玉子家利丸・松鶴家日の一

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玉子家利丸・松鶴家日の一

左・日の一 右・利丸

 目次

 ・人物
 ・来歴
  ・入門前後
  ・松鶴家日の丸の事
  ・志し、上京にあり
  ・二人の戦後
 ・芸風

人物

玉子家たまごや 利丸としまる

・本 名 中山 利三郎りさぶろう
・生没年 明治36年/1903年9月21日〜昭和55年/1980年2月5日
・出身地 熊本県熊本市

松鶴家しょかくや 日の一 ひ かず 

・本 名 太田?
・生没年 明治35年〜昭和50年代後半?  
・出身地 滋賀県?

  来歴

 この二人はコンビとしての上手さや漫才師の活動というよりも、多くの談話と芸を残したということから、その名を歴史に刻む事となったという異色のコンビである。こう書くときれいであるが、裏を返すと、漫才研究をしていた小島貞二がこのコンビに興味を覚えていなければ、全く忘れ去られた存在になり得る可能性もあったといっていいのかもしれない。

 そんな小島貞二に愛されただけあってか、一応ではあるが、このコンビの動向や消息はある程度知る事ができる。小島貞二の書き方や扱いに疑問を覚える点もあるが、このような資料が残されただけありがたいというのが礼儀だろうか。


・漫才師以前

 利丸は熊本県熊本市生まれ、詳しい経歴がテープの中で語られていたそうで、

 どのカセットのどの面も、開口一番
「熊本市横手町一〇一六番地、明治三十六年九月二十一日生まれ。金箔金星、七赤の卯歳、当年七十二歳。本名中山利三郎、芸名子家の利丸(原文ママ)、死直前の声……」
 とあり、それから本題に入っている。

(小島貞二「演芸博物館 紅篇」 87頁)

 と、「演芸博物館」の中でその一節が紹介されている。

大正9年(小島貞二は8年説を採っている)に玉子家円辰の門下に入り、本名から「利夫」という名前をもらい、修業をはじめるが、兄弟子たちが皆、何丸、某丸と名乗っている所から、いつのまにやら、「利丸」と呼ばれるようになった。小島貞二によると、この利丸が円辰最後の弟子だそうである。

 この頃、円辰はすでに大御所であったが、一座を作っては解散し、また作るといった、浮雲のような生活を送っており、大阪を根城にしているわけではなかった。実際、この数年後には利丸の兄弟子に当たる荒川清丸の招きで上京している。

 一方の日の一は、元々滋賀の大津で、江州音頭の音頭取りをしていた。当時、江州音頭と漫才は深い関係で結ばれており、円辰や捨丸のように、音頭取りから漫才師になる人も結構存在していた。利丸に比べ、日の一の経歴の情報量は少ないが、それでも、

――日の一さんはいつですか?
日の一 私は「桜川虎丸」といって大津で江州音頭の音頭取りでしたが、いろいろあって家をとび出した時、ふと遊びに行った松島で目に入った「江州音頭」の看板にひかれてその立花席に入ったのがきっかけですよ。とび入りで舞台に上って歌ったところが本場仕込みでしょ、大受けでね、「ズッといてくれ」ってことになって月給二十五円貰いましたよ。

(「大衆芸能資料集成 七巻」344~345頁)

 と、文献の中で紹介されている。その時、利丸の貰っていたお給金は13円(当時)だったというのだから、日の一の優遇ぶりがよくわかる気がする。

 日の一が「立花席」の人気者として、江州音頭をやっている時、偶然近くの「中島席」という寄席に出演していたのが、この利丸であった。両方の寄席が間近にある事から、楽屋同士の交流も深く、すぐさま2人は意気投合した。そして、利丸の方から「コンビを組もう」と声をかけたそうで、

日の一 で、利やんに声かけられてしばらく二人で組んでましたが、正式な万才界入りは、当時隣の松島席に出ていた松鶴家千代八の一番弟子の日の丸に数年後京都で出会い「日の一」と名を貰った時です。

(「大衆芸能資料集成 七巻」344~345頁)

 と、回顧している。そして、二人はそれぞれ師匠から名前を貰って、本格的に漫才師の道を歩み始め、その後、上京するわけだが――ここで、日の一の師匠であった松鶴家日の丸について少し触れたいと思う。

 ・松鶴家日の丸の事
松鶴家日の丸は、松鶴家千代八の一番弟子であり、松鶴家を代表する大番頭であった。小島貞二によると、日の丸は、一時期、玉子家円辰らと鎬を削っていた、市川順若の名を継いで二代目として活躍していたといい、利丸によると、子供も漫才師になって、市川小順若、後に二代目を継いだという。

