桜川ぴん助・美代鶴

桜川ぴん助・美代鶴

 人 物

 桜川さくらがわ ぴん助
 ・本 名 長田 兼太郎
 ・生没年 1897年10月12日~1987年7月15日
 ・出身地 神奈川県 横浜市

 桜川さくらがわ 美代鶴みよづる
 ・本 名 長田 高子
 ・生没年 1913年6月5日~1999年5月1日
 ・出身地 愛知県 名古屋市

 来 歴

 自伝『ぴん助浮世草子 たいこもちの女談・芸談』に経歴が詳しく乗っており、本稿はその引用というべき様なものである。

 ぴん助の実家は「金沢屋 山長材木店」という材木問屋。先祖は源義朝を暗殺した長田忠致だというが、実際はその庶流ではないだろうか。ただし、由緒のある家ではあったという。

 英学校などに通うなど、裕福な家柄に育ったものの、勉強に身が入る事はなく、幼い頃から芸事に親しむ道楽息子であったという。

 16歳の時に深川の井芳に奉公したが、徴兵検査以来、芸道楽に凝り始め、二代目月の家鏡に入門し、「月の家うさぎ」と名乗る。

 その後、柳家三語楼の門下に移って、燕雀を名乗り芸人として活躍する傍ら、豊年斎梅坊主に入門してかっぽれを学んだ。また女道楽にうつつを抜かした。

 中でもすごいのは、関東大震災の中で芸者とsexをしたという事である。『ぴん助浮世草子 たいこもちの女談・芸談』の中に――

 表へ出て見るってえと、横浜から東京へかけて、海の向うが真っ赤なって、そりゃあもの凄い眺めだったよ。
 夜んなったって余震がしょっちゅう、グラグラやってくるんだ。そんときにね、芸者の一人に、
「どうだい? やけにゆれるけど、こんだけゆれりゃあ腰ぃ使わなくったってすみそうだから、話のタネに一つやろうよ」
 ってえと、
「面白そうねえ、やろうか?」
 ていうんだ、その妓が。 それで、グラグラ余震がする最中に、やったよ。
 今でいやあローリングベッドってのかい? ほら、連れ込みにあるってえやつさ。えっ? いえ私あ知らないよね。ああいうとこが盛んになったときにゃあ、こっちのほうが盛んじゃあなくなっちゃってたもの。
 でも、さすがにね、こんときゃあ周りに人がいるから、落着いちゃあやってらんないよ。ちっともよかぁなかった。え? いいわきゃあない? 人が死ぬか生きるかってえときに不届きだ? いえ、不届きじゃあねえんだよ。こっちゃあもう、
「助からねえかも知れねえぞ」
 って思ってたから、オマンコの仕収めってつもりだったんだよ、本当に。

 震災では大きな被害を受けず、しかし、この道楽や散財の積み重ねが親の怒りに触れる所となり、家を勘当された。

 勘当後、仲間たちに幇間転向を勧められたが、思う所あって東京を離れ、名古屋へ転居。大須にあった文長座という寄席の専属となる事となった。この時に落語界のシーラカンスこと雷門福助と出会っている。

 名古屋で活躍していた春錦亭柳桜に可愛がられて、その下で修行をした。当人曰く「春錦亭柳叟と名乗った事もある」という。

 その傍らで女道楽に没頭し、自伝の中でも相当頁を女道楽に費やしている。

 長らく名古屋に居着いていたが、贔屓の石黒豊蔵という人に勧められて幇間に転向。知り合いの立花家朝之助の弟子となって「立花家朝六」と名を改める。

 その頃、太神楽の海老一ぴん輔に出会い、彼から譲られる形でぴん輔の名前をもらう。師匠の朝之助が夜逃げした事もあり、松廼家米蔵の勧めで「松廼家ぴん助」と再改名。海老一への義理からぴん輔の字を「ぴん助」と改めた。

