隼飛郎・黄金龍尾

隼飛郎・黄金龍尾

飛郎・竜尾(右)

春うれし・秋たのし時代

 人 物

 はやぶさ 飛郎とびろう
 ・本 名 島田 寿三
 ・生没年 1935年1月5日~ご健在
 ・出身地 東京 日本橋

 黄金こがね 龍尾たつお
 ・本 名 鳥居 義光
 ・生没年 1934年ご健在?
 ・出身地 東京 池尻

 来 歴

 結論を先に言うと、飛郎は今日も活躍する「青空うれし」、竜尾は初代「青空たのし」である。ここでは、二人がどんな理由で出会い、別れたか、というまでのみを記す。青空うれし・たのしの活躍は、青空うれし・たのし(工事中)を参照にしてください。

 飛郎は、日本橋にあった株屋「島田商店」の一人息子として生まれる。本人曰く、「本当は1934年12月29日生れだけど、年末で出生届を出すのが遅くなって、誕生日がずれたんだよな」。

 戦前は非常に裕福だったそうであるが、戦時中に伴い栃木県で疎開生活を送る。敗戦後、東京に戻り、若柳句馬という人から俳句の手ほどきを受けた。

 駒留中学を経て、駒大付属高校に進学。在学中は野球と文芸部に打ち込んだ他、浅草や花街などにもよく顔を出したという。このころの珍談・猥談がずいぶんあるが、ご本人の名誉のため、目下は伏せておく。

 後年、青空一門で一緒になった青空南児(塙健二)も同級生であったという。

 一方、竜尾は池尻大橋にあった急須問屋『鳥居商店』の次男坊だったそうで、うれし氏によると、「高級な急須なんかを扱う大きな問屋だった」そうである。

駒留中学時代に島田寿三と同級生となり交友を深め、駒沢大学付属高校、駒沢大学と仲良く進学。悪友達と共に自由で活気のある青春時代を過ごした。

 飛郎(うれし)の半生は、当人から取材をして、綿密な記録(?)を得ている。

 ダラダラと物を書くよりも、当人の口から語っていただいたそれの方が面白いので、これを引用することにしよう。ここに、竜尾との関係やコンビ結成前後の話も出てくる。

(平成二九年三月三日 駒沢大学学生食堂にて収録) 

問 まず、師匠のプロフィールからお伺いいたします。 

青空うれし(以下 「う」) 昭和十年一月五日、東京都日本橋蛎殻町生まれなん だけども、住んでいた家は小石川の松ヶ枝町にあった。家業は「島田商店」という株屋で、俺が生まれた頃には中々景気が良かったと見えて、三十人近い従業員も雇っていたし、交 換手――当時、株の取引は電話だったんだけど――そういう取引の応対をする交換手も五、 六人いるようなところだった。 

問 師匠はお坊っちゃんだったということでしょうか。 

う まあ、そうなるな。小石川の自宅は三十二、三近い部屋のある三階建の豪邸だったし、家には女中が八人くらいいたし、当時としては珍しい自動車が三台――クライスラ ー、フォード、ビュイックって高級車ね。しかも、その一台ずつに専属の運転手がついて いたんだよ。 

問 本当にすごいお坊っちゃんですねぇ。 

う だから、子供時代に友達呼んで、家でかくれんぼしたりするんだよ、広いからさ。 でも一度呼ぶともう二度と来なくなっちゃうン。広すぎてみんな迷子になっちゃうんだよ。 しかも、他の部屋は電気がついていないから、暗いだろ? そうすると子供ってのは心配 になってきて、べそかきながら探し始めるんだな、これが。そのせいか、いつの間にか家で遊ぶことがなくなってしまったんだな。その頃、聖路加幼稚園ってところに通っていたんだが、そこの行き帰りは車だったんだよ俺。 

問 ちなみにご家族は……。

う 俺は一人っ子だった。父親は寿一といって、これで、「としかず」って読むのかなあ、 俺も「島田寿三」って書いて、「としぞう」って読むからさ。でも周りは「じゅいち」って 呼んでいた。母親は「きみ」、平仮名のきみ、ね。親父は仕事で忙しくてあまり帰ってこなかった。当時は株で随分儲けていたようだし。 まあはっきり言うと、親父は好きではなかった。本当にだらしないやつだったしね。

問 随分と恵まれた環境の中で育ったようですが、あの戦時中は如何したのでしょう? 