 この証言を組み合わせると、日の丸は、初代市川順若の倅のように見えてくるのだが、果たしてあっているのだろうか。ちなみに、日の丸の甥は、砂川捨勝であったという。だが、ご遺族の話だと捨勝は九州の生れ、日の丸とどういう関係があったのか、となると分からない。

 日の丸は、大正14年時点で大看板として活躍していた模様で、それこそチャップリン・ウグイスや荒川末丸などといった大御所たちと看板を割っていたというのだから、その人気ぶりが覗える。中でも、当時高級な寄席として知られていた南陽館に出演していた事は見逃せない。その出演記録を、ここに引用しておこう。

末春・末義 景山・天地 菊丸・義弘 藤男・光月 正壽・アチャコ 正右衛門・ニコニコ 大正坊・捨次 ウグヰス・チャップリン 花奴・登吉 キネマ・雁玉 春太郎・楽春
千代春・文春 艶子・末丸 一春・芳春 小春・辰丸 小雪・雪江 慶司・日の丸 菊丸・朝日 政夫・日の丸 菊丸・慶司
義弘・正右衛門 福来・福徳 義弘・捨次 日佐丸・朝日
文々・義弘 喜鶴・捨次 五郎・慶司 日代志・金蝶 辰春・房春 春江・千代政 次郎・幸丸 正若・正右衛門 義弘・喜楽

(「芸能懇話 第13号」 21頁)

 相方の政夫、とは「玉子家政夫」(正男名義もある)であろう。彼は円辰の門下出身で、見事な髭と巨体を売り物にした漫才師、だと伝わる。また、もう一方の相方?である、小山慶司も古い漫才師である。しかし、この人が伸びるのは、本格的に林田五郎と組んだあたりからである。奇抜な衣装と、「野球節」なる珍芸で人気を博した、と「大衆芸能資料集成」の中にある。

 その後の消息はイマイチつかめない。大正から昭和初期の名簿にはその名前が出ているのに、昭和11年に至ると忽然とその名前が消える。もしかしたら、前述の通り、日の丸の名を改め、順若になったのかもしれない。

 また、「笑魂系図」を見ると、松鶴家千代八の門下に日の丸の名前はなく、代わりに『日の一 前名 日の丸』と出ている。これは一体どういうことなのか。小島貞二の説を採れば、日の一は千代八の孫弟子に当たるが、笑魂系図の説を採ると、そもそも日の丸は存在しなかったこととなる。なぜだかは知らないが、そのせいで没年は分からない。

 ただ、日の丸は実在の人物であると共に日の一とは別人であったという事は、確信出来るところであろう。

 ※

 志し、上京にあり

 利丸・日の一の来歴に戻る。その後、二人は本格的に漫才コンビを組んだ二人は、関西で一通りの活動をした後、大正10年(1921)早くも上京して漫才をやったという。だが、興行的には余り芳しくなかったと見えて、当の利丸は、

――利丸さんがはじめて東京に来たのは?
利丸 大正十年です。その時鼓を持って舞台に出ると「ゲタを直すのかッ」てヤジられました。下駄の歯を直す職人が鼓を持っていましたからね。

(「大衆芸能資料集成 7巻」 345頁)

  と、回顧している。『ゲタを直すのかッ』となじられたという一節が、当時の漫才に対する生々しい感情と偏見を物語っている。

 その後も順調に漫才をやっていたようであるが、『利丸さんは大阪で大しくじりがあり、』(「演芸博物館」)それがきっかけとなって、大正12年3月、上京し、そのまま定住する。そして、その半年後の9月1日、浅草で関東大震災に被災したが、関西に戻ることなく、東京で活動を続けていた。小島貞二はこの事を

 東京だけのコンビが生まれるのは、震災以後……それも昭和の声をきいてからだから、利丸さんは”上方から来た漫才の尖兵”の一人としての役割も担ったことになる。

(「演芸博物館 紅篇」 85頁)

 と、評している。

 だが、この表記には疑問がある。第一に、小島貞二は、同じ円辰門下である荒川清丸を『東京漫才の元祖』と書いていること、第二に『上方からの進出』というくせに、清丸は「東京漫才」としている点である。この意図があまりにも曖昧すぎて分からない。熊本生まれの利丸は『上方から来た漫才の尖兵』であるのに対し、東京生まれというだけで清丸を『東京漫才の元祖』と称えるのは、如何なるものだろうか。ここをハッキリと分別してほしかった。

 たとえ出身地に違いがあろうとも、上方漫才に足を突っ込み、上方漫才を会得した以上は、「東京漫才」ではなく「上方漫才」であるし、逆を返せば、利丸も「東京漫才の元祖」の一人に成り得るのではないだろうか。だが、小島貞二は荒川清丸のネタや功績を問わず、ここをはっきりと分別している。しかし、その理由は余りにも曖昧で、結局利丸と清丸の差は何なのかはっきりしない。なお、清丸の評価に対する批判に関しては、荒川清丸の頁参照の事。

