お笑い新幹線(水原雪雄・みのべ実)
人 物
水原 雪雄
・本 名 菅谷 武司
・生没年 1928年4月9日~1999年7月18日
・出身地 北海道 函館市
みのべ 実
・本 名 ミノベ ミノル(字不明)
・生没年 1935年頃~没?
・出身地 東京 尾久
来 歴
お笑い新幹線(水原雪雄・みのべ実)は昭和末~平成にかけて活躍した歌謡漫才。水原は「春日富士松・雪雄」以来の漫才師であり、みのべはアマチュア物真似芸人から、小島宏之とダイナブラザーズのメンバー、歌謡漫談「お笑い新幹線」を組んだという変わり種であった。
水原雪雄は「春日富士松・雪雄」の後の姿である。経歴は「春日雪雄」を参考にせよ。
北海道出身で、中央大学卒業後、2年ほど神奈川県で教師をやっていたが、1954年3月、教員を辞職し、コメディアンに転向。
1955年に春日富士松とコンビを組み、3年ほど活動したが、冨士松と喧嘩をしてコンビを解消。ハワイでの劇場管理人を経て、「辻ひろしとハッタリーズ」に参加。長い間、ギターを担当していた。
1966年、ハッタリーズを脱退、新たに「冗談プレイボーイズ」を結成。この頃、コメディアンとしての活動も再開し、喜劇の舞台などにも立つようになった。
1967年4月16日、浅草演芸ホールで結成記念公演を行い、師匠分と崇める榎本健一がゲストとして出演して大きな話題を呼んだ。『週刊平凡』(5月11日号)によると、「エノケンが実の息子のように可愛がっている水原のために駆けつけた」そうで、「私の青空を唄う大サービス」だったという。
1970年、「冗談プレイボーイズ」を発展させる形でコミックバンド「プレイボーイズ」を編成した。長らくコミックバンドを率いる傍ら、コメディアンとしての活動を続けてきたが、思うところあって、グループ解散。
1977年、春日富士松とのコンビを再結成する事となった。翌年3月の第26回NHK漫才コンクールに出場、三味線漫才『湯島の白梅』を披露しているが、完全復活には至らず、1年足らずで別れている。
コンビ解消後は水原梅介とコンビを組み、「ぼやきジャッキー」なる名前で活動。この梅介ともコンビがうまくいかず、最終的に組んだのがこのみのべ実であった。
みのべ実は『日本演芸家名鑑』に写真こそ出ているものの、生年と本名が記載されておらず、謎の点が多い。
ただ、『週刊平凡』(1967年3月9日号)掲載の「ものマネ人生も楽じゃない」に詳しい経歴が出ていた。
この中に「小島宏之とダイナブラザーズのみのべ実(32歳)」とある。ここから逆算をした。
記事によると、「あっしは経師屋の息子で、経文や巻き物の表具をやるってとこぐらいかな」そうで、「尾久(東京・荒川区)で経師屋をやっているオヤジもものマネがうまいんです。オヤジをみならって、ラジオの『素人寄席』なんかじゃカネ三つ鳴らしたことがあるんですよ」。
父親譲りのモノマネで学生時代から、当時流行していたのど自慢に出演し、声帯模写を披露。のど自慢荒らしとして知られたという。
ただ当人は芸人になるつもりはなく、実家の経師屋の仕事についていた。道楽のような形で放送局や演芸会に出ていたという。
1950年代後半、浜松で「モノマネのど自慢」なる公演があった際、客席で見ていたのが小島宏之であった。小島は師匠の川田晴久を失い、地震も体調不良でチームを失くした手前、再編成を考えていたという。
「歌謡漫談にならないか」と誘われたというが、みのべは「そういう柄ではない」と断った。その後も経師屋の仕事を続けていたが、1961年、3年ぶりに小島宏之が店に訪れ「仲間になってくれ」とスカウトに来た。
その小島の熱意にほだされ、また芸が好きだった事もあり、「経師屋の仕事よりも向いているのでは」と家を飛出して、「小島宏之とダイナブラザーズ」に加入した。
当時はギターを持ち、メガネをかけたスタイルで高座に立っており、芸名は「美のべみのる」といった。
ダイナブラザーズ時代には「歌謡漫談の植木等」を売りにし、植木等そっくりの声色と当て振りで喝采を得たという。当人は「照れくさい」とあまり好んで演じる事はなかったが、人気はあった。
1965年、「ボーイズ協会」設立に伴い入会。初期メンバーとなる。
10年ほど「ダイナブラザーズ」に所属していたが、1970年代初頭に離脱。独立して「お笑い新幹線」を結成する。
美山ジロー、石田昌巳のトリオで活動していたが、1980年に二人が脱退したため、水原雪雄とコンビを結成。「お笑い新幹線」の名義を引き続き使用する。
その後は主にボーイズ協会の興行や寄席に出演。安定した笑いと演奏技術で古老の地位を得た。
水原は平成初頭より協会の幹事を務めていた。裏方としても優秀で、ボーイズ協会の発展に貢献を残した。
1999年に水原が死去した後は、みのべは引退した。