桜川ぴん助・美代鶴

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桜川ぴん助・美代鶴

桜川さくらがわ ぴん助

・本 名 長田 兼太郎
・生没年 1897年10月12日~1987年7月15日
・出身地 神奈川県 横浜市

桜川さくらがわ 美代鶴みよづる

・本 名 長田 高子
・生没年 1913年6月5日~1999年5月1日
・出身地 愛知県 名古屋市

 来 歴

 自伝『ぴん助浮世草子 たいこもちの女談・芸談』に経歴が詳しく乗っており、本稿はその引用というべき様なものである。

 ぴん助の実家は「金沢屋 山長材木店」という材木問屋。先祖は源義朝を暗殺した長田忠致だというが、実際はその庶流ではないだろうか。ただし、由緒のある家ではあったという。

 英学校などに通うなど、裕福な家柄に育ったものの、勉強に身が入る事はなく、幼い頃から芸事に親しむ道楽息子であったという。

 十六歳の時に深川の井芳に奉公したが、徴兵検査以来、芸道楽に凝り始め、二代目月の家鏡に入門し、「月の家うさぎ」と名乗る。

 その後、柳家三語楼の門下に移って、燕雀を名乗り芸人として活躍する傍ら、豊年斎梅坊主に入門してかっぽれを学んだ。しかし、この道楽や散財の積み重ねが親の怒りに触れる所となり、家を勘当された。

 勘当後、名古屋に拠点を移し、噺家として活躍していたが、贔屓の勧めで桜川梅寿の門下に入り、幇間に転向。踊りやお座敷芸は無論のこと、鳴物を住田長三郎に師事し、習得した。

 美代鶴は、元々は名古屋浪越芸子連の出身、西川流の名取。「玉木の美代鶴」として大いに売った美貌と芸の持ち主であったが、一九三七年頃、ぴん助と結ばれた。本人曰く、「魔が差した」というのだから、トンデモナイ夫婦である。

 結婚当初、美代鶴は家庭に入り、ぴん助一人で働いていたが、一九三九年頃、歌手の赤坂小梅に薦められ、漫才に転向。

 戦前は新興演芸部に所属し、大阪を活動の拠点にしていたが、漫才はあまり好きではなかったと見えて、自伝の中では「乞食漫才」と連発しまくっている。ただ、この頃に秋田実などと交遊を結んでいる。

 戦後の一九四八年に上京。古今亭今輔の内輪に入り、翌年、落語芸術協会に入会、寄席を中心に活躍。お座敷芸を基盤にした漫才を得意とした。

「魚釣り」や「かっぽれ」といった寄席の踊りをはじめ、ハタキをぶら下げる芸やゴリラの物真似などが売り物で、独特の飄逸さと叩き込んだ技芸が見事に混ざりあった独創的な漫才で人気を集めた。

 寄席やメディアに出演する傍ら、ぴん助は廃れ行くかっぽれや御座敷芸の未来を危惧し、一九六八年にはぴん助道場を開いて、梅坊主由来のかっぽれの伝承と普及に努めた。晩年はかっぽれやお座敷芸が認められ、それを記録する映像やレコードなどが制作された。

 身近な所では、1979年8月15~6日、国立演芸場で行われた『夕涼み演芸名人会』、1980年1月3~6日に行われた『新春国立名人会』などがある。

 傘寿を超えてもぴん助は矍鑠と後輩の指導をしていたが、一九八〇年に脳梗塞に倒れ、娘・芳子に跡を譲り引退。

 晩年、夫婦仲はあまりよくなかったそうで、倒れたぴん助の面倒は娘が見ていたという。

 また、晩年美代鶴は老年によるボケがあったとかで、長らく交遊のあった青空うれし氏曰く「受け答えが出来なくなっちゃってよ、諦めて帰ってきたことがある」。なお、美代鶴の没年は清水一朗氏の調査で判明した。

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