 1934年頃に、赤坂の桜川梅寿を頼って上京。彼の門下に入って、「桜川ぴん助」となる。踊りやお座敷芸は無論のこと、鳴物を住田長三郎に師事し、習得した。

 美代鶴は、元々は名古屋浪越芸子連の出身、西川流の名取。 『芸能画報』(1959年4月号)掲載のプロフィールの中に、

美代鶴 ①長田高子②大正2年6月5日③名古屋④名古屋浪越連芸妓より、戦時中漫才に転向す。舞踊を西川鯉三郎に鳴物を住田長三郎(鼓)に師事し学ぶ。

 とある。

「玉木の美代鶴」として大いに売った美貌と芸の持ち主であったが、1937年頃、ぴん助と結ばれた。本人曰く、「魔が差した」というのだから、トンデモナイ夫婦である。

 結婚当初、美代鶴は家庭に入り、ぴん助一人で働いていたが、1939年頃、歌手の赤坂小梅に薦められ、漫才に転向。

 戦前は新興演芸部に所属し、大阪を活動の拠点にしていたが、漫才はあまり好きではなかったと見えて、自伝の中では「乞食漫才」と連発しまくっている。ただ、この頃に秋田実などと交遊を結んでいる。

 1948年、妹に誘われて東京へと戻る。食いつなぐ為に漫才を続投し、早稲田ゆたか亭などの端席に出演していた。

 同年暮、東宝名人会の代演を引き受けたのをキッカケに落語協会に誘われるが、故障があって挫折。

 翌年の1949年、古今亭今輔の斡旋で芸術協会に所属する事となり、正月初席より新宿末廣亭に出演。以来、寄席の色物として活躍する傍ら、貴重な幇間としての活動も続けた。

 漫才を見下す発言もする一方で、自身が苦労人のたたき上げであったこともあってか、若手には優しく、包容力と指導力のある人物であった。コロムビアトップ・ライトが駆け出し時代に、ぴん助の家の屋根裏を借りていたのは有名な話である。

 それ以外にも、青空うれし・たのし、新山ノリロー・トリロー、美田朝刊・夕刊など多くの漫才師の面倒を見た。

「魚釣り」や「かっぽれ」といった寄席の踊りをはじめ、ハタキをぶら下げる芸やゴリラの物真似などが売り物で、独特の飄逸さと叩き込んだ技芸が見事に混ざりあった独創的な漫才で人気を集めた。その頃の芸風が松浦善三郎『関東漫才切捨御免』(『アサヒ芸能新聞』1954年4月4週号)の中に出ている。

桜川美代鶴・ぴん助 既に部内の定席でおなじみの音曲漫才新興時代からの古顔。ちよっと放送での活躍が少ないようである。が御目当てが舞踊のためか。美代鶴の三味線も結構。ぴん助の踊りは定評のあるところ。御座敷ものだが「おしの釣」など通好み。渋い江戸風を味わわせてくれる舞台として珍重したい。

 1955年、漫才研究会創立に伴い入会しているが、面白くないことが多かったらしく、脱退と再入会を繰り返している。

 1961年、宮田洋容の分裂騒動の際には、宮田派について脱退。東京漫才協会の立ち上げに尽力することとなった。後年、宮田の後を受けて、会長の座についている。

 寄席やメディアに出演する傍ら、ぴん助は廃れ行くかっぽれや御座敷芸の未来を危惧し、1968年にはぴん助道場を開いて、梅坊主由来のかっぽれの伝承と普及に努めた。晩年はかっぽれやお座敷芸が認められ、それを記録する映像やレコードなどが制作された。

 1976年4月限りで芸術協会を退会。以来はフリーで活躍するようになった。

 身近な所では、1979年8月15~6日、国立演芸場で行われた『夕涼み演芸名人会』、1980年1月3~6日に行われた『新春国立名人会』などがある。

 傘寿を超えてもぴん助は矍鑠と後輩の指導をしていたが、1980年に脳梗塞に倒れ、娘・芳子に跡を譲り引退。

 晩年、夫婦仲はあまりよくなかったそうで、倒れたぴん助の面倒は娘が見ていたという。

 また、晩年、美代鶴は老年によるボケがあったとかで、長らく交遊のあった青空うれし氏曰く「受け答えが出来なくなっちゃってよ、諦めて帰ってきたことがある」。なお、美代鶴の没年は清水一朗氏の調査で判明した。

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