荒川末丸・玉子家艶子

荒川末丸・玉子家艶子

  人 物

  荒川あらかわ 末丸すえまる
 ・本 名 ??
 ・生没年 ??~1927年頃
 ・出生地 関西?

 玉子家たまごや 艶子つやこ
 ・本 名 ??
 ・生没年 ??~1935年以降? 
 ・出生地 関西?

 来 歴

 上方漫才の大立者の玉子家圓辰の門人と思われる漫才師であるが詳細はほとんどわからない。 松鶴家千代若によると円辰の門弟だったというが……。

 後述の理由があるため、一応人物欄に入れておいたが、本拠地は大阪だったと見えて、東京の漫才師といわれると疑問が残る人物でもある。

 「東京萬歳」と冠したからと言って、東京人に受ける漫才をやっていたかどうかは分からない。単に上京して東京にいたという理由だけで「東京」と名づけていたのかもしれない。

 当時、出稼ぎのために巡業や安来節の一座に潜り込んで、東京と関西を往復していた芸人はたくさんいた。

 それらを踏まえて考えると、荒川末丸を東京の漫才師と考えるのは流石に無理が出るし、そうでもした日には、東京によく来ていた砂川捨丸や横山エンタツも東京の漫才師に加えねばならなくなってしまう。

 しかし、曲りなりとも最初に(もっとも現段階で、)「東京萬歳」と冠した名前を使用したのは、この末丸である。その業績を讃えるために一応人物欄に入れた次第である。

 大正14年、大阪にあった南陽館という寄席に出た漫才師の一組に、『末丸・艶子』という名前を確認することができる。 (『芸能懇話 第十三号』掲載の樋口保美 「「萬歳」の時代―エンタツアチャコ以前―」)。

 南陽館は当時としては一流の寄席であり、(若松家)正右衛門・正若やウグイス・チャップリンらと並んで出演していた様子を見ると、看板芸人であったことが推測できる。

 しかし、名前と動向が確認できるのはそこまでであり、それ以降は「落語系図」にも記載されていないので、詳細はワカラナイ。

 それらしい記録として、『落語系図』中に、   

 大正三年八月一日より京都市下立賣堀川上ル紅梅館堀川春日座大宮中立賣上ル大宮館
嵯峨餘興場千本長久亭三條國枝館十銭木戸にて掛持興行す

都三友派連名
五代目 月亭  文當
地球亭 ○○
立川  金丸
桂   千賀丸
桂   大三郎
桂   延三
市川  順若
桂   延枝
桂   梅昇
清水  正玉
立川  銀丸
三遊亭 喬登助
市川  お玉・末丸
野戦隊 砲兵

嵯娥餘興場出番
(原文では「女差」という謎の漢字で表記されている)   

かる口 大三郎・千賀丸
萬 歳 順若・寅月
芝居噺 文當
浪 花 二〇加(註・にわか)
切東京萬歳  順若 才若 末丸 お玉 寅月

 國技館出番(原文ママ)   
落 語  延三
かる口  千賀丸・梅昇
手 品  正玉
萬 歳  末丸・才若
落語音曲 銀丸
奇 術  ○○
東京落語 喬登助
萬 歳  お玉・末丸
曲 芸  砲兵
芝居噺  文當
東京萬歳 順若 才若 末丸 お玉 寅月

 と、いう記述を確認することが出来る。寄席に出ていたといた証拠であると同時に、末丸の実在は確認できるが、荒川末丸と同一人物か、となるとこれもまたわからない。  

 真偽は別にして、『上方』という雑誌に、尾上二平という人がこの一座について触れた「まんざいの変遷」という文章を掲載している。

 大正三年八月、京都市下立売の紅梅館、中立売の大宮館、堀川の朝日座、千本の長久亭、三条の国技館等掛持ちで、奇術、かる口、落語、曲芸などに混り、「東京萬歳」と銘打って、順若、才若、末丸、お玉、寅月などが、十銭木戸で演ったことがあった。これらが「まんざい」と称して、落語の間の色ものとして出た嚆矢ではなかったか。