 それでも東京の地で漫才の啓蒙と先駆けになったのは間違いなく、彼らもまた(マイナーな所はあるけれども)、東京漫才の功労者として認知されるべきであろう。例え、ネタが上方のものだったとしても震災前後にやって来て、東京の地に根を下ろしただけでも立派な仕事である。

 しかし、このコンビの活動自体はあまり長くなかったと見えて、解散。利丸は鈴木照子という民謡上がりの女漫才師とコンビを組み直した。日の一は妻の芳子(明治44年/1907年~?)とコンビを組んでいたようで、波多野栄一は「寄席といろもの」の中で、

 松鶴家日の一 千代太 合棒は女房だったが現在は一人でお囃子などをやってる由

 と、戦前の東京漫才の一組として数えられている。

 ――こう書いてはみたものの、資料が殆どなく本人たちの証言及び、波多野栄一の回顧録を参考にするしかない。松竹や吉本が中心となって盛んに開催していた漫才大会に出演しておらず、かといって寄席に出たという形跡もあまりなさそうだ。小島貞二が「昭和演芸秘史」の中で、利丸は『関西半分、東京半分の芸歴を送った。』と、書いているが、都市部で稼ぐのではなく、地方巡業中心としていた漫才師だったのかもしれない。

 

 ・二人の戦後


昭和27年頃、利丸は巡業先の静岡で持病の眼病を悪化させ、視力を完全に失う。以来、芸能界から足を洗い、杖を頼りに都内の寺院を巡礼する日々を送る。

 日の一も漫才師としての活動から裏方へと回るようになり、兄弟弟子に当たる松鶴家千代若・千代菊の元に身を寄せ、栗友亭や漫才協団の下座や前座をつとめていた。

 昭和30年2月、漫才研究会が設立された当初は、所属こそしなかったものの、一応の関係はあったようで、他の会員よりもよく働いていたようである。青空うれし氏によると、「お囃子もやっていたし、漫才も時々やっていたなあ」。

 日の一が、漫才とお囃子の両方をやっていた事のできる資料を発見したので、ここに引用しておく。

  九月五日(昭和32年 栗友亭)

一、学生時代  南路・北路
一、玄治店   日の一・芳子
一、新婚風景  ススム・陽子
一、歌ふ宗教  豊・いせ路
一、呆れた新婚 ゆたか・三也
一、お父ちゃん 竜二・おこま
一、電氣時代  歌 風

     御中入

一、算数    イチロー・ハチロー
一、歌の旅   英二・喜美江
一、曲芸    富士夫
一、ギャング  トップ・ライト
  おはやし一人  日ノ一
一、腹話術   一路    

(八木橋伸浩編「南千住の風俗 文献資料編」 44頁)

 老いても良く働いていた日の一とは反対に、最晩年の利丸は目も身体も不自由になってしまっていた。彼は北区桐ケ丘にあった青老閣という老人ホームに入居し、ひっそりと静かに余生を送った。

 その頃、小島貞二が古い漫才の取材を兼ねて見舞いに訪れるようになったが、殆ど沈黙を保っており、進んで過去を話そうとはしなかった。日の一を仲介して話を聞き出そうとしても、進展は余りなかった。

 しかし、利丸の死後、状況が一変する。熊本にいた利丸の弟と「青老閣」の施設長から連絡があり、遺言として、小島貞二の下に、諸芸や芸談の詰まったテープが届いたのである。彼は義理知らずでも愛想のない人間でもなく、ちゃんと周りの人々の事を考えていた、思慮深い人間だったと判明した。

 不自由な体を必死に動かしながら、夜な夜な吹きこんだであろうそのテープは、小島貞二を大いに感動させたと見えて、彼はその詳しい顛末とネタの一部を「演芸博物館 紅篇」の中に「漫才の教科書を残した男」という記し、恩を報いている。この記事を書くうえでも大変役立ったのは言うまでもない。

 また、この一連の事情は、「朝日新聞」(1981年12月3日号 夕刊)にも掲載され、美談のように扱われた。(要追記)

 日の一も、昭和50年代には引退していた模様で、小島貞二の仲介をした時にはもう芸界からはほとんど足を洗っていた模様である。その後の消息と没年は不詳であるが、昭和55年に「演芸博物館」が発行された前後にはまだご健在だったようだ。

 数少ない証言として、その晩年、首のあたりに大きな腫瘍が出来、それが元で亡くなった、と松鶴家千とせ氏から話を伺った事がある。

芸風

 コンビとしてどういう芸をやっていたという事は伝わっていないが、利丸も日の一も古いことをよく覚えており、そのネタの一部がテープに吹き込まれたという事である。詳細は「演芸博物館」を参照なされよ――と言いたいが、後々ネタを追記する。

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