う 本当は縁故疎開する予定だったんだけど、友達が多いって理由で学童疎開にしたんだな。栃木県に鹿沼って所があるだろう、鹿沼をもっと山奥に入った上都賀……当時、下久 我村って言ったところにあった常真寺って所に疎開したんだが、失敗だったんだな、これが。ひでえもんだったよ。 

問 酷いと仰りますのは…… 

う 引率として担任とその家族もついてきたんだが、そいつらはいい部屋をさっさと占 領しやがって、俺達は本堂でそれこそ雑魚寝のように寝かされたわけだ。しかも飯はとんでもなく粗末な上に、病気になると「食う元気もないだろう」とかいって水しか飲ませてくれなかった。それこそ餓死寸前だよ。さらに、田舎の子供が俺ら、都会の子供をいじめるんだよ。集団疎開だ、なんだってね。ひもじいやら、いじめられるやら、苦しいやら、最悪だったねあの頃は。しかしね、ある時、柳行李の中を見たら、母親が多分こっそりとしまったんだろうなあ、海軍刀が入っていたんだ。 

問 海軍刀ですか。 

う 将校さんなんかがつける、いわば飾りみたいなもので武器にはならないような代物だけどね。俺が小さい頃は親父が刀集めに凝っていて、それこそ刀箪笥の中には何十、何 百と刀があったんだけど、思えば三池典太とか、色々立派なものがあったなあ。多分、そこから一本海軍刀を拝借したのだろう。でも、初めて見つけたときは学校に差していけなかったよ。 

問 どうしてですか? 

う そりゃ腐っても刀だしなあ、しかも担任がいる手前、何を言われるかわからないし、没収されるかもしれないと思ったからさ。でも、毎日同級や友人がべそをかいて帰ってくる、いじめは止むことがない、遂に俺もカッとなってこいつを田舎の子供たちの前でパッと抜いて振り回してやったんだ、無論、威嚇のためであって、斬りつけたりはしなかったけど。そうしたら、相手は驚いたのなんの、サッーって蜘蛛の子のように散っていったよ。 そりゃ、いくら海軍刀でも子供が刃物を振り回されりゃ驚くよなあ。 

問 (笑)

う そうしたら、いじめていた子どもたちは親にそのことを伝えたんだろうな、まあそりゃ伝えるだろう、 子供が刀を振り回したんだから。そうしたら、俺の名前が島田といって、刀を持っていると知った親たちは、当時、海軍の大将だった、シマダ大将(註・海軍大臣、嶋田繁太 郎か)の身内かなんかに違いない、って思ったらしいんだよ(笑)それ以来、俺の元にはいじめっ子は来なくなったな。それどころか、俺が通るとみんな逃げていったりして。そ の後は割りかし環境は良くなったけどね。 

問 もうその頃から後年の度胸の良さの片鱗を見せられておりますね(笑)。 

う でも、その時、人間一つでもびっくりさせるものがあればうまく世渡りができるって思うようになったね。あれだけしつこかったいじめっ子も軍刀一つでピタリと収ま ったように、なんか一つびっくりさせるものがあれば、人間はうまく立ち回れるんだなあ、ってよ。その後、縁故で千葉に移動したんだが、そこもまあ……。 

問 その後、小学四年生の時に終戦を迎えられておりますが、その後はどうしたのでしょうか。 

う:空襲で何もかも焼けちゃって、世田谷の下馬、今の学芸大のすぐ近くの家を間借 りしたんだ。でも、この時、すぐに生活を再開させればよかったのに、グズグズしてい たら、間借りしたはずの家に人が勝手に住み着く始末だし、昔の家の方の土地もみんな罹災者が住み着いているような有様だった。しかも、親父という人間はどうも株屋あが りのせいか、上手く当たればこんな生活すぐに抜けることができる、っていうような人間で、家族には厳しいくせに他人様には甘くって、「人様が困っているときはお互い様だ。 この人たちは焼け出されて住むところがないんだ」とか言って、その後すぐに入れば少しはまともな生活を送れたかも知れないのに、全く台無しにしてしまってさ。 

問 逆に師匠らが追い出されてしまったと。 

う さらに、元の家の焼跡には焼け残った刀や家財道具もあって、親父もそれを見ているはずなのに、持ち帰ったりすることはなかったんだ、馬鹿な親父だよ。あの頃は金属に価値があったんだから持ち帰ればいくらかの金になっただろうし、刀一本あればそれなりの値段で売り払えたかもしれないのになあ……。 

問 師匠も大変な時代を過ごされたのですね……。そうこうしている内に中学へと進級なされましたが、どちらの方へ入学を? 

