、司会術などの心得もあったという。

 1968年3月2日、第16回NHK漫才コンクールに出場。手元に資料があるので写してみよう。

12「お見合心得帳」高峰幸天・高峰青天
 長身でハンサムを売りものにする青天は三条市出身、昭和30年に早稲田大学を出て、軽演劇を経て36年漫才にとび込んだ。かつての晴々朗々の谷晴々である。
 一方、栄養のよさを誇る幸天は、松本市出身。バンドマンの出だけあってボンゴ・コンガを叩かせるとうるさい。コンビ結成して二年半。去年につづいてこのコンクール二度目の出場。
 司会の仕事が多く、師匠(天才・秀才)のカラーに似て、都会的なセンスで勝負する。ともかく高峰一門の筆頭だけに、この舞台に寄せる意気込みは大きい。

 ただし、この大会では入賞せず落選。

 1968年夏、東京太・京二、南順子・北ひろし、青空はるお・あきおなどと共に「漫才グループ21」を結成。

 同年8月18日に本牧亭に於て「第1回公演会」を行っている。この時見ていたという向井爽也は「話の内容で優れていた」と写真入りで称賛している。

 1969年2月15日、第17回NHK漫才コンクールに出場。

4「評論家時代」高峰青天・高峰幸天
「大空」とつくのがヒットますみ門下、「青空」とつくのがトップ・ライト門下であるように、「高峰」を冠さるのは天才・秀才門下である。マンザイはみんな天に向ってのびている。
 そのせいか青天は一七五㍍と、グンと高い。昭和7年新潟県生まれで、プロレスのG馬場とはイトコ同士に当る。「まさか?」と思われる方があったら、面と向って尋ねてみればよい。早大出のインテリでもある。かつての晴々朗々の朗々である。
 幸天は長野出身で、バンドマンの出。コンビ結成して三年半、コンクールは三度目の出場。都会的なセンスを売りものにしている。

 2度の挑戦失敗で行き詰まりを感じたのか、1969年夏、コンビ解消。幸天は司会者に転身し、青天は妻と共に「青天・マチ子」を結成した。

 青天は「青天・マチ子」、「ミス高峰・ミセス高峰」などを転々とした後、講談の2代目神田山陽に入門。「神田勢山」と名乗る。この夫婦漫才の模様はまた別項を記そう。

 一方の幸天は数年ほど司会者として稼いでいたが、1973年に兄弟子のケーシー高峰の勧めで彼の事務所に所属。「高峰一軒」と改名して漫談家として舞台に立つようになった。

 リーガル天才やケーシー高峰の後ろ盾もあり、歌謡ショーや演芸会などの仕事がそこそこあったようである。

 平成初頭まで舞台に立っていたらしいが――その後の消息は不明。

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