 これはまさに『落語系図』記載の資料と年代的にも内容的にも合致する。しかし、なぜ東京萬歳と名乗ったかは分からない。

 なお、ここに出てくる順若とは『大衆芸能資料集成』内でもたびたび取り上げられる萬歳のパイオニアの一人、市川順若である。

 彼は三河や知多の萬歳を取り入れ、鈴木源十郎らと萬歳芝居を創始して、祝福芸ではない演芸としての萬歳を披露した先駆けのような存在で、「大衆芸能資料集成」の16~18ページに小伝が出ている。

 それによると、大正5年3月10日に52歳で死去したとある。なお、この順若の子供は親の亡き後、二代目順若を継ぎ、後に松鶴家千代八の門下に転じて、日の丸と改名した、この日の丸の元に入門したのが、松鶴家日の一である

 また、桜川末子が香川登志緒『大阪の笑芸人』掲載の対談の中で、

『末丸、艶子、これは夫婦……』

 と、回顧しているのも、わずかな手がかりであるが、これ以上の事は触れられていないので、詳細は一切不明。

 東京での活躍を裏付けるような資料は目下殆ど確認できていないが、松鶴家千代若と桂喜代楽が小島貞二の取材に対し、  

喜代楽 (自身の経歴を語った後、)震災の前の年、大正十一年の夏に安来節一座のつなぎで初めて上京した時は「なんでお盆に万才やるんだ」と変な目で見られたものです。大阪で大流行の万才も東京では、ウグイス・チャップリン、末丸・艶子が寄席に出ている位でまだまだでした。

千代若 そう、昭和三、四年ですね。その時はまだ五、六組しかいませんでしたよ。立花家デブ・花助、小桜金之助・セメンダル、荒川末丸、東喜代駒、林家染団治、荒川清丸位でした。

 と、答えているのが一番信頼のおけそうな情報か。千代若の発言と先述の『落語系図』の記載ともに一致する点から見ても、嘘は言っていないと思われる。

 また、同じく松鶴家千代若が小沢昭一『ことほぐ 萬歳の世界』のインタビューに対し、

(漫才師として初上京した時の思い出を語った後、)それに初代の玉子屋円辰さんの弟子の玉子屋末丸さんがおったんです。末丸さんって人は東京で死んだから、帝京座でお葬式したんですから。

 とも語っている。

 末丸の名前が最後に見えるのが、『都新聞』(1926年3月4日号)の広告で、「▲御園劇場 関西万歳玉子家艶子同末丸新加入」とある。

 また、艶子が帝京座に出た記録としては、『都新聞』(1927年3月30日号)に「▲御園劇場 三十一日より関西万歳玉子家艶子、小春、辰丸加入」という広告がある。

 1935年には確実に没していたのは確かで、同年『都新聞』(1935年8月7日号)に掲載された「漫才銘々傳」の中に、朝日日出丸と末丸夫妻との交友が記されている。

相棒日出夫の悲嘆狼狽は言ふも更なりだが一座の玉子家末丸夫妻が迚も親切な人で、親身も及ばぬ位に面倒を見てくれたのでやつと息つくことが出来た、夫はこの病氣は冷えが原因だから、先づ温めなければならないと、早速自分が肌に着けていた赤毛糸のシャツを脱いで着せてくれた、日出丸は生涯を通じて、この時程人の情けに泣いた事はないといふ、さればこそ、彼は、今舞臺に使ふ幼稚園の先生の時などにカブるあの珍妙な手製の鬘の芯には、このシャツが畳んで入れてあるのださうな、いゝ話ではないか、そして彼は末丸は既にこの世に無いが、せめて妻女に會つてその時の恩報じをしたいと機會ある侮に行方を探してゐる

 上記の文章から推測するに、1927年頃に亡くなった、と考えるのが妥当な所か。

 なお、遺された艶子は大和家かほるとコンビを組んで、その後も漫才を続けていた。

 詳細求ム。

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