う 世田谷区立駒留中学校ってところ。で、その頃から俳句にどっぷりとハマるよう になって、雑誌や新聞なんかに投稿するようになったんだよ。それで佳作とか天地人と かなんとかいう賞に入ると、金こそはもらえなかったけど、ノート一式とかボールペンとか、当時としては結構貴重なものがもらえたんだな。 

問 その俳句はいつ頃より覚えられたのでしょうか。 

う 下馬の間借りの家の大家さんが、星野さんっていう人だったんだが、この人は若柳句馬(わかやぎ・くま)って言う俳号も持つほど、まあ俳句好きの人でね、何かあると句会を開いていたんだ。で、小学五年生の時だったかな、子供だからそういうのが気になってさ、よく 出入りしていたんだよ。そうしたら、その大家さんが
「坊や、俳句に興味があるのかい」
とか何とかいってきて、
「なんでもいいから五七五埋めてみな」
と教えてくれたんだな。
こちらも子供で何度も句会を覗いているから、大体のコツってのは分かっていて、それ らしいものを作ったら大変褒められたんだこれが。それ以来、俳句に凝り始めて、色々やったよ。半線五十句とか。

問 半線五十句? 

う 線香を半分に折って、火をつける。それが燃え尽きる前に即興で五十句を作るっていう遊びだよ。 

問 ははあ、井原西鶴みたいなものですね。それでその後は……。 

う 中学卒業間際に英語の授業を受け持っていた中西って先生が生徒の前で、「駒大の付属に入らないか?」って尋ねてきたんだな。でも、その時、「はい、入ります」なんて正直に答えるやつはいなかった。そしたら後日、三十人ばかり集められて、「条件はあるが、君たちを無試験で駒大付属に入れてやる」って言ってきた。よく考えたらそこに呼ばれた奴らは勉強のできない悪い奴らばっかりだった(笑)。結局そこに行くことに決めて、面接だけで通っちゃったんだ。大学も同じ風に入ったけどね、逆に大学進学の時は駒大以外に行くことを考えるなら卒業させないって脅されたけど。単位も足りてなかったし。

問 高校の頃はどんな学生生活を送っておりましたか。 

う 幼い頃から野球が好きだったから野球部に入ったけど、一年の時に肩を壊してしまってマネージャーに転向したんだ。もっとも、その後も野球は好きでやっていたし、今でも縁が深いけどね。それと並行して文芸部にも所属して、こちらは部長を務めた。後は、祭りの手伝いや仕事を請け負ったり、友達なんかと連れ添って花街なんかいったものだよ。 

問 花街ですか(笑)。 

う 赤線、青線、吉原、鳩の街――鳩の街は一回くらいしか行ったことないけど、一番行ったのが川崎だ。あの辺りは随分と華やかだった(笑)、後、祭りの手伝いしたり、鳥居や仲間と祭りの舞台の前座で漫才や漫談もどきやったりな。新宿の東口にいた靴の露天商やテキ屋と仲良くなったりしてな、進駐軍から流れてくる靴を買っては芸能事務所を回って、「買ってくれませんか?」って頼みに行ったものだ。 

問:なぜ、進駐軍の靴を? 

