荒川芳勝・八千代

荒川芳勝・八千代

 荒川芳勝(左)

 人 物

  荒川あらかわ 芳勝よしかつ 
 ・本 名 三ツ木 萬蔵

 ・生没年 ??~昭和51年/1976年以前
 ・出身地 ??

  荒川あらかわ 八千代やちよ
 
 ・本 名 三ツ木 ちよし

 ・生没年 ??~??
 ・出身地 ??

 来 歴

 関西出身の古い漫才師で、「四つ竹」を打ち鳴らすネタを得意としたと伝わるが、今一つ実像が判明しない不思議なコンビである。無いと思うと、一応の資料はあり、詳しい事を調べようとすると、その資料はない、というのだから禅問答の如しである。


・漫才以前

 芳勝がどこの某で、どういう活躍をしていたか、ハッキリとしたことは分からないが、亭号の通り、関西の名門「荒川」一門の出身であることは間違いなさそうである。

 今でこそ、漫才に亭号が少なくなってしまっているが、昔は漫才にも落語家と同じような亭号があった。有名どころでは、「玉子家」(玉子家円辰が創始)、「砂川」(砂川捨丸が創始)、「松鶴家」(松鶴家千代八が創始)などがあり、またその弟子筋の名前として、「荒川」(円辰の弟子、荒川浅丸が創始)、「菅原家」(円辰の弟子、菅原家千代丸が創始)、「河内家」(円辰の弟子、芳春・千代鶴夫妻が創始)、「浮世亭」(砂川捨丸の弟子、浮世亭夢丸が創始)などが挙げられるだろうか。

 その中で、「荒川」は円辰の高弟、玉子家浅丸が独立し、打ち立てたとされている。浅丸は本名、藤川浅次郎といい、大阪荒川の生れ。そこから「荒川」の名を拝借したという説があるが、定かではない。

 浅丸は弟子の育成に熱心で、彼の門下から、荒川芳丸、荒川千成という大看板が生まれた。この二人もまた弟子の育成に熱心で、前者の弟子に夢路いとし・喜味こいし、後者の弟子筋に若井はんじ・けんじがいる。

 芳勝は、荒川芳丸の弟子、或いは弟子筋ではないかと推測する。名前からして、多分そう考えるのが妥当なところであろう。

 なお、「東京漫才」の一員である、荒川清丸は、本人の頁でも詳しく記したように、本名「荒川清一」から芸名をつけたのであって、芳丸や芳勝などとは流れが違う事を、もう一度明言しておく。

 八千代の方は、素性が明らかになっていない一人で、何処で何をしていたのか見当もつかない。芳勝と夫婦だった事だけが判明している。

 

 ・東京漫才の一員として

 何かしら事情があって、東京漫才の一員になった模様であるが、詳しい事情や東京へやってきた理由は分からない。

 二人は昭和10年代から、ポツポツと浅草の舞台に出演をし始めるようになり、松竹系のグループに所属した模様である。

 浅草を中心とした活躍をしていたこと、当時から四つ竹を打つ漫才を得意としていた事はハッキリしているが、それ以外の事はよく分かっていない。浅草という土地柄上、あるいは漫才という芸質上、資料も記録も少ないので、何をやっていたのか、見当がつかないのである。

 

 ・戦後の動向

 戦後も相変わらず、「四つ竹」漫才を得意としていたとかやらで、浅草でそこそこの人気があったという。

 その事もあってか、「アサヒ芸能新聞」連載の「関東漫才斬捨御免」にも、彼らの事が記されている――といえば、体面がいいが、実際は、これが数少なく芳勝・八千代の面影を偲ぶことのできる貴重な資料でもある。この中に芸風もまとめて書かれているので、少し長いが、全文引用することにしよう。

 荒川八千代 芳勝

先年葛飾の小芳が亡くなったので、此の芳勝が現在生き残って活躍している斯界の名門荒川派の、数少なくなっている旗頭組の一人。
従って舞台歴も古いし芸もしっかりして居る点は、戦後の渉外手腕で一部の人気を獲得した人々等は足許にも及ばない。
十八番は四ツ竹を鳴らしてのアンマ珍舞踊(八千代の三味線伴奏)(四ツ竹等は幕末から大正の初期迄浅草の奥山あたりに、一種独特の売芸者として存在して居た訳であるが其の型を僅かに残している珍舞台である)
惜しむらくは大概背広服の儘で之をやるが、漫才としてもあく迄黒無地の和服で演るべきであろう。
カラーが音曲漫才的なものであるから呉々も面倒がらずに舞台は和風たるべきこと――この事は先年本誌に帝劇の関東漫才評を書いた折、今は亡き十返舎亀造君に就ても和服を着るようにいったが実現せぬ内に御当人が他界されたが――要するに故亀造も芳勝もスタイルが多分に江戸風であるから、どうしても和服でないと素人のお客さんからも何か怠けているようにとらわれ、本人が損、着物のついでに言うがコンビの八千代は何時も舞台衣装が地味に過ぎはしないだろうか。歳の事など忘れてもっと派手で結構。
常に浅草を拠点に活躍して今日才界で相当な看板であり乍ら浅草を捨てない律儀な面も一般に好感を持たれている。

(「アサヒ芸能新聞」1954年1月3週号 17頁)

 その後、1955年に出来た漫才研究会には、若干遅れながらも入会を果たし、以下の通り、幹事として迎えられている。

  二月廿八日
 研究会出演終了の御礼状を各新聞社(十六)へ出す
礼廻各放送局及、小山芸能社、柵木芸能社、共立芸能社、大朝家、台東芸能社、吉本株式会社、新芸能、帝国芸能中島、毎日新聞社

幹事追加 芳勝、捨勝
書記 サンプク

(八木橋伸浩『南千住の風俗 文献資料編』31頁)

 しかし、この辺りから調子が悪くなり始めたのか、出演記録がだんだん見えなくなり、栗友亭の記録では、

  昭和三十二年度 新年宴会記録

一、會長発言 開会挨拶並びに新コンビ―紹介
一、會員荒川義勝師病気全快挨拶
一、都上英二師挨拶

(以下、挨拶、発言が続くので中略。午後一時四十五分、無事終り)

(八木橋伸浩『南千住の風俗 文献資料編』39頁)

 などという記載が出てくる有様である。そんなこともあったせいか、1959年に栗友亭が閉鎖されると共に、このコンビの消息も辿れなくなる。

 1976年付の「芸能人物故者芳名簿」を見ると、芳勝の名前が掲載されているので、それ以前にはもう物故をした模様か。

 

 余 談

 談志の話によると、兄弟子の柳家小せんの仲人をつとめたそうで、

立川 (中略)それから小せんさんの仲人をやった荒川芳勝といったかな……芳勝・八千代。染団治があのころの王様ですよ。林家染団治。

(色川武大「寄席放浪記」164頁)

 と、色川武大との対談の中で触れている。面倒見のよい性格だったのか。

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