椿晃一・橘眞理子

椿晃一・橘眞理子

 人 物

 椿 晃一つばき こうい
 
・本 名 野澤 憲一
 ・生没年 ??~1956年?
 ・出身地 ??

 橘 眞理子たちばな まりこ
 ・本 名 野澤 文枝
 ・生没年 ??~??
 ・出身地 ??

 来 歴

 素性がほとんどわからないコンビである。幸い(?)にして写真が一枚残っているので、それを載せる為だけの頁のようなものである。

 古老の芸人を尋ねてみたが、皆、「知らない」との返答であった。そのくせ、雑誌の速記などにこのコンビが出ているのだから、謎は深まるばかりである。当時、漫才の速記が雑誌に掲載されるということはそれなりの人気を集めていた証拠だからである。 

 活動は戦前から確認する事が出来る。大体1938年頃から、ちょくちょくと番組の中に現れるようになる。

 元々は先輩の玉子家二三蝶と組んでいた模様。

 1940年3月29日、帝国ホテルで行われた「大日本警防協会代議員会」の余興に出演。『警防』(1940年4月号)によると、

一、浪花節 雲井式部 二、落語 柳家小さん 三、漫才 玉子家二三蝶・椿健一

 戦前の記録の一つに『軍人援護』(1941年4月号)の慰問記事の中で、

續いて午後一時半よりは、講堂に於いて、第一徴兵主催の豪華な演藝大會がくりひろげられた。

一、療養所西村庶務課長開會の辭
一、第一徴兵保険八鍬業務課長の挨拶
一、浪花節 東家楽遊
一、漫歳  椿晄一 橘マリ子
一、歌謡曲 ポリドール 浅草〆香
一、漫歳  杉マサル 杉京美
一、マンドリンと獨唱 コロムビヤ 
            獨唱 刈谷絹子
            東京マンドリンクラブ一、舞踊 浦田勝舞踊團

(この外飛入りとして漫畫家藤井圖夢氏の「両國誌」及び同小川武氏の「漫畫百面相」あり)

 とあり、慰問先でも相応の人気があったことが確認できる。

 戦時中は日本芸術協会(落語芸術協会)に近く、興行に時折参加していた。理由は知らんよ。

 波多野栄一氏の『寄席と色物』だとなぜか「椿健一・真理子」になっている。その中には、

椿健一・眞理子 確かハーモニカを吹いたが若くして亡くした

 とあり、また研究会当日の写真でも、

椿晃一・橘真理子 ハモニカも三味の『六段くずし』などでご機嫌

 というコメントと共にハーモニカを吹いている写真が載っている。

 ハーモニカが売り物だったのは間違いないようだ。しかし、ハーモニカという立派な芸を持ちながらも、都上英二らの華やかな舞台に負けてしまった嫌いがあるのではないだろうか。そう考えてみると華のない、パンチに欠ける芸人だったのではないかと思えてならない。

 さらに漫才研究会が発足した直後に行われた日本テレビの取材と、ニッポン放送で行われた幹事の座談会に出席している。

 その直後、晃一が没したらしく、「東京漫才倶楽部帳」の中を見ると、1956年12月、「会員に紹介する人々」として、「椿マリ子・広太郎」というコンビが記載されている。広太郎という人がどんな人物だったのかもわからない。

また、『週刊東京』(1955年10月号 第一巻第十号)掲載の須田栄『芸界人情話』に、

 ✕……栄竜が漫才の足を洗ってうれしい新世帯の人となると、独りぼっちになった万竜は高円寺の自宅に引篭つて三カ月間、毎日を好きな昼湯に入ることだけを楽しみに暮して来たが、何んといっても芸人にとって舞台を失うのは一番ツラいことであるらしく、たれか適当な相手をと物色して、これはコンビの椿健一に死なれて後家漫才になっている橘眞理子に白羽の矢を立て、隆の家一竜と改めさせてこの8月から新コンビで舞台に返り咲いている。

 と、ある。この後、「椿一龍」と改名し、暫く隆の家万龍とコンビを組んでいたという。このコンビは数年続いたので、そこまでの消息は追えるが、それ以降はどうしたものか。

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