う:その当時、進駐軍の靴なんていったらとても大きくて、男物なんか入らないんだな。日本の男はアメリカの女性サイズで事足りてしまうんだな。で、中ヒールの靴というのは、今でこそ底上げなんとかっていうのがあるが、当時はそういうものが不足していてね、歌手なんかでも少し背を高く見せようと色々苦心していたんだよ。その苦肉の策として、いうのも変だが、中ヒールは底上げをするにはうってつけのもので、いいものを持っていくと芸能事務所がこれを買い取ってくれるんだ。そういうことを昭和二十七、八年にはもう盛んにやっていて、だから小遣いに不足したことはなかったな(笑)。 

問 師匠、悪く申し上げますが、大変な不良ですね(笑)。 

う ま、不良だよな(笑)。これは後年知ったことだが、やはり同じ頃、俺と似た界隈にいたのが、宮田章司だった。後で色々暴露されて困っちまったよ(笑)。「この人は悪い人だよ。するめの靴を売って来た」ってさ(笑)。

問 宮田さんの売り声や啖呵売はそこから来ているのかもしれませんねえ。 

う それに、同級生の鳥居ってやつと漫才コンビらしいものを組んで、お祭りなんかの余興に出たりしたのもその頃だった。 

問 やっと本題らしくなりました。その鳥居さんというのは? 

う 鳥居義光といって、世田谷にあった瀬戸物問屋の倅でね。俺とは中学からの同級生で、中高大と一緒だった。どこに行くのも一緒、何するのも一緒、いわゆる親友って 

やつかな。今も健在だけどね。そんな関係だったからか、自然にコンビを組んでやり始めた。だからどちらがスカウトしたわけでも頼み込んだってわけでもない。なんとなく、気がついたら自然な流れでコンビを組んでいた。 

問 なぜ漫才を? 

う 漫才が好きだったからね。後は何となくってところもある。 

問 漫才が好きと仰られましたが、ファンになった、あるいは、こう目標や憧れになる漫才師でもおられたのでしょうか? 

う うーん、俺は特にファンを作るって言うタイプではなくて、純粋に娯楽として楽しんでいたな。ラジオやレコードから流れてくる芸能としてさ。 

問 例えば、どんなコンビが思い出に残っておられますか? 

う そうだなあ、リーガル千太 ・万吉英二・喜美江、亀造・菊次マンマル・シカク栄龍・万龍一歩・道雄とかだなあ、代表的な所をあげると……。 

問 でも、その頃にはまだ漫才師になろうなんては……。 

う 思わない思わない。まさかその時、漫才師になろうとは一つも思わなかったね。 

問 その転機となったのが昭和二十八年に出られた「のど自慢」というわけですね。 その頃はもう駒沢大学に入学しておりましたか? 

う エスカレーター進学でな(笑)。大体、さっきも言ったように、駒大以外行ってはダメだ、他の大学に行こうっても、単位が足りないから卒業させない、って脅されたもんだよ。まあ、あの頃はまだ随分と学校自体がゆるい時代だったけどなあ。 

問 鳥居さんも一緒に進学なさったのですか? 

う うん。それで、成り行きからのど自慢に出ることになった。昭和二十八年の五月ころだったかな。まだ大学一年になったばかりだった。 

問 それは、芸人になるとか、夢を叶えるための野心的な挑戦ではなく、話題づくりや話の種として、みたいな感じでしょうか? 

う そうだなあ。だから、全く憂いも緊張もなくて、お遊びのような感覚で出たよ。「おい、こんなのがあるから出てみようぜ」みたいな、そういう感覚だ。 

問 その、のど自慢というのは今もやっているNHKの……? 

う いや、違う。当時TBSだったかなあ、でやっていた「素人のど自慢大会」っていう番組だな。スポンサーが丸石自転車っていう大手企業で、優勝すると自転車が贈られるというのが大きな目玉だった。しかし、これがどんな人数で出ても一台しか贈られないことを、優勝した後に知ってな、相方の鳥居と
「俺がサドル、お前がペダル、俺が前輪、お前が後輪……」 って分けようかって(笑)。漫才よりこっちのほうが面白いくらいだ(笑)。 

問 その時の選考方法とか、会場とか分かりますでしょうか? 

う 予選が日比谷にあったビデオホールで、決勝が日比谷公会堂だった。選考方法ねえ。本当になんの緊張も憂いもなく遊びのような感覚で受けたからなあ。 

問 今ののど自慢みたいに、番号でもつけて出たのでしょうか? 

う 多分そうだろう。 

問 ちなみにその時は、本名で出られたのでしょうか。 

う いや、即興でつけた隼飛郎・黄金竜尾ってコンビ名で出たんだ。 

問 どちらがうれし師匠ですか? 

う 隼飛郎。これはペンネームみたいなものでね、隼って鳥も言葉も好きだった。で、 雑誌やら文芸誌に俳句なんか出す時に名乗っていたんだな。今でこそ、みんな、俺のこ とを青空うれしって呼ぶけど、ボンボンブラザーズとか健ちゃん――鏡味健二郎なんかは未だに「とぶちゃん」「とびちゃん」って呼んでくるよ。修行時代以来の仲間だから。 

問 それで出場なされたと。予選や本戦の様子なんか覚えておられますか。 

う 決勝のほうが少しやる時間が長かったのは覚えている。やっぱり優勝者なんかを選ぶからかな。 

問 その時の審査員など、覚えておられますか? 

う 審査員は一人だけ覚えている。江口夜詩。岡晴夫の代表作「あこがれのハワイ航路」なんか作った作曲者だよ。 

問 ネタの方などは? 

う 確か、文芸とか俳句とか――さっきも言ったように俺は俳句や川柳が得意だったから、学生の頃に作ったものなんかを上手く取り入れた漫才をやったな。文芸的というのかねえ。有名な句を方言で茶化したり、変な解釈をしたり。 

問 そういうネタは古くは突破・一路、戦後はトップ・ライトや千夜・一夜なんかがやっておりましたね。「僕の俳句」、「一茶かホイ」とかそういう題名で……。

う まあ、俳句のネタってのは古くからあってね、結構やりやすいんだな、これが。「刑事ふと同じ訛りで柿を剥く」なんて、学生時代の句を漫才の中に入れてやったんだ(笑)。 

問 反応はどうでした。 

う 受けたよ。そりゃ優勝したからなあ。「学生は面白いものを考えるものだ。これからの漫才はこうでなくちゃいけませんよ」って審査員に大いに褒められた。その時、二位だったのが、確か、島倉千代子だ。 

問 え! あの島倉千代子ですか! 

う うん。その後、華々しくデビューしたはずだぜ。昭和二九年か、三十年くらいに。 

問 よく勝てましたね。 

う やっぱり、島倉千代子はうまかったぜ(笑)。 

問 なるほど……、大変な御経歴で(笑)。それで、この優勝がきっかけとなって芸能界に入られたのですか? 

う そうだなぁ。優勝したその後、鳥居と日比谷公園を歩いて帰ろうとしていたら、川村って人に声をかけられた。君、青線って知っている? 

問 ……今の新宿とか歌舞伎町付近にあった花街のことでしょうか。 

う そう、その川村って人は、青線に「旭芸能」っていう事務所を持っていた社長――といっても、従業員などいない個人経営の小さい芸能事務所だったけど――に声をかけられた。
「のど自慢見たよ。君たちはプロ?」って。
「いいえ、違います。やっていません」
って答えたら、
「そうか。君たちいついつ何日空いてない?」っていきなりそう聞いてくる
んだ。なんだと思ったら、「東北巡業の仕事があるから出てくれないか」って仕事の依頼なんだな。それが五月の終り頃だったかなあ。 

問 東北の旅ですか。 

う 確か、一週間から十日の旅でね。ギャラも出るっていうんだな。でも困った事に、俺らは舞台に出るための衣装――正装ってもんを持っていなかった。高校の頃から、生意気に背広なんか作って着ていたけど、大体は運動靴に私服っていうスタイルで、舞台に出られるような恰好はしていなかった。それで躊躇していると、川村社長が、「Yシャツと学生ズボンで舞台に出れば大丈夫だ。舞台用の靴はこっちで買ってあげるから」って言ってくれて、シャツと靴を買ってもらったんだな。これがきっかけとなって……。 

問 芸能界に入られたと。 

う うん。後で親父と喧嘩することになったけど、俺からすれば、金貰って旅ができるって思ったから、魅力的だったよ。親父はキレたよ、「河原乞食にするためにてめえを産んだんじゃんねえ!!」ってな(笑)。

問 しかし、芸人になってからどう仕事を得ていたのでしょうか。今みたいにケータイやメールや掲示板があるわけでもないのにどうしていたのですか。 

う うん、それはね、同じ仲間や芸人が「どこそこに芸能事務所がある」とか「こういう仕事がある」ってのを紹介してくれるんだよ。それで事務所を訪ねて、はまる――相手が求めていた人材だと、その仕事をもらえた。だから、随分と芸能事務所に行っては仕事をもらったものだ。 

問 その芸能事務所はどういうところにありました。あの、大朝家五二郎とか玉子家源一さんとか芸能事務所をやっておられたでしょう。 

う そうだなあ。浅草がやっぱり一番多くて、大小問わず芸能社がたくさんあった。五二郎にも源一にもあった事があるよ。それに浅草には芸人アパートっていう芸人が経営し、芸人が入居しているアパートがあったなあ。後、葛飾なんかにもその芸能アパートがあった。

問 そういう所で仕事を貰いながら、やっていたわけですか。 

う さっきも言ったように、本当に遊びの延長みたいなものだったけどね。ギャラが貰えて旅も出来て、しかも巡業先では宴会があって、女なんかもチヤホヤしてくれる、大学も金を払っていれば、卒業できたし(笑)、そりゃヤクザとかの出入りや御難もあったけど、巡業や仕事が面白くて仕方がなかった。 

問 そうして遊びとも仕事ともつかない事をやっている内に人脈が出来て、昭和三十年二月に漫才研究会――今の漫才協会が結成された時、会員の一組として入れられた、と前に伺いましたが。 

う 本当の所を言うと、入る予定なんかさらさらなかったんだ(笑)。 

問 確かに暫定的な名簿だと、師匠の名前はありませんが、旗揚げ公演の後は初期メンバーとして参加されておりますね。 

う その旗揚げ公演の時にはね、俺たちは観客として、まあ漫才のファンとして観に行ったわけで、全く関わろうなんて思っちゃいなかったんだ。そうしたら、その会場で東ハチローっていう漫才師に――この人はよく裏方なんかやっていたんだけど――「君たちは漫才をやっているの?」と尋ねられてね、その時、素直に「ハイ」って答えたら、「なら、上がりなよ」って、舞台にあげられちゃった(笑)。俺たちは出るつもりなんかまったくなかったのに(笑)。 

問 (笑)。しかし、なんで師匠が漫才をやっているって分かったんでしょうねえ? 

う そりゃ、さっきも言ったとおり、芸人から仕事や事務所を紹介してもらう事が多かったからねえ。色々な場所で仕事をすると面識も増えるだろ。 

問 なるほど。それで漫才研究会に入会なされた、と。 

う 実際の所を言うと、当時、漫才研究会の会長をやっていたリーガル万吉師匠が「この子たちも大会に出たのだから会員にさせてあげないとな」って言って入れてもらえたんだな。その当時の俺は、まだトップさんのとこにも行ってなくて、師匠や大御所に向かって、生意気にずけずけと物を言ったりしていたから、面白くねえって思っていたやつもいたかもしれないが、結局、会長の決定だったから、特に反対する声はなかったな。それに俺は万吉師匠なんかの前では要領よく立ち回って、気を利かせていたから、随分と気に入られていたんだな。そのせいか、後で、万吉師匠から「うちの娘は芸人に嫁がせるつもりはなかったが、うれし君は別だ。彼ならいい。是非ともあの子の所に嫁に行かせたい」っていう話が来て、困っちゃったよ、俺は(笑)。 

問 随分と渡世が上手いですね、師匠は本当に(笑)。ええ、師匠が漫才研究会に入会した時はまだ鳥居さんとやっておられたのでしょうか? 

う そうそう。でも、そのすぐ後に、鳥居は家族に反対されたとか女との関係とかで別れてしまって、北川要ってやつと組んだ。 

問 北川要さんは、師匠が青空うれし・たのしで売った時分の相方さんの本名ではありませんか? 

う そうなんだよ。元々、俺と北川で岡晴夫の一座に入って、専属司会をやっていたんだ。でもな、岡さんって人は漫才が好きじゃなくて、舞台では漫才をやらしてくれなかった。そういうのがあって、結局、漫才の未練が断てなかった俺は、岡さんなんかと相談して、飛び出したんだ。その時、岡さんに「君は一座に残って、僕がこの一座を解散する時まで、いてほしかった」と、言われた時には、すごくうれしかったな。北川の方はその後もいろいろ事情があって、一人で専属司会をやっていたけど。 

問 岡晴夫一座に出入りしていたのは何年頃でしょうか。 

う 昭和三十二年くらいかな。で、その後に、真山(恵介)さんの紹介で武田健三っていう北海道生まれの男とコンビを組んだ。真山さんがね、「この人を漫才師にしてくれ」って頼んできたんだよ。 

問 トップ・ライトの門下に入られたのはその頃ですか? 

う そう、武田と組んだ直後だったな。その頃、トップ・ライトだけじゃなくて、大空ヒットさんだとか、一歩・道雄さんなんかからも「うちに来ないか」って、オファーが来て大変だったよ。でも、俺の気性もあるのか、弟子入りってのは何か気が乗らなかったなあ……。 

問 それでもトップ・ライトの門下に入られましたが、何か事情でもあったのでしょうか?

う 事情ってものでもないが、まず自分をかわいがってくれた桜川ぴん助さんがね。 

問 ぴん助・美代鶴さんですか。

う そ。トップ・ライトの所がいいって、後押ししてくれたんだな。昔、トップ・ライトの二人はこのぴん助さんの家に居候していて、随分世話になった。ぴん助さんの家にあった炭なんかちょろまかしたりしてな(笑)。まあそれが一つ。そして、もう一つは、その当時、俺は歌の司会をやりたいという願望があって、コロムビアレコードの専属だったトップ・ライトの二人が大変魅力的だったんだな。今でこそ、歌手は芸能事務所を設立したり、大手の事務所に所属するようになったが、その当時は歌手のほとんどはレコード会社の専属でね、レコード会社の専属司会者になれるってのは大きな目玉だったんだよな。 

問 漫才よりも司会の方が魅力的で門をたたいたというような感じでしょうか。 

う ま、そうだな。 

問:その時にはもう千夜・一夜さんが兄弟子でおられたでしょう。 

う あの二人は青空一門では兄弟子に当たるけどね、でも、芸歴では俺の方が古いし、一応の仕事や人気もあったから、二人は俺の事を「うれしさん」って、呼び捨てにすることはなかったな。俺が漫才師になったときは、まだ一夜は自衛隊にいたし、千夜の方はライトさんのカバン持ちをしていたんだから。

問 ははあ、そういう複雑な事情があるわけですね。ところで、うれし・たのしっていう芸名は誰がつけたのでしょうか? 

う 自分たちでつけたな。 

問 それはどうして……。 

う ひらがなの名前は人に覚えてもらいやすいし、うれし・たのしっていう言葉も陽気だしね、平仮名かカタカナでなきゃ損だと思ったよ。何とか屋とか何とか亭なんてなんかパッとしないだろう、古臭く感じられるしなあ。 

問 それでうれし・たのしと改名なさったあとは……? 

う 武田とコンビを組んで、四、五年くらいやっていたけど、どうも武田ってやつは体が弱くて、芸人のスケジュールをこなせるだけの元気がなかったんだよな。遅刻とかもあったしなそれに加えて、司会が全然だめだった。言ってしまえば、芸人向きの人ではなかったんだろうな、結局、 コンビを解消して、また北川要と組み直したんだ。北川は、俺とコンビをもう一度組む前から、漫才に戻っていたんだけど、先輩の相方にいじめられていてねえ……。 

問 なんて人ですか? 

う 何といったか……、神経質そうな、あまり面白くない不気味な人だったってことは覚えているけどね。 

問 それで、青空うれし・たのしとして、人気者の階段を上っていくわけですね。

 なお、相方と別れた後の鳥居義光は結婚して、芸能界を離れ、家業である急須問屋の仕事に従事したとの事。堅気になった後も、長らく交友があったというが、年を取って疎遠になってしまったという。今日、ご健在かどうかわからない。

 一方、うれしと改名した飛郎は、「青空うれし・たのし」として、東京漫才を支えるスターとして君臨、「ウィークエンダー」などのレポーター、タレントとして売れていったのは周知のとおり。→ 青空うれし・たのし(工事中)

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